19 / 67
第19話 つかみどころがない女性
しおりを挟む
あの頃、私たちは偶然秋休みに彼の地にある野戦病院へ派遣されていた。
ジェローム様は軍の中でも高い地位にあったから、私やソフィーが直接看護をすることはなかったけれど、汚れたガーゼや処置に使った布の洗濯を担当していたから、彼がどれだけの傷を負ったのか、容易に想像できた。
何かしらの気晴らしになればと、ガブリエル隊長からもらった珈琲を淹れて出したところ、とても喜んでくれた。煙草も珈琲も、当時15歳だった私にはどちらも価値が分からなかったけれど、きっと、贅沢品だったのだろう。
「ジェローム様、殿下の側近という新しい役割を見つけられたんですね」
「そうみたいね」
「良かったですね」
「ええ」
誰かが言ってたっけ。何かを失うことで、新たなチャンスが見つかることもある、って。庭の菩提樹をしげしげと眺めていたジェローム卿の背中を見つめていたとき、彼のことを少しだけ羨ましく思ってしまった。
だって私は――。
侯爵令嬢という肩書も、殿下の妃候補という地位もなくなって、ただのデルフィーヌとなった私がこの世に残せるものってなんだろう?
そもそも私は、人から求められるような人間なんだろうか?
いなくなったところで、誰も困らないし悲しまないんじゃ……。
そんなことを考えていたら、初夏だというのに身震いがした。
私ってば、知らない間にずいぶん、臆病になっちゃったみたいだ。
◆◆◆
「殿下、ただいま戻りました」
「ずいぶん遅かったな」
「水出し珈琲とやらをご馳走になっていたもので、申し訳ございません」
「アイスコーヒーか、たしかに珍しいな。で? 噂の高飛車令嬢、お前はどう見た?」
「高飛車な悪女というより、魔女の方がしっくりくるといいますか」
「ふっ。黒髪に翠の瞳だからか?」
「デルフィーヌ嬢も侍女殿も医薬の心得があるようです。厨房も、見たこともない植物や薬草で溢れていました」
「それで魔女か。言い得て妙だな。……それにしても、あの小屋を選んだのは意外だったな」
「私たちが子供の頃、よく管理人夫婦の家に遊びに行きましたよね? 菩提樹も大きくなっていて、懐かしさを覚えました」
「そうだな」
「そういえば殿下、黒い森の結界は有効ですか?」
「そのはずだ」
「妃候補たちの立ち入りは許されているのでしょうか?」
「わざわざ禁じたりはしていない。そもそも、結界が張られている場所へは入れないはずだからな」
「そうですか……。それはそれと、デルフィーヌ嬢より、『来週のお茶会は見送らせてほしい』とのことです」
「また欠席か?」
「いえ。欠席ではなく、延期してほしいのだそうです」
「分からんな。これで4回連続だろう? 俺と交流を深める気がないとしか思えない」
「4回分をまとめて9月19日の午後に充ててほしいのだそうです」
「ずいぶん勝手だな。どういう謀略だ?」
「分かりません。ですが――」
「なんだ?」
「断ったら必ず後悔するとお伝えください、とのことです」
「なんとも高飛車な物言いだな」
「夕方からでしたら調整可能ですが、如何いたしましょう?」
「……一応、予定を押さえておいてくれ」
「出席ということでお返事をしてよろしいですか?」
「確定ではない。あくまで気が向けば、だ」
「かしこまりました」
「――やはり、お前をもってしても人物像を判断しかねるか?」
「申し訳ございません。あれ程つかみどころがないご令嬢は初めてでして。ですが、身を挺して殿下のことをお護りしたくらいですから、慕われているのは間違いないのではありませんか?」
「彼女が慕っているのは俺じゃない」
「というと?」
「お前も分かるだろう? 長年こういう立場にいると、それが純粋な思いからくるものかどうかを見抜けるようになる。彼女は俺に他の誰かを投影しているだけだ。正直……俺はそういうのに一番、嫌悪感を抱く」
「殿下……。でしたら、彼女の望みどおり解放してさしあげたら如何でしょう?」
「そうしたいところだが。――高いんだよ」
「?」
「揃いも揃って、俺が信用している人物からの評価が高いんだ」
「といいますと?」
「筆頭は宰相のダヴィッドだ。次いで俺の乳母にして現女官長のマチルダ。それから今度近衛騎士団を率いることになったガブリエル。極めつけは、俺の恩師でもある学院長だ。彼が彼女を妃候補に推薦してきた」
「それだけ大物が口をそろえて太鼓判を押すのなら、迷う必要などなさそうですが……」
「同じくらい悪く評価する者もいるんだよ。その筆頭がソンブレイユ公爵にカロリーヌ妃、元老院の議員たち。その他、聖女を保護している神殿の神官長に貴族学院の同窓生たちからの評判もすこぶる悪い」
「公爵やカロリーヌ妃殿下、議員たちがデルフィーヌ嬢を悪くいうのは、リリー嬢を推したいがためでしょう。ただ、同窓生たちの評価が悪いというのは少々気がかりですね。調べますか?」
「いや。人の噂ほど当てにならないものはない、というからな。この機を利用して自分の目で確かめたいところだが――こうも茶会を欠席されてしまってはな……」
「来月、ミス・エライザが来国されますよね? どうでしょう、同性・同年代の彼女の観察眼に託してみるというのは」
「……なるほど。その手があったな」
ジェローム様は軍の中でも高い地位にあったから、私やソフィーが直接看護をすることはなかったけれど、汚れたガーゼや処置に使った布の洗濯を担当していたから、彼がどれだけの傷を負ったのか、容易に想像できた。
何かしらの気晴らしになればと、ガブリエル隊長からもらった珈琲を淹れて出したところ、とても喜んでくれた。煙草も珈琲も、当時15歳だった私にはどちらも価値が分からなかったけれど、きっと、贅沢品だったのだろう。
「ジェローム様、殿下の側近という新しい役割を見つけられたんですね」
「そうみたいね」
「良かったですね」
「ええ」
誰かが言ってたっけ。何かを失うことで、新たなチャンスが見つかることもある、って。庭の菩提樹をしげしげと眺めていたジェローム卿の背中を見つめていたとき、彼のことを少しだけ羨ましく思ってしまった。
だって私は――。
侯爵令嬢という肩書も、殿下の妃候補という地位もなくなって、ただのデルフィーヌとなった私がこの世に残せるものってなんだろう?
そもそも私は、人から求められるような人間なんだろうか?
いなくなったところで、誰も困らないし悲しまないんじゃ……。
そんなことを考えていたら、初夏だというのに身震いがした。
私ってば、知らない間にずいぶん、臆病になっちゃったみたいだ。
◆◆◆
「殿下、ただいま戻りました」
「ずいぶん遅かったな」
「水出し珈琲とやらをご馳走になっていたもので、申し訳ございません」
「アイスコーヒーか、たしかに珍しいな。で? 噂の高飛車令嬢、お前はどう見た?」
「高飛車な悪女というより、魔女の方がしっくりくるといいますか」
「ふっ。黒髪に翠の瞳だからか?」
「デルフィーヌ嬢も侍女殿も医薬の心得があるようです。厨房も、見たこともない植物や薬草で溢れていました」
「それで魔女か。言い得て妙だな。……それにしても、あの小屋を選んだのは意外だったな」
「私たちが子供の頃、よく管理人夫婦の家に遊びに行きましたよね? 菩提樹も大きくなっていて、懐かしさを覚えました」
「そうだな」
「そういえば殿下、黒い森の結界は有効ですか?」
「そのはずだ」
「妃候補たちの立ち入りは許されているのでしょうか?」
「わざわざ禁じたりはしていない。そもそも、結界が張られている場所へは入れないはずだからな」
「そうですか……。それはそれと、デルフィーヌ嬢より、『来週のお茶会は見送らせてほしい』とのことです」
「また欠席か?」
「いえ。欠席ではなく、延期してほしいのだそうです」
「分からんな。これで4回連続だろう? 俺と交流を深める気がないとしか思えない」
「4回分をまとめて9月19日の午後に充ててほしいのだそうです」
「ずいぶん勝手だな。どういう謀略だ?」
「分かりません。ですが――」
「なんだ?」
「断ったら必ず後悔するとお伝えください、とのことです」
「なんとも高飛車な物言いだな」
「夕方からでしたら調整可能ですが、如何いたしましょう?」
「……一応、予定を押さえておいてくれ」
「出席ということでお返事をしてよろしいですか?」
「確定ではない。あくまで気が向けば、だ」
「かしこまりました」
「――やはり、お前をもってしても人物像を判断しかねるか?」
「申し訳ございません。あれ程つかみどころがないご令嬢は初めてでして。ですが、身を挺して殿下のことをお護りしたくらいですから、慕われているのは間違いないのではありませんか?」
「彼女が慕っているのは俺じゃない」
「というと?」
「お前も分かるだろう? 長年こういう立場にいると、それが純粋な思いからくるものかどうかを見抜けるようになる。彼女は俺に他の誰かを投影しているだけだ。正直……俺はそういうのに一番、嫌悪感を抱く」
「殿下……。でしたら、彼女の望みどおり解放してさしあげたら如何でしょう?」
「そうしたいところだが。――高いんだよ」
「?」
「揃いも揃って、俺が信用している人物からの評価が高いんだ」
「といいますと?」
「筆頭は宰相のダヴィッドだ。次いで俺の乳母にして現女官長のマチルダ。それから今度近衛騎士団を率いることになったガブリエル。極めつけは、俺の恩師でもある学院長だ。彼が彼女を妃候補に推薦してきた」
「それだけ大物が口をそろえて太鼓判を押すのなら、迷う必要などなさそうですが……」
「同じくらい悪く評価する者もいるんだよ。その筆頭がソンブレイユ公爵にカロリーヌ妃、元老院の議員たち。その他、聖女を保護している神殿の神官長に貴族学院の同窓生たちからの評判もすこぶる悪い」
「公爵やカロリーヌ妃殿下、議員たちがデルフィーヌ嬢を悪くいうのは、リリー嬢を推したいがためでしょう。ただ、同窓生たちの評価が悪いというのは少々気がかりですね。調べますか?」
「いや。人の噂ほど当てにならないものはない、というからな。この機を利用して自分の目で確かめたいところだが――こうも茶会を欠席されてしまってはな……」
「来月、ミス・エライザが来国されますよね? どうでしょう、同性・同年代の彼女の観察眼に託してみるというのは」
「……なるほど。その手があったな」
494
あなたにおすすめの小説
『有能すぎる王太子秘書官、馬鹿がいいと言われ婚約破棄されましたが、国を賢者にして去ります』
しおしお
恋愛
王太子の秘書官として、陰で国政を支えてきたアヴェンタドール。
どれほど杜撰な政策案でも整え、形にし、成果へ導いてきたのは彼女だった。
しかし王太子エリシオンは、その功績に気づくことなく、
「女は馬鹿なくらいがいい」
という傲慢な理由で婚約破棄を言い渡す。
出しゃばりすぎる女は、妃に相応しくない――
そう断じられ、王宮から追い出された彼女を待っていたのは、
さらに危険な第二王子の婚約話と、国家を揺るがす陰謀だった。
王太子は無能さを露呈し、
第二王子は野心のために手段を選ばない。
そして隣国と帝国の影が、静かに国を包囲していく。
ならば――
関わらないために、関わるしかない。
アヴェンタドールは王国を救うため、
政治の最前線に立つことを選ぶ。
だがそれは、権力を欲したからではない。
国を“賢く”して、
自分がいなくても回るようにするため。
有能すぎたがゆえに切り捨てられた一人の女性が、
ざまぁの先で選んだのは、復讐でも栄光でもない、
静かな勝利だった。
---
年増令嬢と記憶喪失
くきの助
恋愛
「お前みたいな年増に迫られても気持ち悪いだけなんだよ!」
そう言って思い切りローズを突き飛ばしてきたのは今日夫となったばかりのエリックである。
ちなみにベッドに座っていただけで迫ってはいない。
「吐き気がする!」と言いながら自室の扉を音を立てて開けて出ていった。
年増か……仕方がない……。
なぜなら彼は5才も年下。加えて付き合いの長い年下の恋人がいるのだから。
次の日事故で頭を強く打ち記憶が混濁したのを記憶喪失と間違われた。
なんとか誤解と言おうとするも、今までとは違う彼の態度になかなか言い出せず……
【短編】花婿殿に姻族でサプライズしようと隠れていたら「愛することはない」って聞いたんだが。可愛い妹はあげません!
月野槐樹
ファンタジー
妹の結婚式前にサプライズをしようと姻族みんなで隠れていたら、
花婿殿が、「君を愛することはない!」と宣言してしまった。
姻族全員大騒ぎとなった
存在感のない聖女が姿を消した後 [完]
風龍佳乃
恋愛
聖女であるディアターナは
永く仕えた国を捨てた。
何故って?
それは新たに現れた聖女が
ヒロインだったから。
ディアターナは
いつの日からか新聖女と比べられ
人々の心が離れていった事を悟った。
もう私の役目は終わったわ…
神託を受けたディアターナは
手紙を残して消えた。
残された国は天災に見舞われ
てしまった。
しかし聖女は戻る事はなかった。
ディアターナは西帝国にて
初代聖女のコリーアンナに出会い
運命を切り開いて
自分自身の幸せをみつけるのだった。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
冷遇王妃はときめかない
あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。
だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。
婚約破棄されたので、隠していた力を解放します
ミィタソ
恋愛
「――よって、私は君との婚約を破棄する」
豪華なシャンデリアが輝く舞踏会の会場。その中心で、王太子アレクシスが高らかに宣言した。
周囲の貴族たちは一斉にどよめき、私の顔を覗き込んでくる。興味津々な顔、驚きを隠せない顔、そして――あからさまに嘲笑する顔。
私は、この状況をただ静かに見つめていた。
「……そうですか」
あまりにも予想通りすぎて、拍子抜けするくらいだ。
婚約破棄、大いに結構。
慰謝料でも請求してやりますか。
私には隠された力がある。
これからは自由に生きるとしよう。
【12月末日公開終了】これは裏切りですか?
たぬきち25番
恋愛
転生してすぐに婚約破棄をされたアリシアは、嫁ぎ先を失い、実家に戻ることになった。
だが、実家戻ると『婚約破棄をされた娘』と噂され、家族の迷惑になっているので出て行く必要がある。
そんな時、母から住み込みの仕事を紹介されたアリシアは……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる