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15ー1.薔薇の庭園
しおりを挟む翌日の昼下がり。執務室の扉がノックもなしに遠慮がちに開くのを見て、ヘンリーは仕事の手を止めた。彼女が執務室を訪れたことはないが、当主のいる場所にそんなふうに入ってこられるのはこの邸宅でたった一人。
予想どおりの顔が扉から覗くのが見えて、ヘンリーは頬を緩めた。
「どうしたの? 入っておいでよ、ダリア」
ヘンリーが手招きすると、ダリアは照れくさそうにしながら執務室の中に入ってくる。いつもナイトドレス姿のことが多いダリアには珍しく、ドレスを着ていた。
そもそも、ダリアは邸宅に来てからずっと、ヘンリーの部屋を出たことすらほとんどない。ヘンリーが知っている限り、デイヴィッドに別れを告げに行ったときだけではないだろうか。だからわざわざドレスを着る必要性がなかったのだ。ヘンリーが目を丸くするのも当然だった。
そんな引きこもりのダリアが、突然ドレスを着てヘンリーの執務室を訪れるなんて、思いもよらなかった。
――もしかして何かあったのではないだろうか。
心配したヘンリーはイスから立ち上がり、デスクを回ってダリアのもとへ駆けつけた。
「君のドレス姿は久しぶりに見たよ。着飾らなくてもきれいだけれど、さらに輝いて見えるね。でもあまりに突然で驚いたな。何かあったの? ……まさか、ここから出て行くつもり?」
ヘンリーにしては珍しく早口でまくしたてられて、ダリアはきょとんとした顔をした。
動揺のあまり表情を取り繕えておらず情けない顔をしてしまっていたのか、ヘンリーの顔を見たダリアはクスクスと笑い声を上げた。
「違うわよ。行くあてもないのにここを出て行くはずないでしょう?」
「…………よかった」
「ヘンリーでもあんな必死な顔できるのね」
「君にはいつも必死だよ」
ぎゅう、と抱き締めてくる力の強さに、ダリアはなんともいえない気持ちになった。
「ずっと部屋にいるのも退屈になってきたし、なにか私にも手伝えることないかなーって思って」
「そばにいてくれるだけで十分助かってるよ」
「そういうことではなくて!」
「もしかして、何か聞いた?」
昨日解雇したメイドの件がヘンリーの頭に浮かんだ。やはり殺しておくべきだった、と後悔しそうになったとき、ダリアが片眉を上げて首を傾げる。訝しげに「なんのこと?」と聞く様子から本当に何も知らなさそうで、ヘンリーは一安心した。
「タダでこの家においてもらっているのも悪いじゃない? だからヘンリーの仕事を手伝うのはどうかしらと思ったんだけれど、…………よく考えてみたら、私にできることなんてほとんどないかもしれないわね」
「ダリア……」
以前は自信満々の態度だったというのに、公爵令嬢という皮を剥がれた途端、自分がただの奴隷であるという認識が強まったせいで、ダリアは自己肯定感が急激に下がっているようだ。ニーナ・ハイデルではなくなったといっても、ダリアが今まで培ってきたものはそのまま彼女の身になっている。すべてを失ったわけではない。
自信を取り戻してあげることが、今のダリアには必要なことのように思えた。
何もせずにただそばにいてくれればいい、というのはヘンリーのわがままでしかないのだ。ダリアを自分以外のすべてから遠ざけて、彼女の世界には自分ひとりがいればいい。そうなるように仕向けてきた。今もその気持ちは変わっていない。
けれどダリアがやりたいことを禁止するつもりもなかった。ヘンリーの腕の中にいてさえくれるなら、ほかのことには目を瞑ってあげられる。
それに、ダリアが自ら部屋を出てきたことは確かな進歩であった。心の傷が癒えてきたのが目に見えてわかる変化だ。それはヘンリーにとっても喜ばしいことだった。
「ダリアはなんでもできるはずだよ。皇后になるための勉強だってしていたんだから。公爵家の仕事なんて造作もないに決まってる。どうだろう、試しに会計業務でもしてみるかい?」
「……私に帳簿なんて見せていいの?」
「君になら服の下まで見せられるよ」
「もうとっくに見たわよ」
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