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第48話 巣立ちの日
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とうとう、私が屋敷を出る日が来てしまった。
ここで働いてくれていたひとたちや、母がパトロンをしていたひとたち。私はひとりひとりに別れの挨拶をする。
今生の別れでもないけれど、もう再び、こうして同じ場所で過ごす事はないのだ。それがとても寂しくて仕方ない。
必死で涙を堪える私は、彼らから、新生活を祝う贈り物まで貰ってしまい、とうとう涙が止まらなくなってしまった。
屋敷で働いていたひとたちからは、暖かそうな膝掛け。座り仕事の私に、いつも使ってもらえればいいと思って、とよく私の身の回りを世話してくれたひとから渡された。
そして、母がパトロンをしていたひとたちからは、なんと油絵とスケッチのための道具一式。私が絵を描くところを興味深く見ていたから贈ろうと思ったそうだ。そしてなんと魔王城には、彼らと同じように母の支援を受けていた画家の方がいるそうで、その人に絵を描くための指導を頼んであると。
彼らの優しさに、私はここを離れがたくなってしまう。でも、いつまでもそうしていてはいけない。私は何度も涙を拭い、しっかりしなさい私、と自分を諫めた。
「今日は、片付けで大変でしょうし、三食分ほど食べられるような物を詰めておきました。よろしければお召し上がりください。アステ様の好きな物ばかり入れてもらいました」
執事が、そう言って大きなランチボックスを渡してくれる。
「大丈夫ですよアステ様。今生の別れではありません、生きていれば、またすぐに会えますよ。どうかお元気で……」
その執事の言葉に背中を押されて、私はとうとう屋敷から巣立った。
馬車の窓から、屋敷を眺める。住んでいた頃は、広すぎて落ち着かないとか、あまりいい印象を持てていなかったのに、いざ離れる時になって初めて、愛着を持っていた事に気づく。
私は、遠く離れて見えなくなるまで、窓から屋敷を眺め続けた。
新居へ向かう馬車には、写真の君が同行してくれている。ミスオーガンザの代理として最後まで付き添わせて欲しい、と頼まれたのだ。そこまでは、と遠慮しようと思ったが、その真剣な眼差しに私は折れた。
「そう、そう、アステさん。ゴシップ紙の方は、しっかりと対処しておきました。明日には、おふたりが破局したという記事が載る予定です。これでもう、追いかけ回される心配もないと思います」
「は、破局……ですか。なんというか、急展開ですね……」
「ははは。妾などという関係は最初からないのですから、破局とでも思わせておけばいいのですよ。あちらにも、ミスオーガンザ亡き後であっても敵に回すと怖い、というのが理解してもらえたようで、何よりです」
「そ……そう、ですか」
あまりこれ以上首を突っ込まない方がいい話題のようだ。私は慌てて話題を変えた。
「そう!お仕事の方は……大丈夫ですか?母が亡くなって……」
「ええ、ええ、大丈夫ですよ。みな、ミスオーガンザが育てた優秀な社員ばかりです。これまで以上に発展させてみせますよ」
「そうですか、それならよかった。母もきっと喜んでいると思います」
「はは、怒ってない事を祈るばかりです」
そう言いながら頭を掻く写真の君は、ふと、真顔になって私を見た。
「……アステさん、先日は私の無茶な頼みを聞いてくださって、本当にありがとうございました」
「頼み……ああ、結婚式の事ですか?そんな、お礼なんて。……式で、母が喜んでいるのが見えたんです。それを見たら、ああ、やってよかったんだって、そう思いました。だからむしろ、きっかけを下さった事に、私がお礼を言わなきゃいけないんです。本当に……ありがとうございます」
私がそう言ったのが意外だったのか、写真の君は目を丸くして、それから、優しく微笑んだ。
「本当に、素敵な女性に成長しましたね。子供というものは、あっという間に大きくなる……成長が止まった年寄りには眩しい限りです」
「……もしかして、私が幼い頃からご存知だったのですか?」
まるで小さい頃の私を知っているかのような口ぶりだ。私が疑問を口にすると、彼はゆっくり頷いた。
「ええ……ええ。小さいあなたが、ミスオーガンザに引き取られるのも、見ておりましたから」
「そんな頃から!?でも私、全く記憶になくて……」
相当昔からだった事に、私はただ驚くしかない。それは記憶にないのも当然だろう。
「その後からはずっと、あなたの前にこうやって姿を現した事はなかったんです。だから、あなたの記憶にないのも当然です。たまにお見かけするたび、成長しているあなたを見て、嬉しく思っていました。影から見守る事しかできませんでしたが……」
「そう、だったんですね。でも、あなたにとっては、仕事仲間が引き取った子供でしかないはず。なのに、そこまで気にかけてくださるなんて……」
関係性から考えても、そこまで思われるのも不思議だったし、そもそも、影からなどではなく、普通に顔を合わせたって問題ないのでは。そう不思議に思う私に、写真の君は意外な要望を口にした。
「……少し、昔話をしても、いいでしょうか?」
「ええ、どうぞ……?」
急にどうしたのだろう、そう思いつつ、私は写真の君に先を促した。彼は、ホッとしたような表情で、話を続けた。
「私には、兄がいましてね。少し年が離れていたからでしょうか……本当に可愛がってもらいました。ですが、兄はある日突然、姿を消したんです。書き置きを残して」
「……そんな」
「兄がしたのは、駆け落ちです。結婚が許されない相手との」
「駆け落ち……」
私は、驚くと同時に、前にどこかでそんな話を聞いたような気がして、記憶を探る。
「ただ、私にだけは偽名で、時折手紙が届きました。元気でやっているとか、娘が生まれたとか……そんな他愛もない内容です。だが、そんな他愛もない話が、駆け落ちまでした兄にとっては最高の幸せなのだろうと、私も嬉しかったのをおぼえています」
「その……お兄さんとは、今ではもうお会いになっていたりは?」
駆け落ちしたとはいえ、家族に黙って会うくらいはできるはず。そう思った私に、写真の君は悲しそうな顔で首を横に振った。
「……もう、だいぶ前に亡くなりました。奥さんも一緒に……事故で。ただ、ひとり娘だけは、家にいて無事でした」
「それは……お辛いですね……。その、残された娘さんは?どうなったのですか?」
私は、両手を強く握る。声が震えて仕方なかった。記憶を開くための鍵が、どんどんと絞り込まれていく。
「兄の駆け落ち相手の姉が、引き取りました」
「……そう、ですか」
でも、ここまでなら、まだ違うかもしれない。そう思った。でも。
「本当なら、私が引き取るべきだった。私には妻も子もいて、もうひとりくらい子供が増えたって、問題なかった。でも、家族は怯えた。混血の子どもとなど、一緒に暮らせないと」
混血の子ども。その言葉が聞こえた瞬間、私は、俯いていた顔を上げる。そして、写真の君を、食い入るように見つめた。
「その子は、大切な兄の忘れ形見だというのに……私は、家族を、どうやっても説得できなかった……。あろうことか、未婚の女性に、その子を託すしかなかった……」
写真の君は、怯えたような顔で、やがて私から顔を逸らしてしまう。
「だから私は、その子の前に姿を見せる資格などない。そう思って、ずっと生きてきたのです。でも、それでも、本当に大切だと思っている……それだけは……信じて欲しい……」
私から目を逸らしたまま、写真の君は左手で顔を覆う。まるで、私に顔を見られたくないというように。
私も、彼も、しばらく何も言えないまま、時間だけが過ぎる。
どう振る舞うべきなのか、何を言うべきか、私は迷う。そして、ようやく気持ちを決め、口を開いた。
「……きっと、誰も、悪くないんです。ただ皆が、それぞれに辛い思いをしただけ」
そうだ。駆け落ちをしなければ、愛する人と一緒にいられない世界。事故。家族を怯えさせるような異分子。仕方ないのだ。そこには悪意など、存在しないのだから。
「そして、誰もが出来ることをした。あなたは、家族を大切にする事を選び、家族を守った。女の子は、伯母が引き取った。それが正解なのかはわかりません。でも、決して不幸ではなかった……私はそう思います。
その女の子と似た境遇の私なら、叔父の家族を怯えさせてまで引き取られたいなんて思いません。きっと、肩身の狭い思いをしたでしょうから」
例え無理に引き取って、写真の君の心は満足しても、その先に待つのは不幸な未来だろう。彼の選択は間違ってないのだ。これ以上、罪悪感を抱えて生きていってほしくはない。
私は、ふと、写真の君の思いを聞いてみたくなった。
「その女の子は今、幸せに暮らしていると思いますか?」
「……ええ……ええ、彼女は、混血だと言われ辛い思いもたくさんしたでしょうに、それでも、誰の事も悪く言わず、誰よりも勉強ができ、立派な仕事について、愛する人を見つけ……とても素敵なレディに成長しました。学生だった頃は、笑う顔を見せなかったのに、今では笑ったり、悲しんだり……感情豊かになって……きっと、幸せだと思っているように、私には見えます。彼女はもう、どこに出しても恥ずかしくない、私の……自慢の姪です」
写真の君は、もう私から顔を隠す事なく、真摯な眼差しで言った。
「ふふ、そうなんですね。そんなに素敵な女性に育ったのなら、あなたがしてきた事も間違いなんかじゃなかった。……いつか、そのひとの前に、顔を見せてあげたらどうですか?君の、叔父さんなんだよって……きっと、喜んで迎えてくれますよ。まあ、私とは別の方ですから、本当にそうなるかどうかは保証できませんけど……ね」
私がイタズラっぽく言うと、写真の君は、くつくつと肩を震わせて笑い出した。
「はは……そうですね……いつか、ええ、いつか。きっと、会いにいくと約束します。アステさん……私の、どうでもいい昔話なんかにお付き合いいただき、ありがとうございました」
「いいえ。私、ひとの懺悔を聞くのにも慣れてきました。もしかしたら、ふふっ、医師より向いているかもしれませんね」
「ははは、では、また何かあれば、この男の懺悔を聞いていただけますか?」
「あらまあ、じゃあ二回目からは有料にしようかしら……なんて」
私は冗談まじりに答え、そして私達は笑い合った。
そして、馬車は無事、新しく住む部屋のある建物の前に到着した。
ここはなんと、魔王城の敷地内にある建物で、魔王城で働く者の中でも、急に呼ばれるような役職の者が住むための建物なのだそうだ。住居費は、福利厚生という事でなし。
そんなところに住んでいいのかとも思ったが、何やらとても上の地位の方からの口出しがあったとかなんとかで、私も慣れない部屋探しをして時間をかけてしまうよりはいいと思い、言葉に甘える事にした。
馬車に載せていたいくつかの荷物を、写真の君に手伝ってもらいながら運び込む。
私は写真の君に、よければお茶でもとお誘いしたものの、女性ひとりの部屋に上がり込むわけにはいきませんよ、と苦笑しながら断られてしまった。
私は、写真の君を見送るため、共に建物の外まで出る。別れを惜しむように馬車に乗り込んだ彼を、私は馬車が見えなくなるまで見送る。
次、彼に会う時は、きっと今までと違う関係なのだろう。不安と、期待が入り混じった気持ちになりながら、私は新しい部屋へとひとり戻った。
ここで働いてくれていたひとたちや、母がパトロンをしていたひとたち。私はひとりひとりに別れの挨拶をする。
今生の別れでもないけれど、もう再び、こうして同じ場所で過ごす事はないのだ。それがとても寂しくて仕方ない。
必死で涙を堪える私は、彼らから、新生活を祝う贈り物まで貰ってしまい、とうとう涙が止まらなくなってしまった。
屋敷で働いていたひとたちからは、暖かそうな膝掛け。座り仕事の私に、いつも使ってもらえればいいと思って、とよく私の身の回りを世話してくれたひとから渡された。
そして、母がパトロンをしていたひとたちからは、なんと油絵とスケッチのための道具一式。私が絵を描くところを興味深く見ていたから贈ろうと思ったそうだ。そしてなんと魔王城には、彼らと同じように母の支援を受けていた画家の方がいるそうで、その人に絵を描くための指導を頼んであると。
彼らの優しさに、私はここを離れがたくなってしまう。でも、いつまでもそうしていてはいけない。私は何度も涙を拭い、しっかりしなさい私、と自分を諫めた。
「今日は、片付けで大変でしょうし、三食分ほど食べられるような物を詰めておきました。よろしければお召し上がりください。アステ様の好きな物ばかり入れてもらいました」
執事が、そう言って大きなランチボックスを渡してくれる。
「大丈夫ですよアステ様。今生の別れではありません、生きていれば、またすぐに会えますよ。どうかお元気で……」
その執事の言葉に背中を押されて、私はとうとう屋敷から巣立った。
馬車の窓から、屋敷を眺める。住んでいた頃は、広すぎて落ち着かないとか、あまりいい印象を持てていなかったのに、いざ離れる時になって初めて、愛着を持っていた事に気づく。
私は、遠く離れて見えなくなるまで、窓から屋敷を眺め続けた。
新居へ向かう馬車には、写真の君が同行してくれている。ミスオーガンザの代理として最後まで付き添わせて欲しい、と頼まれたのだ。そこまでは、と遠慮しようと思ったが、その真剣な眼差しに私は折れた。
「そう、そう、アステさん。ゴシップ紙の方は、しっかりと対処しておきました。明日には、おふたりが破局したという記事が載る予定です。これでもう、追いかけ回される心配もないと思います」
「は、破局……ですか。なんというか、急展開ですね……」
「ははは。妾などという関係は最初からないのですから、破局とでも思わせておけばいいのですよ。あちらにも、ミスオーガンザ亡き後であっても敵に回すと怖い、というのが理解してもらえたようで、何よりです」
「そ……そう、ですか」
あまりこれ以上首を突っ込まない方がいい話題のようだ。私は慌てて話題を変えた。
「そう!お仕事の方は……大丈夫ですか?母が亡くなって……」
「ええ、ええ、大丈夫ですよ。みな、ミスオーガンザが育てた優秀な社員ばかりです。これまで以上に発展させてみせますよ」
「そうですか、それならよかった。母もきっと喜んでいると思います」
「はは、怒ってない事を祈るばかりです」
そう言いながら頭を掻く写真の君は、ふと、真顔になって私を見た。
「……アステさん、先日は私の無茶な頼みを聞いてくださって、本当にありがとうございました」
「頼み……ああ、結婚式の事ですか?そんな、お礼なんて。……式で、母が喜んでいるのが見えたんです。それを見たら、ああ、やってよかったんだって、そう思いました。だからむしろ、きっかけを下さった事に、私がお礼を言わなきゃいけないんです。本当に……ありがとうございます」
私がそう言ったのが意外だったのか、写真の君は目を丸くして、それから、優しく微笑んだ。
「本当に、素敵な女性に成長しましたね。子供というものは、あっという間に大きくなる……成長が止まった年寄りには眩しい限りです」
「……もしかして、私が幼い頃からご存知だったのですか?」
まるで小さい頃の私を知っているかのような口ぶりだ。私が疑問を口にすると、彼はゆっくり頷いた。
「ええ……ええ。小さいあなたが、ミスオーガンザに引き取られるのも、見ておりましたから」
「そんな頃から!?でも私、全く記憶になくて……」
相当昔からだった事に、私はただ驚くしかない。それは記憶にないのも当然だろう。
「その後からはずっと、あなたの前にこうやって姿を現した事はなかったんです。だから、あなたの記憶にないのも当然です。たまにお見かけするたび、成長しているあなたを見て、嬉しく思っていました。影から見守る事しかできませんでしたが……」
「そう、だったんですね。でも、あなたにとっては、仕事仲間が引き取った子供でしかないはず。なのに、そこまで気にかけてくださるなんて……」
関係性から考えても、そこまで思われるのも不思議だったし、そもそも、影からなどではなく、普通に顔を合わせたって問題ないのでは。そう不思議に思う私に、写真の君は意外な要望を口にした。
「……少し、昔話をしても、いいでしょうか?」
「ええ、どうぞ……?」
急にどうしたのだろう、そう思いつつ、私は写真の君に先を促した。彼は、ホッとしたような表情で、話を続けた。
「私には、兄がいましてね。少し年が離れていたからでしょうか……本当に可愛がってもらいました。ですが、兄はある日突然、姿を消したんです。書き置きを残して」
「……そんな」
「兄がしたのは、駆け落ちです。結婚が許されない相手との」
「駆け落ち……」
私は、驚くと同時に、前にどこかでそんな話を聞いたような気がして、記憶を探る。
「ただ、私にだけは偽名で、時折手紙が届きました。元気でやっているとか、娘が生まれたとか……そんな他愛もない内容です。だが、そんな他愛もない話が、駆け落ちまでした兄にとっては最高の幸せなのだろうと、私も嬉しかったのをおぼえています」
「その……お兄さんとは、今ではもうお会いになっていたりは?」
駆け落ちしたとはいえ、家族に黙って会うくらいはできるはず。そう思った私に、写真の君は悲しそうな顔で首を横に振った。
「……もう、だいぶ前に亡くなりました。奥さんも一緒に……事故で。ただ、ひとり娘だけは、家にいて無事でした」
「それは……お辛いですね……。その、残された娘さんは?どうなったのですか?」
私は、両手を強く握る。声が震えて仕方なかった。記憶を開くための鍵が、どんどんと絞り込まれていく。
「兄の駆け落ち相手の姉が、引き取りました」
「……そう、ですか」
でも、ここまでなら、まだ違うかもしれない。そう思った。でも。
「本当なら、私が引き取るべきだった。私には妻も子もいて、もうひとりくらい子供が増えたって、問題なかった。でも、家族は怯えた。混血の子どもとなど、一緒に暮らせないと」
混血の子ども。その言葉が聞こえた瞬間、私は、俯いていた顔を上げる。そして、写真の君を、食い入るように見つめた。
「その子は、大切な兄の忘れ形見だというのに……私は、家族を、どうやっても説得できなかった……。あろうことか、未婚の女性に、その子を託すしかなかった……」
写真の君は、怯えたような顔で、やがて私から顔を逸らしてしまう。
「だから私は、その子の前に姿を見せる資格などない。そう思って、ずっと生きてきたのです。でも、それでも、本当に大切だと思っている……それだけは……信じて欲しい……」
私から目を逸らしたまま、写真の君は左手で顔を覆う。まるで、私に顔を見られたくないというように。
私も、彼も、しばらく何も言えないまま、時間だけが過ぎる。
どう振る舞うべきなのか、何を言うべきか、私は迷う。そして、ようやく気持ちを決め、口を開いた。
「……きっと、誰も、悪くないんです。ただ皆が、それぞれに辛い思いをしただけ」
そうだ。駆け落ちをしなければ、愛する人と一緒にいられない世界。事故。家族を怯えさせるような異分子。仕方ないのだ。そこには悪意など、存在しないのだから。
「そして、誰もが出来ることをした。あなたは、家族を大切にする事を選び、家族を守った。女の子は、伯母が引き取った。それが正解なのかはわかりません。でも、決して不幸ではなかった……私はそう思います。
その女の子と似た境遇の私なら、叔父の家族を怯えさせてまで引き取られたいなんて思いません。きっと、肩身の狭い思いをしたでしょうから」
例え無理に引き取って、写真の君の心は満足しても、その先に待つのは不幸な未来だろう。彼の選択は間違ってないのだ。これ以上、罪悪感を抱えて生きていってほしくはない。
私は、ふと、写真の君の思いを聞いてみたくなった。
「その女の子は今、幸せに暮らしていると思いますか?」
「……ええ……ええ、彼女は、混血だと言われ辛い思いもたくさんしたでしょうに、それでも、誰の事も悪く言わず、誰よりも勉強ができ、立派な仕事について、愛する人を見つけ……とても素敵なレディに成長しました。学生だった頃は、笑う顔を見せなかったのに、今では笑ったり、悲しんだり……感情豊かになって……きっと、幸せだと思っているように、私には見えます。彼女はもう、どこに出しても恥ずかしくない、私の……自慢の姪です」
写真の君は、もう私から顔を隠す事なく、真摯な眼差しで言った。
「ふふ、そうなんですね。そんなに素敵な女性に育ったのなら、あなたがしてきた事も間違いなんかじゃなかった。……いつか、そのひとの前に、顔を見せてあげたらどうですか?君の、叔父さんなんだよって……きっと、喜んで迎えてくれますよ。まあ、私とは別の方ですから、本当にそうなるかどうかは保証できませんけど……ね」
私がイタズラっぽく言うと、写真の君は、くつくつと肩を震わせて笑い出した。
「はは……そうですね……いつか、ええ、いつか。きっと、会いにいくと約束します。アステさん……私の、どうでもいい昔話なんかにお付き合いいただき、ありがとうございました」
「いいえ。私、ひとの懺悔を聞くのにも慣れてきました。もしかしたら、ふふっ、医師より向いているかもしれませんね」
「ははは、では、また何かあれば、この男の懺悔を聞いていただけますか?」
「あらまあ、じゃあ二回目からは有料にしようかしら……なんて」
私は冗談まじりに答え、そして私達は笑い合った。
そして、馬車は無事、新しく住む部屋のある建物の前に到着した。
ここはなんと、魔王城の敷地内にある建物で、魔王城で働く者の中でも、急に呼ばれるような役職の者が住むための建物なのだそうだ。住居費は、福利厚生という事でなし。
そんなところに住んでいいのかとも思ったが、何やらとても上の地位の方からの口出しがあったとかなんとかで、私も慣れない部屋探しをして時間をかけてしまうよりはいいと思い、言葉に甘える事にした。
馬車に載せていたいくつかの荷物を、写真の君に手伝ってもらいながら運び込む。
私は写真の君に、よければお茶でもとお誘いしたものの、女性ひとりの部屋に上がり込むわけにはいきませんよ、と苦笑しながら断られてしまった。
私は、写真の君を見送るため、共に建物の外まで出る。別れを惜しむように馬車に乗り込んだ彼を、私は馬車が見えなくなるまで見送る。
次、彼に会う時は、きっと今までと違う関係なのだろう。不安と、期待が入り混じった気持ちになりながら、私は新しい部屋へとひとり戻った。
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