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第1章
お別れ
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「ご主人様」の名前は、アルブレヒトというらしかった。
母が教えてくれたあの人の名前を、しみこませるように何度も舌の上で転がした。
父が何度も「幸せにおなり」と言ったのを、シャルロットは不思議な気持ちで聞いた。
だって、シャルロットにとって、ご主人様――アルブレヒトとともにいられることはもうそれだけで幸せなことで、だから、お父さまが心配するようなことなんてないのよ、と答えたのに、父はぐうっと言葉を詰まらせたように喉を鳴らして、そうしてシャルロットと同じ緑の目を少し赤くして、「そうだったね」と笑った。
父が泣いていた。シャルロットは、自分が父を傷つける何かをしでかしたんだと理解した。
シャルロットは背伸びして、ソファに沈み込んだ父の膝へ乗り上げた。
「お父さまは、シャル……わたしがアルブレヒトさまのところに行かないほうがいいの?」
純粋な疑問だった。シャルロットは、アルブレヒトと一緒にいたいけれど、けして家族にこんな顔をさせたいわけではない。
ヴィルヘルムがよく言っていた。
――困ったときは、考えるんだ。そうしていい落としどころを見つけるんだ。
落としどころはというのは、みんながそれでいいと思う考えらしい。
みんながそれでいいと思って、そうしてシャルロットも家族も、アルブレヒトも幸せになれれば、それが一番よかった。
そう思って伸び上がったシャルロットに、父ははっとしたように目をしばたたく。
「そうだね……お前は優しい子だ。本当に、私たちの誇りだ」
「お父さま、どうして泣いているの」
「そうだね……お父さまというものは、大事な娘がお嫁に行ってしまうのがとてもさみしい生き物なんだ」
「お父さま、さみしいの?シャルは今度の週末には帰ってくるわ」
直した一人称が元に戻ってしまった。けれど、いつも大きく見えた父が、いつになく小さく見えて、シャルロットは眉尻を下げた。手を伸ばし、父の少し透明なものの多くなった銀髪をそうっとなでる。
シャルロットは、いつもこうされるとうれしくなったから。
「おきさき教育、なんでしょう?帰ってこれると聞いたのよ」
慣れない言葉を舌の上で転がす。うまく言えない言葉は、シャルロットには「ずっとアルブレヒトと一緒にいられるようにするための勉強」だと告げられていた。
だから、シャルロットは喜んだのだ。がんばれば、今度こそアルブレヒトと一緒にいられると思って。
――……今度、こそ?
「今度……?」
「シャルロット?」
そういえば、どうしてシャルロットはあんなにもアルブレヒトに会いたかったのだろう。
アルブレヒトがこんなにも大切で、幸せにしたいと強く思う。
けれど、その根源にある――なにか、大きななにかがわからなかった。
シャルロットは、アルブレヒトが本当なに、本当に大好きで――……。
大切なことが、シャルロットの中には残ってはいなかった。
ふいに、気づかぬうちに、ぽたぽたとシャルロットの緑の目から大きな粒が落ちる。
パズルのピースは一つではなかった。シャルロットの中には、アルブレヒトへの、理由のわからない、大きな感情しか残っていやしなかったのだと理解してしまった。
「お父さま……。わたし、どうしてアルブレヒトさまが好きなの?」
「シャルロット……?」
「アルブレヒトさまが好き、大好き……。でも、わたしはどうしてアルブレヒトさまが好きなの?」
幸せにしたい。笑ってほしい。ずっと一緒にいたい。だって、約束を、した、から。
「約束したの、わたし、勝手に約束したの」
「まさか、お前……」
「わたしは、なにをやくそくしたの?」
こんなわたしじゃ、アルブレヒトさまを幸せにできないかもしれない。しくしくと――いいや、もはやそうすることすらできていなかった。
のどを鳴らして声も出せずに涙を流す、痛ましいシャルロットを、ヒュントヘン公爵はただ、ただ、見ていた。
ただ見ているしかできなかった。父でしかない公爵には、シャルロットに手を差し伸べることも、抱きしめることも、できやしなかった。
ヒュントヘン公爵は、思い出す。8年前、アルブレヒトをかばって死んだ犬がいたことを。
今のシャルロットは「シャロ」と「シャルロット」の間でぐらぐらと揺らいでいる。
思い出させてはならない――残酷なことを思い出させたくない――いいや、思い出させてやりたい。
痛かっただろう、体が、心が――死ぬということが、怖かっただろう。
けれどなにより、シャロはアルブレヒトと一緒に居たかったのだ。一緒に居られないことが、何よりシャルロットを苦しめている。
だから――だからこそ、ヒュントヘン公爵は、静かに涙を流して苦しむ愛娘を抱き上げた。
「エリーザベト、いるのだろう」
「……ええ」
ずっと見守っていたのだろう。シャルロットの母は腕一本分だけ開いていた扉を開け放った。
静かに歩いてくる母は、シャルロットを見つめて目に涙をためた。
「わたくし、この子のことが大切だわ」
「ああ」
「だから、殿下と一緒に居させてあげましょう」
「……ああ」
母は、シャルロットの前髪をかきあげ、額に口づけを落とした。
「わたくしのかわいいシャルロット、泣かないで。お母さまとお父さまが、アルブレヒト殿下のもとへ――ご主人様のもとへ、つれていってあげましょうね」
「……ッ、ぁ……」
「無理をしなくていいよ。シャルロット、お前は私たちの宝物なんだ。それは、ずっとずっとかわらない」
そっと、公爵がシャルロットの目を覆う。そうすると、いくばくかシャルロットの呼吸が落ち着いて、やがてすうすうという寝息に変わった。
「こんな日が来ると、わかっていたわ。だって、シャルロットは愛犬だったのですものね」
エリーザベトは、首にかけた革紐に括りつけられた、小さな小瓶をそっと撫でた。エリーザベトは、王女だった。アインヴォルフ王家の直系――そして、アルブレヒトの叔母だった。だから、だれよりも王族と愛犬とのつながりを理解していた。
「会いに行けないわけじゃないわ。だから、あなた……泣かないで。ほんの少し、住む場所が遠くなるだけだもの」
「……そうだな。少し早く、お嫁に行くだけだものな……」
――これが、シャルロットがこのヒュントヘン公爵邸で過ごした、最後の日。
……シャルロットは、この日から16の誕生日までの10年間、王城で暮らすこととなるのだった。
母が教えてくれたあの人の名前を、しみこませるように何度も舌の上で転がした。
父が何度も「幸せにおなり」と言ったのを、シャルロットは不思議な気持ちで聞いた。
だって、シャルロットにとって、ご主人様――アルブレヒトとともにいられることはもうそれだけで幸せなことで、だから、お父さまが心配するようなことなんてないのよ、と答えたのに、父はぐうっと言葉を詰まらせたように喉を鳴らして、そうしてシャルロットと同じ緑の目を少し赤くして、「そうだったね」と笑った。
父が泣いていた。シャルロットは、自分が父を傷つける何かをしでかしたんだと理解した。
シャルロットは背伸びして、ソファに沈み込んだ父の膝へ乗り上げた。
「お父さまは、シャル……わたしがアルブレヒトさまのところに行かないほうがいいの?」
純粋な疑問だった。シャルロットは、アルブレヒトと一緒にいたいけれど、けして家族にこんな顔をさせたいわけではない。
ヴィルヘルムがよく言っていた。
――困ったときは、考えるんだ。そうしていい落としどころを見つけるんだ。
落としどころはというのは、みんながそれでいいと思う考えらしい。
みんながそれでいいと思って、そうしてシャルロットも家族も、アルブレヒトも幸せになれれば、それが一番よかった。
そう思って伸び上がったシャルロットに、父ははっとしたように目をしばたたく。
「そうだね……お前は優しい子だ。本当に、私たちの誇りだ」
「お父さま、どうして泣いているの」
「そうだね……お父さまというものは、大事な娘がお嫁に行ってしまうのがとてもさみしい生き物なんだ」
「お父さま、さみしいの?シャルは今度の週末には帰ってくるわ」
直した一人称が元に戻ってしまった。けれど、いつも大きく見えた父が、いつになく小さく見えて、シャルロットは眉尻を下げた。手を伸ばし、父の少し透明なものの多くなった銀髪をそうっとなでる。
シャルロットは、いつもこうされるとうれしくなったから。
「おきさき教育、なんでしょう?帰ってこれると聞いたのよ」
慣れない言葉を舌の上で転がす。うまく言えない言葉は、シャルロットには「ずっとアルブレヒトと一緒にいられるようにするための勉強」だと告げられていた。
だから、シャルロットは喜んだのだ。がんばれば、今度こそアルブレヒトと一緒にいられると思って。
――……今度、こそ?
「今度……?」
「シャルロット?」
そういえば、どうしてシャルロットはあんなにもアルブレヒトに会いたかったのだろう。
アルブレヒトがこんなにも大切で、幸せにしたいと強く思う。
けれど、その根源にある――なにか、大きななにかがわからなかった。
シャルロットは、アルブレヒトが本当なに、本当に大好きで――……。
大切なことが、シャルロットの中には残ってはいなかった。
ふいに、気づかぬうちに、ぽたぽたとシャルロットの緑の目から大きな粒が落ちる。
パズルのピースは一つではなかった。シャルロットの中には、アルブレヒトへの、理由のわからない、大きな感情しか残っていやしなかったのだと理解してしまった。
「お父さま……。わたし、どうしてアルブレヒトさまが好きなの?」
「シャルロット……?」
「アルブレヒトさまが好き、大好き……。でも、わたしはどうしてアルブレヒトさまが好きなの?」
幸せにしたい。笑ってほしい。ずっと一緒にいたい。だって、約束を、した、から。
「約束したの、わたし、勝手に約束したの」
「まさか、お前……」
「わたしは、なにをやくそくしたの?」
こんなわたしじゃ、アルブレヒトさまを幸せにできないかもしれない。しくしくと――いいや、もはやそうすることすらできていなかった。
のどを鳴らして声も出せずに涙を流す、痛ましいシャルロットを、ヒュントヘン公爵はただ、ただ、見ていた。
ただ見ているしかできなかった。父でしかない公爵には、シャルロットに手を差し伸べることも、抱きしめることも、できやしなかった。
ヒュントヘン公爵は、思い出す。8年前、アルブレヒトをかばって死んだ犬がいたことを。
今のシャルロットは「シャロ」と「シャルロット」の間でぐらぐらと揺らいでいる。
思い出させてはならない――残酷なことを思い出させたくない――いいや、思い出させてやりたい。
痛かっただろう、体が、心が――死ぬということが、怖かっただろう。
けれどなにより、シャロはアルブレヒトと一緒に居たかったのだ。一緒に居られないことが、何よりシャルロットを苦しめている。
だから――だからこそ、ヒュントヘン公爵は、静かに涙を流して苦しむ愛娘を抱き上げた。
「エリーザベト、いるのだろう」
「……ええ」
ずっと見守っていたのだろう。シャルロットの母は腕一本分だけ開いていた扉を開け放った。
静かに歩いてくる母は、シャルロットを見つめて目に涙をためた。
「わたくし、この子のことが大切だわ」
「ああ」
「だから、殿下と一緒に居させてあげましょう」
「……ああ」
母は、シャルロットの前髪をかきあげ、額に口づけを落とした。
「わたくしのかわいいシャルロット、泣かないで。お母さまとお父さまが、アルブレヒト殿下のもとへ――ご主人様のもとへ、つれていってあげましょうね」
「……ッ、ぁ……」
「無理をしなくていいよ。シャルロット、お前は私たちの宝物なんだ。それは、ずっとずっとかわらない」
そっと、公爵がシャルロットの目を覆う。そうすると、いくばくかシャルロットの呼吸が落ち着いて、やがてすうすうという寝息に変わった。
「こんな日が来ると、わかっていたわ。だって、シャルロットは愛犬だったのですものね」
エリーザベトは、首にかけた革紐に括りつけられた、小さな小瓶をそっと撫でた。エリーザベトは、王女だった。アインヴォルフ王家の直系――そして、アルブレヒトの叔母だった。だから、だれよりも王族と愛犬とのつながりを理解していた。
「会いに行けないわけじゃないわ。だから、あなた……泣かないで。ほんの少し、住む場所が遠くなるだけだもの」
「……そうだな。少し早く、お嫁に行くだけだものな……」
――これが、シャルロットがこのヒュントヘン公爵邸で過ごした、最後の日。
……シャルロットは、この日から16の誕生日までの10年間、王城で暮らすこととなるのだった。
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