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1章 隣人の鈴木君

01.隣人の鈴木君

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 真っ青な空に満開の桜の花弁が映えて見える、今日は四月一日。世間一般では新年度が始まる日。

 重い体を何とか動かして、パジャマ姿の女性はフラフラとベッドから這い出る。
 残業三昧で疲れ果てていた体は、たった数時間の睡眠程度では蓄積した疲れは回復してくれない。
 社会人となってから引っ越して来たこの部屋は、六畳の広さのためベッドから数歩で窓をまで辿り着く。

 欠伸をして、眠い目を右手の甲で擦りながら遮光率の高いというカーテンを開けば室内は一気に明るくなる。
 カラリ、軽い音をたてて女性はベランダへ続く窓を開いた。

「本日も快晴なり、か」

 日中の日差しは暖かくなっているとはいえ、朝は上着がないと肌寒くひんやりとした空気は、寝起きの頭を覚醒させるのにちょうどいい。
 ひんやりとした空気を吸い込みながら「うーん」と伸びをすれば、凝り固まった肩の筋がバキバキと音をたてた。

 朝の気持ちが良い空気を堪能していたいところだが、今日から新年度が始まる。
 学生だったら新たな生活、進学進級と胸が踊っているのかもしれないが、会社員と呼ばれる職業の自分はそんな気持ちは湧いてこないのだった。

 朝日が差し込む窓のレースカーテンを引き、眩しい朝日が柔らかな光に変わる。
 気分を新たして仕事へ向かうため、早く身支度をして駅前のパン屋で朝食を食べようと、若干軽くなった足取りで洗面所へ向かった。

「うわ、目蓋の腫れと隈がひどいな」

 洗面所の鏡に映った自分の顔を見た山田理子は、顔色の悪さと目の下のクマを見て苦笑いしてしまった。
 

 ***


 新年度初日の仕事を終え、肩に掛けたビジネスバッグから手探りでキーケースを取り出した理子は玄関扉を開けた。

「ただいま」

 一人暮らしの部屋は真っ暗で、当たり前だが帰宅の挨拶に返事を返す者は居ない。
 それでも声を出して挨拶をするのは、実家で暮らしていた頃からの癖だった。

 駅前の牛丼チェーン店で買った牛丼並盛り弁当をダイニングテーブルへ置いて、理子は着ていたグレー色のジャケットを脱ぐ。
 ジャケットに皺がつかないよう、手早くジャケットとスカートをハンガーに掛ける。
 ブラウスと体を締め付けるブラジャーを洗濯籠へ放り込んで、部屋着に着替えて漸く一息ついた。

「はぁ、疲れたな」

 今日は普段のデスクワークに加えて、朝から年度始めの決起集会やら新卒新入社員達への対応でいつもも以上に疲れていた。
 久々に早く帰宅出来たとはいえ、時間は既に夜八時をまわっている。
 眠気と疲れで寝てしまいたが、お腹は空腹を訴えてグーグー音を鳴らす。買ってきた牛丼を食べようと、理子は容器の蓋を開けた。

 ピーンポーン

 突然鳴ったインターホンの音に、理子は右手に持っていた割り箸を落としかけた。

(こんな時間に誰だろう? 通販で買い物はしていないし、実家から荷物を送ったという連絡は無かったし。記憶している中で宅急便は届く予定は無いわね)

 誰だろうと首を傾げつつ、理子はインターホンの受話器を取った。

「すいませーん。隣に引っ越してきたものです」

 数秒の間の後、受話器から聞こえてきたのは若い男性の声だった。

「あ、はーい。今開けまーす」

 玄関へ向かいながら理子は隣人のことを思い出していた。そういえば、先月半ばに隣の部屋の女の子が引っ越してたのだ。
 年度末の仕事が立て込んでいて、殆ど寝に帰るだけだったから隣室の事など全く気にしていなかった。
 玄関のドアノブに手をかけた時、自分が化粧を落としている上にノーブラだったと思い出して、慌ててダイニングチェアに引っ掛けてあったパーカーを羽織る。

「お待たせしました」

 玄関扉を開けた共用廊下に立っていたのは、細身長身、ジャージにサンダル、刈り上げた明るい茶髪で整えられた眉に少し目付きの鋭い黒目のまだ若い、十代後半の幼さが残る男の子だった。

「今日隣に引っ越して来た鈴木太郎です。◯◇大の一年っす」

 男の子が名乗ったのは、今時珍しいくらい平々凡々たる名前だ。
 平凡な名前でも見た目は今時の若者。よく見ると、片耳にはピアスが3個もついている。
 若さと新生活への希望溢れる、といった姿は今日出会った新卒新入社員と重なって見えた。

「大学生なんですね。私は山田といいます。よろしくお願いします。日中は仕事しているのであまり居ませんが、何か困った事があったら言って下さい」
「えっ、意外。年上のお姉さんなんだ。あ、これ、タオル。良かったら使って」

 化粧をしていないと幼く見えると、周りから評される理子の顔をマジマジと見詰める鈴木君に、少し戸惑いつつもタオルの箱が入ったビニール袋を受け取って、軽く頭を下げた。

「じゃ、理子さんおやすみなさい」

 にこやかに頭を下げて、鈴木君は隣室に戻って行った。

 貼り付けた笑顔のまま、玄関ドアを閉めた理子は「あーあ」と息を吐く。
 入居しているのは学生可のマンションのため、学生が入居しても問題は無い。ただ、社会人と学生は生活の時間帯にズレが生じやすいのだ。
 同じ階に入居している女子学生は真面目で、挨拶をしっかりしてくれるし、大学生が遊びに夢中になるのは一時だけだと分かっているが彼はきっとハズレの隣人だと分かった。
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