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1巻
1-2
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さすがに、祐子たちの目の前でお金のやりとりをするのはマナーが悪いだろうと、二人を先に店から出るよう促し、あとからこっそり支払った。
会計も済み、店の出口へと向かって歩いて行く。祐子と康司さんが先に行っていたので、岩泉さんの腕をとんとんと叩いて声をかけた。
「すみません、私が言い出したばかりに」
「え? なにが?」
彼は目をぱちくりさせて私を見下ろしている。
「支払いです……。私が祐子の分を払うと言い出したから、岩泉さんまで康司さんに食事を奢らなきゃならなくなっちゃって」
本当だったら、言い出しっぺの私が全員分払うのがスマートだ。男性同士は、お祝いの席とかで食事を奢ったりしないのかもしれない。
自分のせいで急な出費をさせてしまったかと思うと申し訳なかった。
すると、あまりにも情けない顔をしていたのか、岩泉さんが私の頭をぽんぽんと叩いて慰めてくれる。
「いや、そういうのにまったく気が回っていなかったから、却って助かったよ。田中さんはプレゼントも用意してたようだし、お財布が厳しくなるのは当然だ。祐子ちゃんが大事そうに持ってたあれ、君があげたんだろ?」
周りのことがよく見えている人だなぁ。それに、私に気を遣わせないように、さり気なくフォローしてくれて。
「はい。そう言ってもらえて助かります。実は、プレゼントも張り切りすぎて、予算オーバーしてて」
ほっと息を吐きながら言うと、岩泉さんは楽しそうに笑う。その爽やかな笑顔を見たら、さらに心が軽くなった。
レストランの外に出ると、湿った空気が肌を撫でる。もしかしたら、店にいる間に少し降ったのかもしれない。そう思いながら空を見上げていると――
「夕夏ちゃん、送っていくよ」
康司さんが車のキーをかざしながら言ってくれたけれど、丁重にお断りした。
「そう? 遠慮しなくてもいいのに。あ、そうだ。連絡先を教えてくれる? 祐子が家出した時のために」
さっきお店で話していた、「愛の逃避行」のことを気にしているらしい。祐子にべた惚れな様子に心が温まり、思わず笑みがこぼれる。
「連絡先、いいですよ。でも、役には立たないと思いますが」
祐子が家出するような事態になれば、私は全面的に彼女の味方だ。居場所を聞かれても、答えることなんてありえない。
言外に含めた意味を正確に捉えたようで、康司さんは苦笑いしている。
「それでも教えてほしい。誤解されて家出ってことも考えられるからね」
「なるほど。どっちにしても、私のスマホが鳴らないのが一番です」
バッグからスマホを取り出し、自分の電話番号を表示させながらにっこり笑った。
連絡先を交換した後は、祐子たちを駐車場まで送っていくことに。四人で連れ立って、康司さんの車のある場所まで行く。
「夕夏、いろいろありがと! またね!」
「またね!」
祐子たちの乗った車を見送って振り返ると、岩泉さんが待ち構えたように言った。
「送っていくよ」
康司さんと同じ言葉だ。
――過去の私だったら、自意識過剰にも「もしかしたら、私に好意があるのかな!?」と思ってしまったところだろう。
でも、腰に手を当てて立つイケメンに言われても、そんな勘違いはまったく起こさない。
ハイスペックでイケメンで、しかも友人の婚約者の友人という私にまで優しいなんて、非の打ちどころがなさすぎる。
彼の気遣いが、なんだかくすぐったくて、私はくすくすと笑った。
「ありがとうございます。でも、私の家、ここから近いので、一人でタクシーで帰れます」
彼に、そんな気は遣わなくていいと伝えて、店の近くの道に停まっているタクシーへ向かった。
「うん、じゃあ、タクシーに乗ろうか」
岩泉さんは、ニコニコして言う。
そうして、私が乗り込むより先にタクシーに近づき、運転手になにか話しかけた。
……うん? 岩泉さんも一緒に乗るのだろうか。
ジェントルマンは、一度断られたくらいでは簡単に引かないようだ。女性は、言葉と行動が裏腹な時もあるし、真に受けて送らなくて、怒られた経験があるのかもしれない。でも私は、そんなつもりで言ったわけじゃないから安心してほしい。
「私は本当に一人で平気です。だからどうぞ、お気になさらず」
「うん、わかった」
今度はあっさりと了承してくれたのでホッとする。
開いたドアの横に手を置き、エスコートしてくれたのでそのまま乗り込んだ。
「もう少し、奥へ行ってくれる?」
「え?」
どういうこと? さっき私が一人で帰ると言った時『わかった』と答えてくれたはずなのに。
「もうちょっと呑みたいんだ。付き合ってくれない?」
「えぇっと……」
ふわふわする頭で、どう返事をしようか考えている間に、車のシートと背中の間に手を差し入れられ、奥へ行くよう促された。
「あ、あの……」
もうちょっと付き合うくらいは構わないのだが、私でいいのだろうか。最初は紹介という形で会う約束になっていたから、気を遣って誘ってくれているのではないだろうか。それは申し訳ない。
そんな複雑な思いが脳裏をよぎったけれど、酔った頭では考えがまとまらなくてアタフタしてしまう。すると、彼は私が帰りの心配をしていると思ったらしく、安心させるように言った。
「ああ、ちゃんと最後は家に送ってあげるから」
「は、はい」
「うん」
ニコニコニコニコ。
岩泉さんは、とても楽しそうに笑っている。その笑顔を見たら、少なくとも彼が嫌々誘っているわけではないとわかった。
「ふふっ。もう一軒、行きましょう」
だから、嬉しいなあと思って私も笑った。
そうして着いたのは、喫茶店のような佇まいのワインバーだった。実際、昼間は喫茶店として営業しているらしい。店内のあちこちにワインの瓶が飾ってあって、可愛いお店だ。
――誘われるまま呑みにきちゃったけど、本当によかったのかな?
今さらながら、心配になってくる。
そんなことを考えているうちに、カウンター席に通された。岩泉さんと並んで席につく。
「ええと、私は酔っているのでソフトドリンクがいいです」
本格的に酔っている。さっきだって、歩くたびにふわんふわんとしていた。
「そっか。無理強いはしないけど、あと一杯くらい、サングリアとかどう? ワインカクテル。おいしいよ?」
アルコールが入っていないものを頼もうとしたのだが、岩泉さんが示したカクテルがものすごくおいしそうで、あと一杯だけ呑むことにした。
「大丈夫。酔いつぶれたら、俺の家に連れて帰って、責任持って介抱するから」
そんな冗談もさらりと言ってしまう彼に、私は免疫がないのだからやめてほしいと思う。
だけど、彼は私の事情なんて知るはずもない。必死で平静を装って返事をした。
「そうですか……」
いくら彼を意識していないとは言っても、こんな過激なことを言われて平気でいられるわけがない。なにせ私は、男性と付き合ったことなど一度もないのだ。それどころか、二人きりで呑みにきたのだって初である。
酔いとは別の熱さが頬に集まってきたけれど、気がつかないふりをしてメニューを見つめた。
「夕夏ちゃん、俺にも、連絡先教えてくれる?」
注文が終わった後で、岩泉さんがスマホを取り出しながら聞いてきた。
――ん? 夕夏ちゃん? さっきの食事会の時は『田中さん』と呼んでいなかったっけ。
急に親しみを込めたような呼び方をされて、ちょっと動揺してしまう。いくら意識するまでもない別世界の相手とはいえ、刺激が強すぎる。
とはいえ、連絡先を聞かれたのは社交辞令だろう。私に恥をかかせないように、聞いてくれているに違いない。
「はあ、いいですけど。そんなに気を遣ってくださらなくて大丈夫ですよ?」
彼の手元を、ぼんやりと眺めながら答えた。
すると彼は、私が言う番号を登録して、一度電話をかけてきた。
その慣れた手つきから、彼にとってはよくしていることなんだろうと思う。そして、女性に番号を聞いて断られたことなんてないんだろうなあ、とも。
お互いに番号を登録し終わると、岩泉さんがテーブルに片肘をついて、私を覗き込んでくる。
妙に距離が近くて、ぎょっとしていると――
「夕夏ちゃん? 俺のこと、どう思う?」
唐突に、そんなことを聞いてきた。
なんだか、告白する前ふりのようなセリフだ。
というか、女の子に想いを伝えるよう促しているような、「好き」と返ってくるのが当然のような言い方に、少し呆れる。
私もたいがい自意識過剰だが、彼もなかなかの自信家である。とはいえ、これだけあらゆるものが整っているなら、自信家なのも頷ける話だ。
とにかく。彼がドキッとすることを言っても、今はそんな流れじゃない。なにせ相手は私。彼が好意を持つようなタイプの女じゃない。
――うん、大丈夫。口説かれているなんて勘違いしない。
「ハイスペックなイケメンさん」
「ぶはっ」
私が簡潔に答えると、思わずといった感じで噴き出された。
それから岩泉さんは、すごく楽しそうな表情で、内緒話をするように顔を耳元に近づけてくる。
「そのハイスペックなイケメンさんと付き合ってみない?」
――んんんんん?
その時ちょうど、サングリアが運ばれてきた。グラスの縁にカットオレンジを差してあって、とってもお洒落だ。
気持ちを落ち着けるためにグラスを手に取り、オレンジをぱくんと食べる。それから意を決して、口を開いた。
「んと、ですね」
「うん?」
岩泉さんは体ごと私のほうを向き、片肘をついて見つめてくる。
「私って、自意識過剰なところがありまして」
相手の真意がわからずドキドキしながらしゃべるより、先に自己申告してしまおうと、口を開く。
きっと、岩泉さんはいろいろな女性と接したことがあるだろうし、変に格好をつけて空回るよりマシだと思った。
「へえ」
岩泉さんは、さして驚いた風もなく、そう言った。私を馬鹿にしたような様子のない、彼の優しさがありがたい。
「それでですね、んと、今、もしかして口説かれてる……? みたいに感じるんですが」
言いながら、やっぱり恥ずかしくて、声が小さくなっていく。
――もう、意識しないで、さらっと言えたらいいのに!
「ああ、してるからね」
そう、こんな風に、さらっと答えられたら。
……? あれ。
「そっかあ――してる……?」
「そう。俺と付き合って?」
思考停止。
五秒。
十秒。
三十秒経過――
岩泉さんの顔を見たまま固まってたら、彼がふっと笑った。それから、私の唇についていたオレンジの粒を指で拭われた――ところで正気に戻って…………
「うえええっ、ゔぇぇ!?」
大音量で奇声を発してしまったけど、私は悪くないと思う。
岩泉さんは、私のあまりの声の大きさにびっくりした顔をしてから、にっこり笑った。
その笑顔に、はっとして叫んだ。
「からかわないでください! もう、もうっ……! 私はそういうの、慣れてないんですっ」
慣れてないどころか、初めてだ。
男性から冗談でも告白まがいのことをされたことで、目に涙まで浮かんでくる。
「からかってないけど」
「けど、面白がっているとか言うんでしょ! もう、もう、もぉうっ」
恥ずかしさで頭が回らなくて、「もう」としか言葉が出てこない。
岩泉さんは私を見て、くすくす笑って言った。
「そういう姿が可愛いと思うんだ。いつも隣にいられたらいいなって」
するりと伸びてきた彼の手が、私の髪を一房すくい上げる。
たったそれだけの仕草に、私は固まって動けなくなってしまった。
――『可愛い』。
そんなこと、初めて言われた。ずっと一人で生きていくことを目標にしてきたけど、やっぱり可愛いという言葉は嬉しくて。でも、どんな反応を返せばいいのかわからない。
「あの、あの……っ!」
パニックになって、意味なく手を振り回してしまう。彼は、そんな私を面白そうに眺めながら――
「うん、落ち着こうか」
ぽん、と私の頭を軽く叩き、顔を覗き込んできた。ち、近い!
「は、い…………」
切れ長の目が、優しく細められる。間近で見る彼も、やっぱり格好よくて、頭の中がぐしゃぐしゃになってしまう。しかも、うろたえてうるさくする私を、呆れもせずに微笑んで見守っていてくれる。
しばらくは俯いていたけれど、ちらりと視線を向けると、なにも言わずに彼は微笑む。
そんな彼の姿に、じわじわと顔が熱くなってくる。
「ふふ。もっと真っ赤になった。可愛い」
耳を塞ぎたくなるような甘い声で、何度も私を可愛いと言う。
蕩けるようなセリフとともに置かれた、頭の上の大きな掌が気持ちいい。
恥ずかしくていたたまれないのに、頭に手を置かれると妙に落ち着く。顔を覗き込まれて、優しい目で見つめられるたびに、不思議と緊張は解れていった。
私がじっと見つめても、目の前の岩泉さんは、依然として満面の笑みだ。
「ねえ、俺と付き合ってほしいと言ったんだけど、その返事を聞かせてもらえない? まあ、今日会ったばかりだし、すぐには無理なら、これから考えてほしい」
――本気なの!?
てっきり、イケメンさんのリップサービスかと思ってた!
どうして私なのとか、こういう時はどう答えたらいいのとか、いろんな疑問が頭の中を通り過ぎていく。またもアタフタし始めた私に、彼は言う。
「あ、オッケーなら、今すぐ返事してくれていいよ?」
オッケーなわけない。たった数分、二人でいるだけで心臓が破裂寸前なのに。
そうだ。よく聞くあのセリフでお茶を濁して……!
「あ、おと……」
……もだちから……
「まさか断る気じゃないよね? それなら、もう少し俺を知ってから判断してほしい」
お友達から、と最後まで言わせてもらえなかった。
さすが百戦錬磨の――かどうかは知らないが――イケメン。ぬかりない。
「それと、お友達からとか、無理だから」
――あっれ~? そのフレーズって、告白をお断りする時の常套句なんじゃないのかな? こう言っておけば万事解決! の古来より伝わる魔法の言葉じゃなかったっけ?
「だって俺は、夕夏と手をつないで歩きたいし、抱き寄せてもみたい。キスしたりその後も……」
――突然なに言ってんの、この人!? いきなり紡がれる甘く過激な言葉に、私はぶるぶるっと首を横に振った。
っていうか、さり気なく『夕夏ちゃん』から呼び捨てに変わってるし!
なにせ私はお付き合い経験ゼロ。同年代の多くの女性が持っているであろうスルースキルも皆無だ。
あまりのことに、なにも言葉が出てこない。ぱっくんぱっくんと口を開け閉めしている間に、頭にあった彼の手が、するりと頬に落ちてきた。そして親指で唇をたどられ、顎を捕まえられる。
「キス、してみていい?」
「ダメです!」
瞬時に答えた。
今、顔に触れられているのだって、私にとっては初めての経験。この上、キスまでされたら、即気絶したっておかしくない。
岩泉さんは私の答えの早さに驚いた様子で目を丸くして、顎から思わずといったように手を離し――大笑いした。
その後は、必要以上に接近したり過度のスキンシップをされることはなかった。
私がサングリアを呑み終えたところで店を出る。それからまた一緒にタクシーに乗って、私の家の前まで送ってくれた。
アパートの近くの大通り沿いで降ろしてくれたら歩いて帰ると、固辞したけれど――
「夕夏がどんなところに住んでるのか知りたい。……って言ったら、気持ち悪い?」
それまでの自信に満ち溢れた態度から一転、悲しそうな顔で覗き込まれて、思わず首を横に振った。
気持ち悪いってことはないけれど、遠回りすることになるから料金がかさむのが気になる、と言うと、彼はまた満面の笑みを浮かべる。
「そういうの気にするところも可愛い」
タクシーのメーターを気にすることの、どこが可愛いのかさっぱりだ。
……バーで告白まがいのことをされて以来、彼は私が恥ずかしがることしか言わなくなってしまった。彼が私に本気なはずはないとわかっているのに、ドキドキが止まらない。
――結局、アパートの前まで送ると言って、彼は譲ってくれなかった。私は押し切られる形で了承した。
アパートの前に着いてタクシーから降りようとしたら、車内に残った彼に手を引かれる。少し体が傾き、彼と顔が接近した。
「簡単に、家まで送らせたらダメだよ」
耳元でささやかれた――上に、ふっと、息を吹きかけられた。
思わず体が跳ね上がる。慌てて降りると、タクシーはすぐに発進した。岩泉さんはうしろを向き、手を振っている。大きな口を開けて笑いながら。
――お前が言うな~~~!
真っ赤な顔で、耳を押さえて立ち尽くした状態で、タクシーを見送った。
顔の赤みが引かないまま家に帰って、リビングの真ん中に座り込んでいる現在。
――私の勘違いでなければ、多分だけど、告白、されてしまった……
去り際に見た彼は、かなり笑っていた。やっぱり冗談だったのだろうか。男性に免疫のなさそうな私の反応が新鮮で、ちょっとからかってみただけとか……
うん、やっぱり冗談だ。また自意識過剰にも勘違いするところだった。
――彼は、私がもしさっきお付き合いを受けると言ったらどうしたのだろう。その場ですぐに「冗談だって」と否定した? それとも、とりあえずお付き合いを始めるけれど、彼が飽きたらすぐに捨てられた……? いずれにしても、申し出を受けたら傷付くことになりそう。
そう思うのに、彼の優しい笑顔や、低い声でささやかれた甘いセリフが蘇ってきて頭から離れない。さっきからずっと、思い出しては身悶える、というのを繰り返している。どうしたらいいんだろう?
格好いいのはもちろんだけど、私がメニューに悩んだり返答に困ったりした時のさりげない優しさに、胸がときめいてしまった。自分が彼の特別になったような気がして。
――自意識過剰と言われるのが怖くて、ずっとずっと封じ込めていた気持ちを、自然と引き出されてしまった。とはいえ、この想いに身を任せて行動することはできない。もしも彼に冷たく拒絶されたら、それこそ立ち直れなくなってしまいそうだから。
――うん、やっぱり考えるのはやめよう。
私は、彼の笑顔を思い浮かべて強く首を横に振った。
彼に恋をしても無駄だし、向こうも私をからかっただけだ。
無理矢理自分を納得させようとしているのに、彼に触れられた髪や頬が熱を持っていて、余計に意識してしまう。
ふいに、タクシーを降りる時の彼を思い出す。
――耳に息を吹きかけるとか!
あんなイタズラ、小学生の頃にされて以来なんですけど! 大人もやるんですね! いや、むしろ大人の高等恋愛テクニックですか!? 現に私は、体の芯がゾクゾクするような変な感覚があって、余計に意識しちゃってますから!
………………
あああぁぁ~。
岩泉さんの恋愛観は、ハイレベルすぎてついていけません。
そんなことを考えながら、さらに一人で身悶え続けていた。
その時、スマホがメールの着信を伝える。
頭を切り替えるつもりで、すぐにメールチェックをした。
『今帰ったよ。ただいま。次はいつ会える?』
送り主は、もちろん岩泉さん。思いもかけないメールに、頭が沸騰して、私の許容量を超えた。
2
次の日から、岩泉さんの甘いメール攻撃が始まった。
本気かどうかは別としても、好意を向けてくれているのだから、「攻撃」という言葉はふさわしくないのかもしれない。しかし、私にとっては攻撃に他ならないのだ。
『食事会、楽しかったね』
『あの日はすごく可愛かった』
『また会いたい』
と、どこのドラマのセリフですか、と思うようなものが次々に送られてくる。
私は自分のことを自意識過剰だと思っているが、彼もたいがい自信過剰だ。
私だったら、こんなことを送って引かれないかな? と気になって仕方ないだろう。あの容姿と性格ならば、自信があって当然かもしれないけれど、そういうのを恐れない心の強さを尊敬する。
だからと言って、彼の誘いに乗ることはできず、『ごめんなさい。会えません』と送った。
しかし、それで引き下がる彼ではない。
『忙しいみたいだね。いつなら会える?』
と、すぐさま返事がくる。
――昨日も一昨日も、夜九時過ぎにメールがきた。
現在の時刻は八時。この三日の経験から、私は少し……少しだけ、メールがくるのを期待していた。
毎回『ありがとうございます』とか『ごめんなさい』とか工夫のない返事しかできないくせに、自分勝手なのはわかっている。
連日届く甘いメールを見るたびに、彼は本当に私を可愛いと思ってくれているのかもしれないと、期待しそうになっている自分がいる。
――だけど、もし。もしも私がその気になって応じたら……
『え、本気にしてたの? 俺が君相手に真剣交際しようと思うとでも? どんだけ自分に自信があるんだよ』
そんなことを言われる自分が、容易に想像できる。
誰かを好きになって、その想いを表現するのが怖い。
もし彼に冷たく突き放されたら、真に受けてその気になったことが恥ずかしくて、自己嫌悪で、もう人前に出ることさえできなくなってしまうかもしれない。
リビングで座り、そんなことをグルグルと考えていた私は、もう一度、時間を見る。さっきから、まだ五分も経っていない。
ため息を吐いて、自分はどれだけ彼からの連絡を楽しみにしているのかと自嘲気味に笑った時だった。
ルルルルル……ルルルルル……
スマホが着信を知らせる。この音は、メールじゃなくて電話だ。
ということは、お目当ての連絡ではないと、がっかりしながら確認したら――
画面に表示されていた名前は、「岩泉さん」。
「えっ、なんで!?」
思わず声に出してスマホを持ち上げた。
会計も済み、店の出口へと向かって歩いて行く。祐子と康司さんが先に行っていたので、岩泉さんの腕をとんとんと叩いて声をかけた。
「すみません、私が言い出したばかりに」
「え? なにが?」
彼は目をぱちくりさせて私を見下ろしている。
「支払いです……。私が祐子の分を払うと言い出したから、岩泉さんまで康司さんに食事を奢らなきゃならなくなっちゃって」
本当だったら、言い出しっぺの私が全員分払うのがスマートだ。男性同士は、お祝いの席とかで食事を奢ったりしないのかもしれない。
自分のせいで急な出費をさせてしまったかと思うと申し訳なかった。
すると、あまりにも情けない顔をしていたのか、岩泉さんが私の頭をぽんぽんと叩いて慰めてくれる。
「いや、そういうのにまったく気が回っていなかったから、却って助かったよ。田中さんはプレゼントも用意してたようだし、お財布が厳しくなるのは当然だ。祐子ちゃんが大事そうに持ってたあれ、君があげたんだろ?」
周りのことがよく見えている人だなぁ。それに、私に気を遣わせないように、さり気なくフォローしてくれて。
「はい。そう言ってもらえて助かります。実は、プレゼントも張り切りすぎて、予算オーバーしてて」
ほっと息を吐きながら言うと、岩泉さんは楽しそうに笑う。その爽やかな笑顔を見たら、さらに心が軽くなった。
レストランの外に出ると、湿った空気が肌を撫でる。もしかしたら、店にいる間に少し降ったのかもしれない。そう思いながら空を見上げていると――
「夕夏ちゃん、送っていくよ」
康司さんが車のキーをかざしながら言ってくれたけれど、丁重にお断りした。
「そう? 遠慮しなくてもいいのに。あ、そうだ。連絡先を教えてくれる? 祐子が家出した時のために」
さっきお店で話していた、「愛の逃避行」のことを気にしているらしい。祐子にべた惚れな様子に心が温まり、思わず笑みがこぼれる。
「連絡先、いいですよ。でも、役には立たないと思いますが」
祐子が家出するような事態になれば、私は全面的に彼女の味方だ。居場所を聞かれても、答えることなんてありえない。
言外に含めた意味を正確に捉えたようで、康司さんは苦笑いしている。
「それでも教えてほしい。誤解されて家出ってことも考えられるからね」
「なるほど。どっちにしても、私のスマホが鳴らないのが一番です」
バッグからスマホを取り出し、自分の電話番号を表示させながらにっこり笑った。
連絡先を交換した後は、祐子たちを駐車場まで送っていくことに。四人で連れ立って、康司さんの車のある場所まで行く。
「夕夏、いろいろありがと! またね!」
「またね!」
祐子たちの乗った車を見送って振り返ると、岩泉さんが待ち構えたように言った。
「送っていくよ」
康司さんと同じ言葉だ。
――過去の私だったら、自意識過剰にも「もしかしたら、私に好意があるのかな!?」と思ってしまったところだろう。
でも、腰に手を当てて立つイケメンに言われても、そんな勘違いはまったく起こさない。
ハイスペックでイケメンで、しかも友人の婚約者の友人という私にまで優しいなんて、非の打ちどころがなさすぎる。
彼の気遣いが、なんだかくすぐったくて、私はくすくすと笑った。
「ありがとうございます。でも、私の家、ここから近いので、一人でタクシーで帰れます」
彼に、そんな気は遣わなくていいと伝えて、店の近くの道に停まっているタクシーへ向かった。
「うん、じゃあ、タクシーに乗ろうか」
岩泉さんは、ニコニコして言う。
そうして、私が乗り込むより先にタクシーに近づき、運転手になにか話しかけた。
……うん? 岩泉さんも一緒に乗るのだろうか。
ジェントルマンは、一度断られたくらいでは簡単に引かないようだ。女性は、言葉と行動が裏腹な時もあるし、真に受けて送らなくて、怒られた経験があるのかもしれない。でも私は、そんなつもりで言ったわけじゃないから安心してほしい。
「私は本当に一人で平気です。だからどうぞ、お気になさらず」
「うん、わかった」
今度はあっさりと了承してくれたのでホッとする。
開いたドアの横に手を置き、エスコートしてくれたのでそのまま乗り込んだ。
「もう少し、奥へ行ってくれる?」
「え?」
どういうこと? さっき私が一人で帰ると言った時『わかった』と答えてくれたはずなのに。
「もうちょっと呑みたいんだ。付き合ってくれない?」
「えぇっと……」
ふわふわする頭で、どう返事をしようか考えている間に、車のシートと背中の間に手を差し入れられ、奥へ行くよう促された。
「あ、あの……」
もうちょっと付き合うくらいは構わないのだが、私でいいのだろうか。最初は紹介という形で会う約束になっていたから、気を遣って誘ってくれているのではないだろうか。それは申し訳ない。
そんな複雑な思いが脳裏をよぎったけれど、酔った頭では考えがまとまらなくてアタフタしてしまう。すると、彼は私が帰りの心配をしていると思ったらしく、安心させるように言った。
「ああ、ちゃんと最後は家に送ってあげるから」
「は、はい」
「うん」
ニコニコニコニコ。
岩泉さんは、とても楽しそうに笑っている。その笑顔を見たら、少なくとも彼が嫌々誘っているわけではないとわかった。
「ふふっ。もう一軒、行きましょう」
だから、嬉しいなあと思って私も笑った。
そうして着いたのは、喫茶店のような佇まいのワインバーだった。実際、昼間は喫茶店として営業しているらしい。店内のあちこちにワインの瓶が飾ってあって、可愛いお店だ。
――誘われるまま呑みにきちゃったけど、本当によかったのかな?
今さらながら、心配になってくる。
そんなことを考えているうちに、カウンター席に通された。岩泉さんと並んで席につく。
「ええと、私は酔っているのでソフトドリンクがいいです」
本格的に酔っている。さっきだって、歩くたびにふわんふわんとしていた。
「そっか。無理強いはしないけど、あと一杯くらい、サングリアとかどう? ワインカクテル。おいしいよ?」
アルコールが入っていないものを頼もうとしたのだが、岩泉さんが示したカクテルがものすごくおいしそうで、あと一杯だけ呑むことにした。
「大丈夫。酔いつぶれたら、俺の家に連れて帰って、責任持って介抱するから」
そんな冗談もさらりと言ってしまう彼に、私は免疫がないのだからやめてほしいと思う。
だけど、彼は私の事情なんて知るはずもない。必死で平静を装って返事をした。
「そうですか……」
いくら彼を意識していないとは言っても、こんな過激なことを言われて平気でいられるわけがない。なにせ私は、男性と付き合ったことなど一度もないのだ。それどころか、二人きりで呑みにきたのだって初である。
酔いとは別の熱さが頬に集まってきたけれど、気がつかないふりをしてメニューを見つめた。
「夕夏ちゃん、俺にも、連絡先教えてくれる?」
注文が終わった後で、岩泉さんがスマホを取り出しながら聞いてきた。
――ん? 夕夏ちゃん? さっきの食事会の時は『田中さん』と呼んでいなかったっけ。
急に親しみを込めたような呼び方をされて、ちょっと動揺してしまう。いくら意識するまでもない別世界の相手とはいえ、刺激が強すぎる。
とはいえ、連絡先を聞かれたのは社交辞令だろう。私に恥をかかせないように、聞いてくれているに違いない。
「はあ、いいですけど。そんなに気を遣ってくださらなくて大丈夫ですよ?」
彼の手元を、ぼんやりと眺めながら答えた。
すると彼は、私が言う番号を登録して、一度電話をかけてきた。
その慣れた手つきから、彼にとってはよくしていることなんだろうと思う。そして、女性に番号を聞いて断られたことなんてないんだろうなあ、とも。
お互いに番号を登録し終わると、岩泉さんがテーブルに片肘をついて、私を覗き込んでくる。
妙に距離が近くて、ぎょっとしていると――
「夕夏ちゃん? 俺のこと、どう思う?」
唐突に、そんなことを聞いてきた。
なんだか、告白する前ふりのようなセリフだ。
というか、女の子に想いを伝えるよう促しているような、「好き」と返ってくるのが当然のような言い方に、少し呆れる。
私もたいがい自意識過剰だが、彼もなかなかの自信家である。とはいえ、これだけあらゆるものが整っているなら、自信家なのも頷ける話だ。
とにかく。彼がドキッとすることを言っても、今はそんな流れじゃない。なにせ相手は私。彼が好意を持つようなタイプの女じゃない。
――うん、大丈夫。口説かれているなんて勘違いしない。
「ハイスペックなイケメンさん」
「ぶはっ」
私が簡潔に答えると、思わずといった感じで噴き出された。
それから岩泉さんは、すごく楽しそうな表情で、内緒話をするように顔を耳元に近づけてくる。
「そのハイスペックなイケメンさんと付き合ってみない?」
――んんんんん?
その時ちょうど、サングリアが運ばれてきた。グラスの縁にカットオレンジを差してあって、とってもお洒落だ。
気持ちを落ち着けるためにグラスを手に取り、オレンジをぱくんと食べる。それから意を決して、口を開いた。
「んと、ですね」
「うん?」
岩泉さんは体ごと私のほうを向き、片肘をついて見つめてくる。
「私って、自意識過剰なところがありまして」
相手の真意がわからずドキドキしながらしゃべるより、先に自己申告してしまおうと、口を開く。
きっと、岩泉さんはいろいろな女性と接したことがあるだろうし、変に格好をつけて空回るよりマシだと思った。
「へえ」
岩泉さんは、さして驚いた風もなく、そう言った。私を馬鹿にしたような様子のない、彼の優しさがありがたい。
「それでですね、んと、今、もしかして口説かれてる……? みたいに感じるんですが」
言いながら、やっぱり恥ずかしくて、声が小さくなっていく。
――もう、意識しないで、さらっと言えたらいいのに!
「ああ、してるからね」
そう、こんな風に、さらっと答えられたら。
……? あれ。
「そっかあ――してる……?」
「そう。俺と付き合って?」
思考停止。
五秒。
十秒。
三十秒経過――
岩泉さんの顔を見たまま固まってたら、彼がふっと笑った。それから、私の唇についていたオレンジの粒を指で拭われた――ところで正気に戻って…………
「うえええっ、ゔぇぇ!?」
大音量で奇声を発してしまったけど、私は悪くないと思う。
岩泉さんは、私のあまりの声の大きさにびっくりした顔をしてから、にっこり笑った。
その笑顔に、はっとして叫んだ。
「からかわないでください! もう、もうっ……! 私はそういうの、慣れてないんですっ」
慣れてないどころか、初めてだ。
男性から冗談でも告白まがいのことをされたことで、目に涙まで浮かんでくる。
「からかってないけど」
「けど、面白がっているとか言うんでしょ! もう、もう、もぉうっ」
恥ずかしさで頭が回らなくて、「もう」としか言葉が出てこない。
岩泉さんは私を見て、くすくす笑って言った。
「そういう姿が可愛いと思うんだ。いつも隣にいられたらいいなって」
するりと伸びてきた彼の手が、私の髪を一房すくい上げる。
たったそれだけの仕草に、私は固まって動けなくなってしまった。
――『可愛い』。
そんなこと、初めて言われた。ずっと一人で生きていくことを目標にしてきたけど、やっぱり可愛いという言葉は嬉しくて。でも、どんな反応を返せばいいのかわからない。
「あの、あの……っ!」
パニックになって、意味なく手を振り回してしまう。彼は、そんな私を面白そうに眺めながら――
「うん、落ち着こうか」
ぽん、と私の頭を軽く叩き、顔を覗き込んできた。ち、近い!
「は、い…………」
切れ長の目が、優しく細められる。間近で見る彼も、やっぱり格好よくて、頭の中がぐしゃぐしゃになってしまう。しかも、うろたえてうるさくする私を、呆れもせずに微笑んで見守っていてくれる。
しばらくは俯いていたけれど、ちらりと視線を向けると、なにも言わずに彼は微笑む。
そんな彼の姿に、じわじわと顔が熱くなってくる。
「ふふ。もっと真っ赤になった。可愛い」
耳を塞ぎたくなるような甘い声で、何度も私を可愛いと言う。
蕩けるようなセリフとともに置かれた、頭の上の大きな掌が気持ちいい。
恥ずかしくていたたまれないのに、頭に手を置かれると妙に落ち着く。顔を覗き込まれて、優しい目で見つめられるたびに、不思議と緊張は解れていった。
私がじっと見つめても、目の前の岩泉さんは、依然として満面の笑みだ。
「ねえ、俺と付き合ってほしいと言ったんだけど、その返事を聞かせてもらえない? まあ、今日会ったばかりだし、すぐには無理なら、これから考えてほしい」
――本気なの!?
てっきり、イケメンさんのリップサービスかと思ってた!
どうして私なのとか、こういう時はどう答えたらいいのとか、いろんな疑問が頭の中を通り過ぎていく。またもアタフタし始めた私に、彼は言う。
「あ、オッケーなら、今すぐ返事してくれていいよ?」
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「まさか断る気じゃないよね? それなら、もう少し俺を知ってから判断してほしい」
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「それと、お友達からとか、無理だから」
――あっれ~? そのフレーズって、告白をお断りする時の常套句なんじゃないのかな? こう言っておけば万事解決! の古来より伝わる魔法の言葉じゃなかったっけ?
「だって俺は、夕夏と手をつないで歩きたいし、抱き寄せてもみたい。キスしたりその後も……」
――突然なに言ってんの、この人!? いきなり紡がれる甘く過激な言葉に、私はぶるぶるっと首を横に振った。
っていうか、さり気なく『夕夏ちゃん』から呼び捨てに変わってるし!
なにせ私はお付き合い経験ゼロ。同年代の多くの女性が持っているであろうスルースキルも皆無だ。
あまりのことに、なにも言葉が出てこない。ぱっくんぱっくんと口を開け閉めしている間に、頭にあった彼の手が、するりと頬に落ちてきた。そして親指で唇をたどられ、顎を捕まえられる。
「キス、してみていい?」
「ダメです!」
瞬時に答えた。
今、顔に触れられているのだって、私にとっては初めての経験。この上、キスまでされたら、即気絶したっておかしくない。
岩泉さんは私の答えの早さに驚いた様子で目を丸くして、顎から思わずといったように手を離し――大笑いした。
その後は、必要以上に接近したり過度のスキンシップをされることはなかった。
私がサングリアを呑み終えたところで店を出る。それからまた一緒にタクシーに乗って、私の家の前まで送ってくれた。
アパートの近くの大通り沿いで降ろしてくれたら歩いて帰ると、固辞したけれど――
「夕夏がどんなところに住んでるのか知りたい。……って言ったら、気持ち悪い?」
それまでの自信に満ち溢れた態度から一転、悲しそうな顔で覗き込まれて、思わず首を横に振った。
気持ち悪いってことはないけれど、遠回りすることになるから料金がかさむのが気になる、と言うと、彼はまた満面の笑みを浮かべる。
「そういうの気にするところも可愛い」
タクシーのメーターを気にすることの、どこが可愛いのかさっぱりだ。
……バーで告白まがいのことをされて以来、彼は私が恥ずかしがることしか言わなくなってしまった。彼が私に本気なはずはないとわかっているのに、ドキドキが止まらない。
――結局、アパートの前まで送ると言って、彼は譲ってくれなかった。私は押し切られる形で了承した。
アパートの前に着いてタクシーから降りようとしたら、車内に残った彼に手を引かれる。少し体が傾き、彼と顔が接近した。
「簡単に、家まで送らせたらダメだよ」
耳元でささやかれた――上に、ふっと、息を吹きかけられた。
思わず体が跳ね上がる。慌てて降りると、タクシーはすぐに発進した。岩泉さんはうしろを向き、手を振っている。大きな口を開けて笑いながら。
――お前が言うな~~~!
真っ赤な顔で、耳を押さえて立ち尽くした状態で、タクシーを見送った。
顔の赤みが引かないまま家に帰って、リビングの真ん中に座り込んでいる現在。
――私の勘違いでなければ、多分だけど、告白、されてしまった……
去り際に見た彼は、かなり笑っていた。やっぱり冗談だったのだろうか。男性に免疫のなさそうな私の反応が新鮮で、ちょっとからかってみただけとか……
うん、やっぱり冗談だ。また自意識過剰にも勘違いするところだった。
――彼は、私がもしさっきお付き合いを受けると言ったらどうしたのだろう。その場ですぐに「冗談だって」と否定した? それとも、とりあえずお付き合いを始めるけれど、彼が飽きたらすぐに捨てられた……? いずれにしても、申し出を受けたら傷付くことになりそう。
そう思うのに、彼の優しい笑顔や、低い声でささやかれた甘いセリフが蘇ってきて頭から離れない。さっきからずっと、思い出しては身悶える、というのを繰り返している。どうしたらいいんだろう?
格好いいのはもちろんだけど、私がメニューに悩んだり返答に困ったりした時のさりげない優しさに、胸がときめいてしまった。自分が彼の特別になったような気がして。
――自意識過剰と言われるのが怖くて、ずっとずっと封じ込めていた気持ちを、自然と引き出されてしまった。とはいえ、この想いに身を任せて行動することはできない。もしも彼に冷たく拒絶されたら、それこそ立ち直れなくなってしまいそうだから。
――うん、やっぱり考えるのはやめよう。
私は、彼の笑顔を思い浮かべて強く首を横に振った。
彼に恋をしても無駄だし、向こうも私をからかっただけだ。
無理矢理自分を納得させようとしているのに、彼に触れられた髪や頬が熱を持っていて、余計に意識してしまう。
ふいに、タクシーを降りる時の彼を思い出す。
――耳に息を吹きかけるとか!
あんなイタズラ、小学生の頃にされて以来なんですけど! 大人もやるんですね! いや、むしろ大人の高等恋愛テクニックですか!? 現に私は、体の芯がゾクゾクするような変な感覚があって、余計に意識しちゃってますから!
………………
あああぁぁ~。
岩泉さんの恋愛観は、ハイレベルすぎてついていけません。
そんなことを考えながら、さらに一人で身悶え続けていた。
その時、スマホがメールの着信を伝える。
頭を切り替えるつもりで、すぐにメールチェックをした。
『今帰ったよ。ただいま。次はいつ会える?』
送り主は、もちろん岩泉さん。思いもかけないメールに、頭が沸騰して、私の許容量を超えた。
2
次の日から、岩泉さんの甘いメール攻撃が始まった。
本気かどうかは別としても、好意を向けてくれているのだから、「攻撃」という言葉はふさわしくないのかもしれない。しかし、私にとっては攻撃に他ならないのだ。
『食事会、楽しかったね』
『あの日はすごく可愛かった』
『また会いたい』
と、どこのドラマのセリフですか、と思うようなものが次々に送られてくる。
私は自分のことを自意識過剰だと思っているが、彼もたいがい自信過剰だ。
私だったら、こんなことを送って引かれないかな? と気になって仕方ないだろう。あの容姿と性格ならば、自信があって当然かもしれないけれど、そういうのを恐れない心の強さを尊敬する。
だからと言って、彼の誘いに乗ることはできず、『ごめんなさい。会えません』と送った。
しかし、それで引き下がる彼ではない。
『忙しいみたいだね。いつなら会える?』
と、すぐさま返事がくる。
――昨日も一昨日も、夜九時過ぎにメールがきた。
現在の時刻は八時。この三日の経験から、私は少し……少しだけ、メールがくるのを期待していた。
毎回『ありがとうございます』とか『ごめんなさい』とか工夫のない返事しかできないくせに、自分勝手なのはわかっている。
連日届く甘いメールを見るたびに、彼は本当に私を可愛いと思ってくれているのかもしれないと、期待しそうになっている自分がいる。
――だけど、もし。もしも私がその気になって応じたら……
『え、本気にしてたの? 俺が君相手に真剣交際しようと思うとでも? どんだけ自分に自信があるんだよ』
そんなことを言われる自分が、容易に想像できる。
誰かを好きになって、その想いを表現するのが怖い。
もし彼に冷たく突き放されたら、真に受けてその気になったことが恥ずかしくて、自己嫌悪で、もう人前に出ることさえできなくなってしまうかもしれない。
リビングで座り、そんなことをグルグルと考えていた私は、もう一度、時間を見る。さっきから、まだ五分も経っていない。
ため息を吐いて、自分はどれだけ彼からの連絡を楽しみにしているのかと自嘲気味に笑った時だった。
ルルルルル……ルルルルル……
スマホが着信を知らせる。この音は、メールじゃなくて電話だ。
ということは、お目当ての連絡ではないと、がっかりしながら確認したら――
画面に表示されていた名前は、「岩泉さん」。
「えっ、なんで!?」
思わず声に出してスマホを持ち上げた。
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