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ウツホシ編
ある美しい夜のはなし
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その満月の夜は、ウツホシが神の名を戴いてから迎えた中で一番美しかった。
青く透き通った海の中に降り注ぐ月明かりは青白く澄んでいて、いく筋もの光が柱のように並んでいた。
美しい月夜。海には人間の匂いがした。人間の匂いは、神の名をもらった時に父のミカナミから教えてもらった。
名を戴き海の神となったウツホシが花嫁に迎えるのは、人間だ。ウツホシに比べたら、小さく弱い存在。ウツホシはまだ人間をちゃんと見たことがなかった。
ウツホシは、人間の匂いを追って水面へと向かった。
匂いを辿った先、水面には月明かりを遮る白いものが浮かんでいた。人間が作った、船のようだった。
ウツホシは水面に近づくと、腕をタコに変えた。普通のタコに比べたら長く太いそれを伸ばして、船の上の人間を捕まえた。
逞しい、大人の男のようだった。きっと丈夫な人間だ。たくさんの卵を産んでくれる。
しかし、海の中に引き込むと、人間は逃げ出そうと暴れ出した。逃げないで。怖いことはしないのに。逃したくなくてウツホシが腕に力を込める。手足を動かしていた人間は、苦しげな表情のまま動かなくなってしまった。
人間の口から溢れた空気がゆらめきながら水面へと昇っていく。
タコの足を離すと、人間は深い海に沈んでいった。
そうしてウツホシは、人間が海の中では生きられないのだと知った。
人間の匂いはまだした。船の上には、もうひとりいるようだった。
ウツホシはもう一度腕を伸ばして人間を捕まえた。
捕まえた人間は何か言っていたが、くぐもった声が何を言っているのか理解することはできなかった。
人間に巻きついた腕に痛みが走った。何かが刺さったようで、ウツホシは慌てて腕を振る。棘のようなものは抜けたが、力加減がうまくできなくて捕まえた人間はちぎれてばらばらになってしまった。
生臭い血とはらわたの匂いが美しい夜に散って、ウツホシは悲しくなった。
ウツホシの傷はすぐに癒えるが、ばらばらになってしまった人間は元に戻せない。
皆、どうやって花嫁を捕まえているのだろう。
もう、船の上の人間の匂いはしなくなってしまった。
波間から顔を出すと、遠くに人間の匂いがした。
今度はちゃんと捕まえて花嫁にしよう。
ウツホシは 潜ると静かに匂いの方へと泳いだ。
人間を驚かせないように、ウツホシはそっと海から顔を出した。海に浮かんだ黒くて丸い何かの上に、人間がいた。さっきの二人よりも小さくて、きらきらしていた。
明るい色の髪も、瞳も、白い肌も、何もかもがきらめいて見えた。こんな人間は見たことがなかった。綺麗だと思った。海の中では、こんな綺麗なものを見たことがない。
この人間を、花嫁にしよう。今度はちゃんと、生きたまま捕まえて、卵を産んでもらおう。
ウツホシは音を立てないように、小さな人間に近づいた。
そっとタコの足を伸ばす。人間はおとなしく捕まってくれた。
暴れることもない、おとなしい人間。
ウツホシは海に沈めないように気をつけながら、人間を岬まで運んだ。
いつか花嫁を迎えたら一緒に月を眺めたいと思っていたお気に入りの岬だ。
そこなら、浅瀬もあるから人間も死ぬことはない。ウツホシも、海があるから乾いて死ぬこともない。二人が愛を交わすにはうってつけの場所だった。
ウツホシは笑った。
初めての花嫁を捕まえることができた。これからたくさん愛してやろう。ウツホシには初めての花嫁だ。
岬へ着くと、ウツホシは人間を浅瀬に横たえた。全部を海につけないように、そっと砂地に寝かせる。
人間は目を閉じて、動かない。眠っているのか、死んでいるのかわからない。
よく見れば薄い胸が静かに上下していて、ウツホシは安堵した。
「よかった。生きてる」
ようやく無事に花嫁を捕まえられた。きらきらときらめく、綺麗な花嫁だ。
ウツホシは夜色の指先で白い頬をなぞった。初めて触れる、滑らかで柔らかくて温かな頬。ウツホシの胸に生まれたのは、愛おしいという感情だった。
「ふふ、やっと捕まえた。俺の、花嫁」
ウツホシの呟きに反応するように、瞼が震えた。ウツホシは脅かさないよう身を引くと、人間が目を覚ますのを静かに待った。
そして、人間が目を覚ました。白い瞼の下から覗いたのは、月明かりを受けてきらめく澄んだ薄茶色の瞳だった。
ウツホシはそれが美しいと、これが自分の宝物だと思う。
そして、ウツホシは花嫁に出会った。
シュンという名の、小さくて愛らしい花嫁だった。
青く透き通った海の中に降り注ぐ月明かりは青白く澄んでいて、いく筋もの光が柱のように並んでいた。
美しい月夜。海には人間の匂いがした。人間の匂いは、神の名をもらった時に父のミカナミから教えてもらった。
名を戴き海の神となったウツホシが花嫁に迎えるのは、人間だ。ウツホシに比べたら、小さく弱い存在。ウツホシはまだ人間をちゃんと見たことがなかった。
ウツホシは、人間の匂いを追って水面へと向かった。
匂いを辿った先、水面には月明かりを遮る白いものが浮かんでいた。人間が作った、船のようだった。
ウツホシは水面に近づくと、腕をタコに変えた。普通のタコに比べたら長く太いそれを伸ばして、船の上の人間を捕まえた。
逞しい、大人の男のようだった。きっと丈夫な人間だ。たくさんの卵を産んでくれる。
しかし、海の中に引き込むと、人間は逃げ出そうと暴れ出した。逃げないで。怖いことはしないのに。逃したくなくてウツホシが腕に力を込める。手足を動かしていた人間は、苦しげな表情のまま動かなくなってしまった。
人間の口から溢れた空気がゆらめきながら水面へと昇っていく。
タコの足を離すと、人間は深い海に沈んでいった。
そうしてウツホシは、人間が海の中では生きられないのだと知った。
人間の匂いはまだした。船の上には、もうひとりいるようだった。
ウツホシはもう一度腕を伸ばして人間を捕まえた。
捕まえた人間は何か言っていたが、くぐもった声が何を言っているのか理解することはできなかった。
人間に巻きついた腕に痛みが走った。何かが刺さったようで、ウツホシは慌てて腕を振る。棘のようなものは抜けたが、力加減がうまくできなくて捕まえた人間はちぎれてばらばらになってしまった。
生臭い血とはらわたの匂いが美しい夜に散って、ウツホシは悲しくなった。
ウツホシの傷はすぐに癒えるが、ばらばらになってしまった人間は元に戻せない。
皆、どうやって花嫁を捕まえているのだろう。
もう、船の上の人間の匂いはしなくなってしまった。
波間から顔を出すと、遠くに人間の匂いがした。
今度はちゃんと捕まえて花嫁にしよう。
ウツホシは 潜ると静かに匂いの方へと泳いだ。
人間を驚かせないように、ウツホシはそっと海から顔を出した。海に浮かんだ黒くて丸い何かの上に、人間がいた。さっきの二人よりも小さくて、きらきらしていた。
明るい色の髪も、瞳も、白い肌も、何もかもがきらめいて見えた。こんな人間は見たことがなかった。綺麗だと思った。海の中では、こんな綺麗なものを見たことがない。
この人間を、花嫁にしよう。今度はちゃんと、生きたまま捕まえて、卵を産んでもらおう。
ウツホシは音を立てないように、小さな人間に近づいた。
そっとタコの足を伸ばす。人間はおとなしく捕まってくれた。
暴れることもない、おとなしい人間。
ウツホシは海に沈めないように気をつけながら、人間を岬まで運んだ。
いつか花嫁を迎えたら一緒に月を眺めたいと思っていたお気に入りの岬だ。
そこなら、浅瀬もあるから人間も死ぬことはない。ウツホシも、海があるから乾いて死ぬこともない。二人が愛を交わすにはうってつけの場所だった。
ウツホシは笑った。
初めての花嫁を捕まえることができた。これからたくさん愛してやろう。ウツホシには初めての花嫁だ。
岬へ着くと、ウツホシは人間を浅瀬に横たえた。全部を海につけないように、そっと砂地に寝かせる。
人間は目を閉じて、動かない。眠っているのか、死んでいるのかわからない。
よく見れば薄い胸が静かに上下していて、ウツホシは安堵した。
「よかった。生きてる」
ようやく無事に花嫁を捕まえられた。きらきらときらめく、綺麗な花嫁だ。
ウツホシは夜色の指先で白い頬をなぞった。初めて触れる、滑らかで柔らかくて温かな頬。ウツホシの胸に生まれたのは、愛おしいという感情だった。
「ふふ、やっと捕まえた。俺の、花嫁」
ウツホシの呟きに反応するように、瞼が震えた。ウツホシは脅かさないよう身を引くと、人間が目を覚ますのを静かに待った。
そして、人間が目を覚ました。白い瞼の下から覗いたのは、月明かりを受けてきらめく澄んだ薄茶色の瞳だった。
ウツホシはそれが美しいと、これが自分の宝物だと思う。
そして、ウツホシは花嫁に出会った。
シュンという名の、小さくて愛らしい花嫁だった。
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