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しおりを挟むそれからダリアは、毎日のようにヘンリーを求めるようになった。昼も夜もなく、目が覚めたらヘンリーに抱かれて、気絶するように眠るのだ。何も考えないで済むように。
それでも、少しの隙間時間ができると思考は悪いほうへ巡っていった。
今、ハイデル公爵家はどうなっているのだろう。ニセモノのニーナがいなくなっても、きっとあの家はいつもどおり回っていっているのが想像できた。本物のニーナはこれからどうなるのだろうか。きっと本物の娘はコリン侯爵などではなく、もっといい家に嫁がせるはずだ。
誘拐された彼女がどんな暮らしをしていたかわからないが、これからは幸せになれるに違いない。
ダリアとは正反対の、明るい未来へ向かっていくのだ。
――暗いほうへ落ちていくしかない自分は、これからどうなってしまうのか。考えたくないと思えば思うほどそのことばかりに思考が囚われて、不安ばかりがぐるぐると胸を巡る。
外に出ればハイデル公爵家の手の者に捕まって殺されるかもしれない。逃げられたとしても、よくて平民、最悪スラム行きだ。一つだけ幸いと言えるのは、奴隷だったとはいえ、暮らしていた施設は表向きはハイデル公爵家が運営している孤児院。そのため奴隷紋を身体に刻まれるようなことはなかったため、奴隷だとバレる心配がないことだ。
外では人々はどのように日々の生計を立てているのだろうか。ハイデル公爵家での地獄のような教育カリキュラムを乗り越えられた自分なら、がんばればなんだってできる自信はある。しかし奴隷として躾けられた経験と、貴族令嬢としての教育しかされてこなかった自分に、何ができるだろうか。
それにニーナ・ハイデルとして認識されているこの外見では、あまり表に出るような仕事はできない。平民はあまり貴族の顔を知らないものだが、いつ誰にどんな形で正体が露見してしまうかわからない。
いっそのこと外国へ行こうか? いや、帝国を出るときには身分証の提示が必要になる。奴隷だったダリアは身分証になるようなものなど持っていない。ダリアが持っていたものはすべてニーナ・ハイデルのものであり、ダリア自身の持ち物など一つも残っていなかった。
現実逃避しているだけの今の状況も、そう長くは続かない。
ヘンリーは自分のところにいてもいいと言ってくれる。けれどもし今後ヘンリーに好きな女性が現れたら? 婚約者ができたら? 結婚したら? ダリアの存在は間違いなく邪魔になる。そうでなくとも、今のヘンリーはかわいそうなダリアに同情しているだけだ。いつか必ずダリアに愛想を尽かすときがくる。
そうしたら、今度こそダリアは行き場を失い、一人で生きていかねばならなくなる。
ピンチになったって、デイヴィッドはもう助けてはくれない。ニーナ・ハイデルではなくなったダリアは、助けたところで彼が得をするような人物ではなくなってしまったからだ。
「デイヴィッド・シルフストンがここのところ毎日のようにハイデル公爵家を訪ねているそうだ。門前払いされているようだけれどね」
ある日突然ヘンリーからデイヴィッドの話題を出され、ダリアはわずかに動揺した。最後に会ったときにはあんなにつれない態度だったというのに、会いにきてくれたのか。一瞬うれしさがこみ上げたが、ダリアは頭を振ってそんな考えを捨てた。
もうデイヴィッドへの未練はなくしたと思っていたのに、「なくしたつもり」になっているだけなのかもしれない。
「きっと金の無心に来てるんだわ。懲りない男ね」
「…………」
「私以外にもたくさん女がいるんだから、その人たちのところへ行けばいいのに」
「…………」
ダリアが金づるにされていただけで、デイヴィッドはほかの女性にはいい顔をしていた。ダリアがあげたアクセサリーをほかの女性にプレゼントしている、なんてこともしょっちゅうだ。
よくよく考えてみると、ダリアは自分がとても哀れでならなかった。どうしてそんなひどい男を愛していたのか、疑問に思えるようになる程度には、目が覚めたのだと喜べばいいだろうか。ダリアが助けを求めたときには応じなかったくせに、恥知らずにも金の無心にやってくるデイヴィッドに対してふつふつと怒りがわいてくる。
デイヴィッドも、今のダリアと同じくらい一度絶望してみればいい。いっそ絶望を自分の手で味わわせてやればよかった。
「怖い顔をしているよ。……ダリアは、まだデイヴィッド・シルフストンのことを忘れられないみたいだね。君は知らないだろうけれど、たまに寝言で彼の名前を呼んでいるんだよ」
「…………ヘンリーが、私の中にあるあいつへの未練をちゃんと消してくれないから悪いのよ」
暴論をぶつけると、ヘンリーは穏やかに笑った。
「僕は何をしたらいい?」
デイヴィッドと最後に会ったのは、もうどれくらい前になるだろうか。あのときにも失望したはずなのに、無意識下で名前を呼んでしまうほど恋しく思っている自分が愚かで嫌になる。いっしょに逃げてほしいという願いは聞き入れてくれなかったくせに、デイヴィッドがダリアのことを手放すつもりがないように見えたから、まだかすかな希望を抱いてしまうのかもしれない。
きちんと別れを告げて、すっぱりと縁を切ったら吹っ切れられる気がした。自分からデイヴィッドを捨ててやるのだ。
「最後に一度だけデイヴィッドに会わせて」
ヘンリーは目をわずかに瞠ったあと、デイヴィッドに会いたがる理由も聞かずに、いつものように「いいよ」と答える。しかしその表情はほんの少しだけいつもの微笑みとは違っていた。ダリアはその違和感に気づけないまま、ヘンリーをベッドに誘う。
今はまだ、肉欲に溺れていたい。
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