元禄大正怪盗伝

山岸マロニィ

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Ⅰ.トーキョー・ファントムシーフ

(1)怪盗、現ル

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 夜闇に包まれた屋敷の各所から、けたたましく警鐘が鳴り響く。
 レンガ壁に反響する耳を裂くような音の中、急な傾斜の銅板屋根を、いくつもの投光器の明かりが行き来する。

 その白い円の中にチラリと姿を覗かせたのは、黒い人影。
 とがった峰の、足の幅ほどの狭い場所を身軽に走る姿は、長い丈のフロックコートにトップハットの紳士に見える。だがその動きは、まるで草原を疾駆する黒豹くろひょうのようで、投光器が追い切れないほどだ。隣接した建物を飛び移り、瞬く間に屋根の端へと到達する。

 その先にあるのは見張りの尖塔。
 その屋根裏窓から衛兵たちが現れると、影は足を止めざるを得ない。
 そして来た道を戻ろうとして振り返り、後からも衛兵の一団が追いすがっているのを見て、影は動きを止めた。

 そこでようやく、投光器の明かりが交差する。重なり合った円の中で、影は前後を衛兵に取り囲まれていた。

「ここまでだな――怪盗ジューク」

 衛兵の先頭に立つ衛兵長が、山吹色のマントの下から杖を取り出す。
 警棒ほどの長さの魔法杖――手杖しゅじょうと呼ばれているものだ。伸縮式のその先端には小型の魔法石がめ込まれていて、呪文を唱えれば攻撃魔法が繰り出される。

 彼の後ろの十名ばかりの部下も杖を構えるが、場所は屋根の上。横には広がれない。衛兵長の肩の上や脇から突き出すような格好で、怪盗に向き合う。
 衛兵長の正面、怪盗の背後にもまた、十本ほどの手杖が光っている。

 だが怪盗は動かない。痩身にまとったフロックコートの裾だけが夜風になびく。
 投光器が眩しいのか、深く被った帽子のつばで目元を隠し、表情はうかがえない。その様子を睨む衛兵長は、怪盗は追い詰められて焦っているのだと思った。
 勝利を確信した彼は、ニヤリと怪盗に杖を突き付ける。

 この建物は三階建て。急勾配の銅板屋根のてっぺんを踏み外せば、軽い怪我では済まない。
 一歩たりとも逃げ場のない、まさに絶対絶命の状況である。

「大人しく投降しろ。それとも、ハチの巣になりたいか?」

 しかし、怪盗は動かない。
 それどころか、帽子の下から覗く口元を不敵にニッと緩めたのだ。

「どちらも断る、と言ったら?」

 途端――――
光牙コウガ!」
 短く叫んだ衛兵長の杖の先から稲妻がほとばしる。雷属性の攻撃魔法だ。
 それに続き、怪盗の前後を囲む衛兵たちの杖からも同様の閃光が放たれた。

 雷属性は、上位魔法しか存在しない強力な攻撃タイプだ。破壊に特化した訓練を積んだ彼らの稲妻は束となり、前後から怪盗を狙う。

 それが怪盗に届くまで、コンマ二秒ほど。
 避けられるはずがないと、衛兵長はもとより、地上に待機する衛兵たち、路地から見上げる野次馬たち、誰もがそう思った。

 ……ところが。

 怪盗を串刺しにするはずの攻撃魔法は、彼の場所を素通りして、向き合う衛兵たちに当たって弾けたのだ。

「うぐっ!」
「ぐわっ!」
 怒号と悲鳴が夜闇にこだます。

 彼らが受けたのは、魔法によるダメージだけではない。鎧の表面を伝った電流が銅板屋根に流れ、足元を痺れさせたのだ。
 そうなっては、鍛え上げた肉体も磨き抜かれた技術も意味がない。
 足場の悪い屋根の上でバランスを崩したら最後。衛兵たちは滑らかな屋根を雪崩なだれのように滑り落ち、庭園に、路地の石畳に、為す術なく積み重なっていく。

 そんな部下たちを絶望的な表情で見遣る衛兵長は、手杖を放り出して屋根のてっぺんにへばり付いていた。
 咄嗟の判断で防御魔法を展開したものの、部下たちに引きずられて倒れたまま、体勢を保てない。
「おのれ……!」
 と、歯ぎしりしながら彼が睨んだのは、夜空の先――屋根から数メートル上空だ。

 そこでは、怪盗が悠然と彼の醜態しゅうたいを見下ろしている。
「これは酷い。君の部隊は全滅だね。部下をこんなに死なせてしまった君の責任はどうなるのかな」

「貴様――!」
 怒鳴り声を上げ立ち上がろうとした衛兵長は、しかし足を滑らせて再び屋根にしがみ付く。
 血走った目を怪盗に据え、だが彼は驚愕に身を震わせていた。

 ――どんな魔法を使えば、空中に立っていられるのか?

 帝立魔法学校を首席で卒業し、若手ながら帝立魔法軍の出世レースに勝ち残った末、公爵家の衛兵長としてスカウトされたエリート中のエリート。
 その彼が、怪盗の見せる魔法を論理的に理解できないのだ。

 噂には聞いていた――怪盗ジュークは、神帝しんていイザナヒコに匹敵する魔法使いであると。
 しかし、神に等しい存在である神帝と同じ力を持つなどあり得ないと、彼は信じていなかった。

 ところがどうだ。
 目の前で、人がひとり空中静止しているこの状況を説明するには、の存在を示さねばならないだろう。

 満ちた月が、軽く帽子を直した怪盗の顔を浮かび上がらせる。
 闇夜に溶けるような漆黒のトップハットの下から覗くのは、鼻から上を覆う黒い仮面。
 そこに穿うがたれた眼窩がんかの奥――アメジストに似た紫の瞳が冷たく光った。

「君の主であるタジミ公爵に伝えてくれる? 『雷神タケミきば』は確かに頂いたと」

 怪盗が月に透かす指の先。
 黒の革手袋に包まれた人差し指と親指に挟まれて、ヒノモトの至宝とうたわれる『五貴石』のひとつである魔法石が光を放つ。
 拳ほどの大きさの、琥珀こはく色の結晶。
 攻撃魔法最上位の雷属性の中でも、最高の魔力を秘めている。
 普段は、魔法軍総帥であるタジミ公爵の持つ戦杖の先端に付けられている。魔法を少しでも学んだ者なら、この魔法石が為した偉業にひれ伏すほどのものだ。

 衛兵長は青ざめた。
「貴様、そ、それが何だか知っているのか?」
「さあ、知らないね。強いて言えば、非魔人ミソギを一番多く殺した魔法石、って事くらいかな」

 衛兵長は歯ぎしりする。
「魔法とは、世の秩序を保つためのものだ」
「嘘だね」

 即答した怪盗は、月の色を透かした魔法石を指の先でもてあそぶ。
「君らの言う魔法とは、人の下に人を作って優越感に浸るための、くだらないものだ」

 しなやかな指が魔法石を弾く。この国ヒノモトの至宝が、月の光を反射させてキラキラと夜空に舞う。
 衛兵長は思わず、
「アッ!」
 と声を上げて腕を伸ばし、再びずり落ちそうになり身を伏せた。

 怪盗はそんな彼を、嘲笑あざわらうでもなく無表情に見下ろす。
 そして、弧を描いて落下する魔法石を掴み取り、フロックコートのポケットに納めた。
「君に死なれては困る。君の部下たちが死んでしまったら、師匠との約束が守れなくなるじゃないか。早く行って、蘇生魔法を掛けてあげなよ――じゃあね」
 怪盗はそう言い残し、屋根に背を向ける。そして夜空を滑るように去ろうとしたから、衛兵長は声を上げた。
「逃がさんぞ!」
 前に突き出した衛兵長の右手には杖があった。隠し持っていた二本目の手杖を取り出したのだ。

 だが、呪文を唱える前に怪盗の手が動いた。肩越しの素早い投擲とうてきと同時に、杖を持つ手に鋭い痛みが走る。
「クッ!」
 取り落とした杖が屋根を滑り落ちる。反射的に伸ばした手の甲には、ダーツの矢が深々と突き立っていた。

「血なまぐさいのは好きじゃないんだけどな」
 怪盗が振り返る。
 まるで背中に目が付いているかのような正確さ。これも彼の魔法の為す技だというのか――!

「用は済んだんだ。君は負けた。そのくらいにしておいた方がいい」
「待て、貴様! 俺は負けてなどいな――」

 だが叫んだ拍子に、屋根のてっぺんを掴んだ左手が滑った。

「――――!!」

 声も上げられず、重力に導かれるままに衛兵長は屋根を滑る。そして、屋根が途切れ、体が宙に浮いた瞬間。

 ――トン。

 背後で軽い音がして、落下が止まった。
 山吹色のマントがピンと張り、彼を宙吊りにしたのだ。
 恐る恐る目を向けた先にあったのは、マントに突き立つダーツ。屋根の銅板まで貫通して、辛うじて彼の落下を防いでいる。

「君に死なれては困ると言ったじゃないか。後はお仲間に任せたよ――じゃ」

 頭上で声がした。
 だが衛兵長が見上げるより早く、足元に多くの靴音が集まってきた。別動隊が援軍に駆け付けたのだ。
「怪盗を逃がすな!」
「撃て! 撃ち落とせ!」
 魔法の閃光が無数に夜空へと奔る……が、誰も軒に吊されている衛兵長を見ていないからたまらない。
「や、止めろ! 俺に当たるだろう!」

 ……そんな彼らを尻目に、怪盗は魔法の稲妻を嘲笑あざわらうかのごとく、またたく星々の中へと姿を消したのだった。
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