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10ー1.色に溺れる ※
しおりを挟む結局ニーナが目を覚ましたのは、太陽が間もなく沈むという頃合いだった。
侍女が報告に来てすぐ、執務に切りをつけてニーナのもとへ向かう。しかしあいにく入浴の最中であった。自分の部屋なので寛ぎながら待っていると、バスローブ姿のニーナが、侍女に手を借りて浴室から戻ってきた。
よろよろとした足取りでヘンリーが腰かけているソファに辿り着くと、ニーナは倒れ込むように座る。ヘンリーの腿に頭を乗せたニーナは、寝起きにもかかわらずぐったりとした様子だ。
入浴を介助した侍女たちは、そそくさと退室していく。
ヘンリーはニーナの濡れた髪を撫でた。しどけなく横になるニーナは、着ているバスローブの襟元に気を配る余裕もないようだ。ヘンリーが昨夜つけたおびただしい数の痕が残る胸元が、誘惑するようにさらけ出されていることにも気づいていない。
「身体があちこち痛いわ」
「ごめんね。マッサージしようか?」
「ううん。私、帰らないと……」
ニーナのその発言に対して、ヘンリーは少しの間をつくってから口を開いた。
「そのことなんだけど、ちょっと噂を耳にして……どうやら本物の公爵令嬢が見つかったそうだよ」
ヘンリーが躊躇いがちに伝えると、ニーナはビクッと固まっておそるおそる見上げてくる。
噂を聞いたも何も、ヘンリーが本物のニーナを見つけてきた本人だ。しかしニーナは、「イングリッド公爵邸とハイデル公爵邸はお隣さんだから噂が入ってきやすいんだよ」というヘンリーの適当な主張を疑わなかった。
「じゃあ私は、もういらないってこと……?」
「ハイデル公爵は君を殺そうとしている。今まで別人を公爵令嬢として偽っていたことを隠すために」
「…………はっ、あはは」
ニーナは身体を起こし、乾いた笑い声を漏らした。
「殺そうとしてるって……なら私、奴隷に戻るの? 奴隷を殺しても罪にはならないものね」
ニーナを痛ましげな表情で見つめるヘンリーは、そっと手を伸ばした。両手でニーナの頬を包み込み、流れる涙を拭う。
「行くところがないのなら、僕のところへおいで。このままここに隠れていればいい」
「いいの……?」
「いいよ」
ヘンリーが口づけると、ニーナはこみ上げた熱い息で喉をぐっと鳴らした。目の奥も鼻も喉も熱くなって、悲しくなんてないのに涙が出る。ハイデル公爵家から逃げようとしていたのはニーナだ。しかし自ら逃げるのと捨てられるのとでは全く違う。
自分がこれまでしてきた努力がすべて無駄だったんだと知らされる無力感と、やり場のない悔しさ。はじめからわかってはいたことだけれど、十年あまりを娘として過ごしたにもかかわらず、情をかけらも抱いてくれていなかったのだという事実を、改めて突きつけられた。
「お父さ……ハイデル公爵が私を殺そうとしているなら、匿えばあなたも面倒を被るかもしれないわ」
「いいよ」
「もう私は公爵令嬢でもなんでもないのに、それでも言いなりなのね」
微笑むヘンリーの態度はいつもどおりだった。ヘンリーは最初からニーナが本物の公爵令嬢ではないことを知っている。とはいえニセモノであろうと公爵令嬢だった以前とは違い、今のニーナはただの奴隷で、接する態度を変えたっておかしくはない。普通だったら見捨てている。
――相変わらずヘンリーはお人よしで、優しすぎるにもほどがある。悪い人間に騙されたり、つけ入られたりしそうだ、とニーナはヘンリーに呆れてしまった。
くす、と力なく笑うと、ニーナはヘンリーの肩口に顔を埋める。
「コリン侯爵と結婚させられるくらいなら、かえってこのほうがよかったのかもしれないわね……」
しかしヘンリーだって、いつまでもニーナを受け入れてくれるとは限らない。ニーナの表情からは憂いが消えることはなかった。
「ヘンリー……昨日の、もう一回して」
もう一度、今こそ、頭の中を空っぽにしてしまいたい。何の不安も、憂いもなく、快感だけに溺れていたかった。
ニーナはヘンリーの首筋に口づけ、舌を這わせて耳朶を食む。
ヘンリーはニーナを見下ろすと、唇をそっと重ねた。
「……君の本当の名前を教えて?」
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