星に牙、魔に祈り

種田遠雷

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45、鬼の行方

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 では、戻ればこれを伝えて、と、その先へ及ぼうとする頭へ、ハルカレンディアと呼びかけられて顔を上げる。
「境の森の“砦”とやら、少なくない被害だったと聞いた。見舞いの手配がある、本部へ顔を出し、受け取って行け」
 思いがけぬ言葉に、目を丸くした。はい、と頷く頬が柔いのが自分でも分かる。
「森と森を支える者、国と民を守るために血の犠牲を払った者達だ。よくよく労ってやるように」
「はい。――お心遣い、心より感謝いたします。必ず、仰せの通りに」
 胸に手を当て浅く膝を折り、礼を捧げる。
 では、と正しい礼で額を下げて踵を返す背を見送り、大きく息を抜いた。
 そうして、揚々たる心持ちで己も足を運んだものの、あてにしていた図書館でいくつも本を広げ、机を前に髪を掻き掻きため息をつく。
 人間の生態、症例として、自己の制御を難しくするほどの性欲増進について、記述はない。倒錯性欲として相手に加害衝動を持つ例は見つけたが、読み込んでいけば、これも相応しくは思えず。
 人間の男性の強い性欲、という例をとっても、多くは十代を盛りとし、二十代まで続いて、30の年を数える頃には衰えるとある。生殖の適齢期に適った性交欲という基本を考えても、人間にしても、獣人にまで照査を拡げてもやはりしっくりこない。
 その上、ヴァルグ族についての資料といえば、これが他とは比較にならぬほど少なく。その基本的な生息地や遊牧狩猟についての記述が申し訳程度に見つかるばかりで、細かい事例の参考には、とてもならない。
 やれやれと思いながら、山岳地、寒冷地、好戦的種族、と、類似の例はどうかとページをめくる。
「ハルカレンディアか」
 名を呼ぶ声に、うん?と辺りを見回し、久しぶりだな!と、声をひそめながらも明るく迎える声に、こちらでも思わず表情を崩す。
「グレアディル」
 王陛下がまだ王子であった頃に作られた養育施設、“金の芽寮”で共に育った兄弟同然の男だ。
「まったくお前は。姿を消したかと思えば国境へ移ったと噂ばかり聞こえたり、かと思えば昔のように図書館にいたり、神出鬼没だな」
 落ち着きのないやつだ、と、わざとらしく短い金髪の頭を振りながら隣に腰を下ろすのに、何度も王都に戻っているし、幼なじみ達にはそれなりに連絡しているはずだ、と笑いながら抗議する。
「何か調べているのか?」
 隣に寛いで頬杖つきに、拡げた書物を眺めるグレアディルの横顔を眺め。懐かしいというには身に染みつきすぎ、ただ“帰ってきたような”とでもいうべき、あたたかい既視感が小さく居座る。
 調べ物に至る経緯は言いがたく、短い間考えてから、頷いた。
「うん。ヴァルグ族の、…なんというか、いつもとは違う様子について、何か資料がないかと」
「……ヴァルグ族? ちょっと待てよ、ええと…、…西の大陸の少数部族だったか? ずいぶん遠い場所だな」
「そうなんだ。遠方の小さな部族だからか、資料があまり見当たらない。今就いている、境の森の砦を指揮する頭領が、このヴァルグなんだが」
 なるほど、と相槌を打つグレアディルに、角があって長い牙が生えていて、と説明するのに、へえと驚きの声が返る。
「まるで魔物だな。おとぎ話に出てきそう…、…いや、出てきたような気がするな。鬼とか…海の魔物の…」
 アレはなんだったか…と、額を押さえるグレアディルに、海魔?水魔か?と首をひねるのに、いやいや…と唸る様子に瞬き。少しして、海に渦を起こして船を沈める怪物の名を挙げるのに、それはちょっと遠いなと笑ったりして。
「その他は大体人間のような姿だな。なんとなくそう聞いていたような、くらいの記憶だったのだが、やはりこの資料にもそう記されている」
 角と牙の生えた人間か、とグレアディルが頷き、まさしく、と頷き返して。
「ああ、そうだ」
「うん?」
 そういえばと声が区切るのに、先を促すよう耳を傾け。
「北東の山の中腹に、少し開けて高原になってるところがあるだろう。ふもとの村から、鬼が出ると何度も訴えがあってな。鬼というのは実在の魔物ではない、見間違いだろうと追い返していたんだが、あまりにも何度も言いに来るので、近々うちの隊を出して一回りしてみようということになったんだ」
 思いがけぬ言葉に、いっとき声を失う。
「…鬼の被害が報告されているのか?」
 いや、とグレアディルが首を横に振り。
「ただ、見た、見たというばかりなんだ。別の魔物であるなら、そう度々見かけるほど近ければ、とっくに被害が出ているだろうからな。なおさら心配はないだろうと考えていたところだ」
 そうか、と、声を落とし、胸騒ぎを沈めるように息をつく。
 アギレオと出会ったのが、まさにそのような状況だった。境の森へベスシャッテテスタルを警戒に行く道すがら、近隣の村や集落では、鬼が出るとしきりに囁かれる峠があった。
 鬼の正体がアギレオであったことを考えれば、と、唇を擦り。
「ハルカレンディア?」
 案じるよう呼ぶ声に顔を上げ、頷く。
「北東の山だな。グレアディルの隊が調査に行くのはいつ頃だろうか」
 どうした、と言わんばかりに、グレアディルの青い瞳が瞬く。
「他の任務もあるから、7日は先になるはずだ」
 7日か…と、思案して今度は顎を擦り。
 砦の装備に変更は必要ないと先ほど耳に入れ、リーにも王都に向かうとは言伝ことづてた。日を急ぐわけではないが、7日を王都で過ごすのは少し無駄が多そうだ。
 よし、と、腹を決めて、広げた本を片付け始め。
「私が鬼の出る高原に向かい、調査を果たしてこよう」
「えっ。…それは…ありがたいが。危険があるかもしれないぞ、手の空く者はいないか声を掛けてみよう」
 いや、と、資料を重ね、本棚へと戻すのに、手を貸してくれるグレアディルに礼を添え。
「ここからそれほど遠いわけでもないし、見て確認してくるだけだ。危険があるようなら、すぐに取って返して知らせる」
 身軽な方がいい、と資料を片付け隊舎へ向かうのに、隣に足をそろえるグレアディルが、やれやれと肩を竦めた。
「くれぐれも無茶はするなよ」
 分かった、と案じる声に頷いたのに、本当か?と訝る目を向けられる。からかっているらしい様子に、しつこいぞ!と笑いながら叱って返した。

 軽装に最小限の装備だけをつけ、弓矢を背負い、マゴルヒアの指導を思い出して剣を提げた。
 厩舎に立ち寄ればアェウェノールは不在で、別の厩番に声を掛けてスリオンを引き出す。
 木々をくぐって北東の隠れ道を抜けながら、しっかり世話をされていたのだろう、毛艶もよく上機嫌の愛馬の首を撫でて声を掛け。
 半日もしない内に辿り着いた、麓の村に声を掛ければ、鬼の調査に来たというので歓迎を受けた。
 村の中では一番大きいらしい家に招かれ、次々に現れる人間たちから話を聞く。
 獣を引きずって歩いていたとか、何か妖術をしているとか、それはどうだろうと思う話に、ひとつひとつ耳を傾け。その内のひとりが、見かけたものを「鬼女」と表現したのに驚く。
「その“鬼”は女性だったのか?」
「そうだよ。俺ァじいさんのじいさんの代から狩人で、目はいいんだ。間違いねえよ」
 なるほどと相槌を打つところに、別の男が、その男を小突く。
「だァからお前の見間違えだって。鬼に男も女もあるもんかよ」
「そもそも、鬼でも女じゃァ、あんな山ン中にゃ一人でいれねえだろ」
「本当なんだってェ…」
 確かめてこようと請け負えば、今度は別の者がまた自分の見たものを話しだす。
 小さな村とはいえ、話したい者がみな話し終わるのを聞くには夜までかかり、一夜の宿をそのまま借りてから、翌朝に発つことにした。
 夜明けの頃に村を後にして、村の者達が樹木の採集や狩りのために使うと教わった、ただ踏み固められただけの道を辿り、斜面に馬の歩みを進ませる。
 北東の山はそれほど高くはないが、半ばに高原があり、裾野が広く大きな山だ。
 上っていくにしたがい色の移り変わる樹々や植物、空や空気の色、鳥の声に耳を和ませ。人間達が長く暮らしているせいだろう、森が途切れたり、また茂ったりする間を抜けていく。
 陽の高くなる頃には山腹の高原が近くなり、この辺りだなと気を引き締めた。
 斜面が途切れて、視界が開ける。
 石や岩の多い荒れた地に、疎らな草は山を青くしようと背丈を伸ばし、風に揺れている。高度が高くなるにつれ、斜面に這い上がるよう広がっていた森は小さく、背も低くなっていく。
 狩猟や採集のために山に入るという村人達の足も、それにともない途切れるのだろう、樹々も好き勝手にのびのびと茂っているように見える。
 人馬の痕跡も、麓の村からのものばかりのように思われるが、足を伸ばしてもう一段高くなる斜面へと馬を進めた。
 ここから先への出入りはほとんどないと聞いた通り、土地は荒く、木々は間を置いて寄り集まるばかりで多くなく、草も高い。ヒトならば、ここに隠れ住むのは難しいか。
 いや、そもそもが山岳民族であるのだから、と足を進める先、樹々の間からチラと見えたものに気づいて、馬の足を止めさせ、鞍から降りた。
 木陰に馬を繋いで隠すと、身を低くして木々や岩の裏を渡るよう、足を忍ばせ近づいていく。
 辺りの草木に溶け込むような枯れ色をしているが、よく見れば違和感がある。距離が縮んでいくにつれ、目に見えているそれが一体何かと考え、天幕ではないかと思い当たった。
 天幕といえば、自分にとっては戦場に陣を築くもっと大きなものだ。だが、小さくとも樹を支えに布を張り、空間を囲って風雨をしのぐ、という基本的な構造は同じように見え。
 少なくとも、誰かがいるのは間違いない、と、視界を広げるよう意識して更に辺りを見回す。
 屈めていた背を起こし、小さく息を抜いて身を緩めた。
 何気なく草を食んでいるロバがおり、だが、よく見れば綱をつけてそばの杭に繋がれている。天幕の向こうから姿を見せた人物が、穏やかな表情で、そのロバに何事か語りかけているのが見えたからだ。
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