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第三章 夢よ現よ
新妻と新姑②
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つぎの吉日がきて、原屋敷で膝直しが開かれた。
膝直しとは、新婦の親里でひらく新郎のお披露目であり、両家親族の顔合わせと媒酌人への接待をかねた宴席のことである。原家の親戚はもちろん、向こう三軒両隣の家をまねいて賑やかにとりおこなわれる。
めずらしく涼斎と伝五郎も顔をそろえた。さらに宝蔵院流のさわがしい一群と、あさ子もよく知らない藩の上役までやってきて、屋敷ぜんたいが酒宴場のようになった。
たいへんなのはきせ子であるが、各家の女たちが応援にきてくれるから心強い。たがいにそうして助け合うのが城下のならわしだ。
さらに大変なのは善左衛門のほうで、一人ひとりに挨拶をしながら酌をしてまわらねばならない。あさ子は銚子を盆にのせて側についてまわったが、行く先々であの手この手のからかいを受けた。
それにしても父は、あさ子が思っていたよりも家中に幅ひろく知人があったものだと感心させられもした。もっぱら外様で武辺の面々であるが、これでも江戸沿岸警備のせいで減っているのだという。
源右衛門はたいへんな上機嫌で、
「日新館一の秀才が義息となりました、ガハハッ」
などと自慢している。善左衛門の出世をねがい、そうして紹介してくれているのだろう。
末席に行って驚いたのは、なぜかあの銈が、しれっと混じっていたことだ。
「あっ……」
と、善左衛門が威儀をただしてにじり下がり、まるで御前のように固く最敬礼しようとしたところ、銈がおさえて制した。
「やめてくれ、皆が怪訝に思う」
「も、申し訳ござりませぬ……あの、今日はどうしてこちらへ」
「原源右衛門とは会津入りをするとき道中をともにした仲だ。慶事における家中のようすを知りたかったから出席させてくれるよう頼んだのだ」
「なんと……」
「言ったであろう、予は、いや私は、何でも己の目でたしかめぬと納得のゆかぬ性分だ。さりとて、江戸では色々な目があるからこうも行かない。実に賑やかでよいものだな。眺めているだけで楽しい。あらためて会津の家中がとても好きになった。しかしよもやまさか、お前たちが夫婦になるとは思いもよらなかったが。縁組を知ったときは卒倒するほど驚いたものだ」
まじまじとのぞきこんでくるので、あさ子は思わず顔を伏せた。もしやわかっているのだろうか。
すると横から、すっかり出来上がっている態の仲三郎と勝が、銚子を両手にぶら下げてやってきた。
「お、見ぬ顔だなぁ。誰だそこもとは」
うっと呻いたのは善左衛門であったが、ふたたび銈が首をちいさく横にふって制した。
「私は得川銈之丞と申します。以後、お見知りおきを」
「ああ、となれば江川家の縁者か」
「……おや、もしや、夜叉の仲三郎殿とは貴公のことでしたか」
がぜん仲三郎が上機嫌にかわり、銈の肩をはげしく叩いた。
「おうおう、よくわかっているではないか。まぁ、飲め飲め。いかにも、儂が高津仲三郎である。会津ははじめてか」
「はい、生まれは江戸定詰めの家でしたが、こたび婿入りのため会津入りをいたしました」
「そうか、ならば不安も多かろう。よいよい、遠慮は要らぬ、儂にまかせよ。年下の面倒をよくみてやるのは年長者のつとめ、会津のよき家風だ。城下の主だった奴らに引き廻してやるぞ」
「それはありがたい。ではひとつ、ご返杯といきましょう」
「おお、銈もいける口か。近づきのしるしによく飲もうではないか。遠慮は要らぬ。儂が一斗樽を持参したからな。じつは来年、儂は房総の警備にでる予定でな、どうか江戸のようすを教えてくれまいか」
「おまかせあれ。江戸市中のことは端から端まで知っております」
仲三郎が銈の肩を組み、どんどん酒をすすめ、勝もその輪に加わった。
よくある若侍同士の楽しげな光景であるはずだが、なぜだか善左衛門は顔面蒼白となって俯いていた。ふり返れば源右衛門が遠くからこちらを見ていて、盃をポロリと取り落とし、目と口をあんぐりと開けたまま同じく顔面蒼白であったので、あさ子は小首をかしげるばかりになる。
かくして膝直しの宴は、暮六ツ時を過ぎてもつづいたのだった。
それから十日ほどすぎて、十一月にはいった。
日に日に寒くなりゆき、文字どおり霜がおりるようになって、いよいようっすらと初雪が舞った。新妻となったあさ子の日常は、思いのほか順調にまわりはじめていた。伊右衛門やツルから若奥様と呼ばれるたび、あたたかな実感がこみあげてもくる。
いつものように人参役場に出仕する善左衛門と、日新館へ登校する岩次郎を見送ったのち、奥の部屋を掃除しているときだった。
ツルが廊下にやってきて、あらたまった口ぶりで述べた。
「奥さまがお出かけになるそうで、若奥さまもご一緒にいかがかとのことです」
どきりとして、あさ子は嬉しさよりもさきに不安を覚えた。
菊子とはまだよく言葉をかわせていない。近所への挨拶めぐりをしたときも、二人のあいだであった会話は乏しいものだった。
「どちらへ行かれるのですか」
「御薬園です。たまには女たちだけでと」
「まぁ……」
御薬園といえば夏に千重子と行った記憶があたらしい。あれ以来、足を運んでいない。
不思議そうにしているあさ子の心中を察したツルが、先まわりをして説明をつないだ。
「――じつは奥さまとご先代の旦那様は毎年、初雪が降ると御薬園へ行かれたものです。お二人とも雪のなかに咲く寒椿がとてもお好きでしたから。私がお弁当を作ります。いかがですか」
「わかりました。では、ぜひご一緒にと」
「はい、ではさっそく」
ツルは嬉しげに破顔させ、トントントンと軽やかな足どりで廊下を渡って行った。
河原家から御薬園までは、およそ半里(約二キロ)ある。歩いて四半時(約三〇分)の道のりだ。
御高祖頭巾をした菊子とあさ子のうしろから、風呂敷につつんだ重箱をたずさえツルがついてくる。女だけの息抜きをかねた外出なので、伊右衛門は留守番だ。
本一ノ丁をゆき、淡く雪化粧した火の見櫓と、あざやかな青天のなかで白くそびえたつ若松城の天守を右手にながめながら、左手につづく内藤屋敷、西郷屋敷、萱野屋敷、田中屋敷のながい白壁を通りすぎ、郭東つきあたりの天寧寺町口へさしかかった。外濠のむこうに浄光寺のすっきりとした末広がりの甍が、白無垢の裾をながしたようにみえる。
そういえばいつだったか、幼いあさ子は駆ける父の肩にゆられ、こうした景色を眺めたことがあったと思いだす。
門番役人に行き先をつたえ、郭門をくぐりぬけた。
ゆっくりと遠ざかりゆく背を見つめ、年嵩の役人が言う。
「鬼瓦殿の娘さまも、いまやすっかり若奥様か」
「娘子とは、見るたびにどんどん変わりゆくものですな。お隣は河原屋敷の奥様でしょうか」
「さよう、お見かけするのは何年ぶりのことか。以前はよくご夫妻で睦まじくここをくぐられた」
「ほう、ご夫妻二人で」
「ご先代の勘兵衛殿はすこし変わったお方であられたから、二人でならんで歩いてもまったく気にとめたそぶりもなく、むしろみずから奥様の横について足元に気をつけよと心配しながら歩いておられた。あれはあれで、はたから見ていて清々しいものがあった」
「なるほど、近ごろ妻が冷たいからそれを試してみようか……」
あさ子たちは西の御番所をぬけ、やがて御薬園にたどりついた。
雪が降ったので善左衛門は人参畑を見まわっているはずだから、人参方の詰所には立ちよらず園内をめぐり歩いた。
空気中の塵が雪ですすがれて澄んでいる。樹間に東山の山なみが白く見えた。
善左衛門が利用の許可をとってくれてあったそうで、池の浮島にある楽寿亭という庵に上がることができた。明かり障子を開けはなって座り、雪景色を愛でながら弁当を広げる。
あさ子が楽寿亭にあがったのは初めてのこと。二重に緊張した心地のまま、塩のきいた漬物入りの握り飯を食んで茶をすする。
眼前一望、山水画のような世界があった。御茶御殿の大きな茅葺と、立派な枝ぶりの大松が、白く染まっている。
そして白雪のなか、ひときわ鮮やかに咲いた赤の寒椿あった。
あかるく差した陽光に照らされて、花弁と葉に乗った透明な玉露が、微笑むようにきらきらと光を乱反射しながら落ちた。
菊子が目を細めてつぶやく。
「きれい」
ひとりごとにも聞こえたが、あさ子は思いきって話しかけてみる。
「はい、とても。楽寿亭からかような景物が見えるとは存じませんでした。お義母さまは毎年こられるのですか」
むこうに視線を置いたまま、菊子がしずかに首肯する。
眉を剃り落としているので表情をつかみづらいが、いくらか目尻が弛んでいるように見えた。
「こちらを私に教えてくださったのは旦那様でした。初雪が降ると、いつもこうして寒椿を。旦那様が亡くなってからはすっかり足が遠のいてしまっていました。一人で来るのが、なんとなく恐くて……」
先代の勘兵衛は、とにかく仕事一辺倒の人だったという。積年の無理がたたり四年まえに急な発作で亡くなったと善左衛門から聞かされた。家のなかでは言葉数の少ないほうであったが、菊子との夫婦仲はとてもよかったそうだ。
菊子がしみじみと言う。
「でもよかった。何もかわっていない。お手入れがよく行き届いて、すべて昔のまま。朝に善左さんから言われたときは、どうしようか迷いもしましたけれど、思いきって出てきてみてよかった。あささん、今日はつきあってくれてありがとう。いま、心のなかで旦那様にお伝えをしました。こちらが善左さんのお嫁さんのあささんですよって。そしたら急に玉露がきらきらと光って、きっと旦那様が喜んで笑っているのね」
寒椿を愛でる菊子の横顔は、あきらかな微笑みをたたえていた。とてもやわらかで、ひかえめだけれど、気品に溢れて美しい。それはいつか人参畑で見あげた、善左衛門の横顔とも似ていた。
それから菊子は、しまってあった本を取りだしてめくるように、彼女が河原家へ嫁入りした経緯を明かしてくれた。
膝直しとは、新婦の親里でひらく新郎のお披露目であり、両家親族の顔合わせと媒酌人への接待をかねた宴席のことである。原家の親戚はもちろん、向こう三軒両隣の家をまねいて賑やかにとりおこなわれる。
めずらしく涼斎と伝五郎も顔をそろえた。さらに宝蔵院流のさわがしい一群と、あさ子もよく知らない藩の上役までやってきて、屋敷ぜんたいが酒宴場のようになった。
たいへんなのはきせ子であるが、各家の女たちが応援にきてくれるから心強い。たがいにそうして助け合うのが城下のならわしだ。
さらに大変なのは善左衛門のほうで、一人ひとりに挨拶をしながら酌をしてまわらねばならない。あさ子は銚子を盆にのせて側についてまわったが、行く先々であの手この手のからかいを受けた。
それにしても父は、あさ子が思っていたよりも家中に幅ひろく知人があったものだと感心させられもした。もっぱら外様で武辺の面々であるが、これでも江戸沿岸警備のせいで減っているのだという。
源右衛門はたいへんな上機嫌で、
「日新館一の秀才が義息となりました、ガハハッ」
などと自慢している。善左衛門の出世をねがい、そうして紹介してくれているのだろう。
末席に行って驚いたのは、なぜかあの銈が、しれっと混じっていたことだ。
「あっ……」
と、善左衛門が威儀をただしてにじり下がり、まるで御前のように固く最敬礼しようとしたところ、銈がおさえて制した。
「やめてくれ、皆が怪訝に思う」
「も、申し訳ござりませぬ……あの、今日はどうしてこちらへ」
「原源右衛門とは会津入りをするとき道中をともにした仲だ。慶事における家中のようすを知りたかったから出席させてくれるよう頼んだのだ」
「なんと……」
「言ったであろう、予は、いや私は、何でも己の目でたしかめぬと納得のゆかぬ性分だ。さりとて、江戸では色々な目があるからこうも行かない。実に賑やかでよいものだな。眺めているだけで楽しい。あらためて会津の家中がとても好きになった。しかしよもやまさか、お前たちが夫婦になるとは思いもよらなかったが。縁組を知ったときは卒倒するほど驚いたものだ」
まじまじとのぞきこんでくるので、あさ子は思わず顔を伏せた。もしやわかっているのだろうか。
すると横から、すっかり出来上がっている態の仲三郎と勝が、銚子を両手にぶら下げてやってきた。
「お、見ぬ顔だなぁ。誰だそこもとは」
うっと呻いたのは善左衛門であったが、ふたたび銈が首をちいさく横にふって制した。
「私は得川銈之丞と申します。以後、お見知りおきを」
「ああ、となれば江川家の縁者か」
「……おや、もしや、夜叉の仲三郎殿とは貴公のことでしたか」
がぜん仲三郎が上機嫌にかわり、銈の肩をはげしく叩いた。
「おうおう、よくわかっているではないか。まぁ、飲め飲め。いかにも、儂が高津仲三郎である。会津ははじめてか」
「はい、生まれは江戸定詰めの家でしたが、こたび婿入りのため会津入りをいたしました」
「そうか、ならば不安も多かろう。よいよい、遠慮は要らぬ、儂にまかせよ。年下の面倒をよくみてやるのは年長者のつとめ、会津のよき家風だ。城下の主だった奴らに引き廻してやるぞ」
「それはありがたい。ではひとつ、ご返杯といきましょう」
「おお、銈もいける口か。近づきのしるしによく飲もうではないか。遠慮は要らぬ。儂が一斗樽を持参したからな。じつは来年、儂は房総の警備にでる予定でな、どうか江戸のようすを教えてくれまいか」
「おまかせあれ。江戸市中のことは端から端まで知っております」
仲三郎が銈の肩を組み、どんどん酒をすすめ、勝もその輪に加わった。
よくある若侍同士の楽しげな光景であるはずだが、なぜだか善左衛門は顔面蒼白となって俯いていた。ふり返れば源右衛門が遠くからこちらを見ていて、盃をポロリと取り落とし、目と口をあんぐりと開けたまま同じく顔面蒼白であったので、あさ子は小首をかしげるばかりになる。
かくして膝直しの宴は、暮六ツ時を過ぎてもつづいたのだった。
それから十日ほどすぎて、十一月にはいった。
日に日に寒くなりゆき、文字どおり霜がおりるようになって、いよいようっすらと初雪が舞った。新妻となったあさ子の日常は、思いのほか順調にまわりはじめていた。伊右衛門やツルから若奥様と呼ばれるたび、あたたかな実感がこみあげてもくる。
いつものように人参役場に出仕する善左衛門と、日新館へ登校する岩次郎を見送ったのち、奥の部屋を掃除しているときだった。
ツルが廊下にやってきて、あらたまった口ぶりで述べた。
「奥さまがお出かけになるそうで、若奥さまもご一緒にいかがかとのことです」
どきりとして、あさ子は嬉しさよりもさきに不安を覚えた。
菊子とはまだよく言葉をかわせていない。近所への挨拶めぐりをしたときも、二人のあいだであった会話は乏しいものだった。
「どちらへ行かれるのですか」
「御薬園です。たまには女たちだけでと」
「まぁ……」
御薬園といえば夏に千重子と行った記憶があたらしい。あれ以来、足を運んでいない。
不思議そうにしているあさ子の心中を察したツルが、先まわりをして説明をつないだ。
「――じつは奥さまとご先代の旦那様は毎年、初雪が降ると御薬園へ行かれたものです。お二人とも雪のなかに咲く寒椿がとてもお好きでしたから。私がお弁当を作ります。いかがですか」
「わかりました。では、ぜひご一緒にと」
「はい、ではさっそく」
ツルは嬉しげに破顔させ、トントントンと軽やかな足どりで廊下を渡って行った。
河原家から御薬園までは、およそ半里(約二キロ)ある。歩いて四半時(約三〇分)の道のりだ。
御高祖頭巾をした菊子とあさ子のうしろから、風呂敷につつんだ重箱をたずさえツルがついてくる。女だけの息抜きをかねた外出なので、伊右衛門は留守番だ。
本一ノ丁をゆき、淡く雪化粧した火の見櫓と、あざやかな青天のなかで白くそびえたつ若松城の天守を右手にながめながら、左手につづく内藤屋敷、西郷屋敷、萱野屋敷、田中屋敷のながい白壁を通りすぎ、郭東つきあたりの天寧寺町口へさしかかった。外濠のむこうに浄光寺のすっきりとした末広がりの甍が、白無垢の裾をながしたようにみえる。
そういえばいつだったか、幼いあさ子は駆ける父の肩にゆられ、こうした景色を眺めたことがあったと思いだす。
門番役人に行き先をつたえ、郭門をくぐりぬけた。
ゆっくりと遠ざかりゆく背を見つめ、年嵩の役人が言う。
「鬼瓦殿の娘さまも、いまやすっかり若奥様か」
「娘子とは、見るたびにどんどん変わりゆくものですな。お隣は河原屋敷の奥様でしょうか」
「さよう、お見かけするのは何年ぶりのことか。以前はよくご夫妻で睦まじくここをくぐられた」
「ほう、ご夫妻二人で」
「ご先代の勘兵衛殿はすこし変わったお方であられたから、二人でならんで歩いてもまったく気にとめたそぶりもなく、むしろみずから奥様の横について足元に気をつけよと心配しながら歩いておられた。あれはあれで、はたから見ていて清々しいものがあった」
「なるほど、近ごろ妻が冷たいからそれを試してみようか……」
あさ子たちは西の御番所をぬけ、やがて御薬園にたどりついた。
雪が降ったので善左衛門は人参畑を見まわっているはずだから、人参方の詰所には立ちよらず園内をめぐり歩いた。
空気中の塵が雪ですすがれて澄んでいる。樹間に東山の山なみが白く見えた。
善左衛門が利用の許可をとってくれてあったそうで、池の浮島にある楽寿亭という庵に上がることができた。明かり障子を開けはなって座り、雪景色を愛でながら弁当を広げる。
あさ子が楽寿亭にあがったのは初めてのこと。二重に緊張した心地のまま、塩のきいた漬物入りの握り飯を食んで茶をすする。
眼前一望、山水画のような世界があった。御茶御殿の大きな茅葺と、立派な枝ぶりの大松が、白く染まっている。
そして白雪のなか、ひときわ鮮やかに咲いた赤の寒椿あった。
あかるく差した陽光に照らされて、花弁と葉に乗った透明な玉露が、微笑むようにきらきらと光を乱反射しながら落ちた。
菊子が目を細めてつぶやく。
「きれい」
ひとりごとにも聞こえたが、あさ子は思いきって話しかけてみる。
「はい、とても。楽寿亭からかような景物が見えるとは存じませんでした。お義母さまは毎年こられるのですか」
むこうに視線を置いたまま、菊子がしずかに首肯する。
眉を剃り落としているので表情をつかみづらいが、いくらか目尻が弛んでいるように見えた。
「こちらを私に教えてくださったのは旦那様でした。初雪が降ると、いつもこうして寒椿を。旦那様が亡くなってからはすっかり足が遠のいてしまっていました。一人で来るのが、なんとなく恐くて……」
先代の勘兵衛は、とにかく仕事一辺倒の人だったという。積年の無理がたたり四年まえに急な発作で亡くなったと善左衛門から聞かされた。家のなかでは言葉数の少ないほうであったが、菊子との夫婦仲はとてもよかったそうだ。
菊子がしみじみと言う。
「でもよかった。何もかわっていない。お手入れがよく行き届いて、すべて昔のまま。朝に善左さんから言われたときは、どうしようか迷いもしましたけれど、思いきって出てきてみてよかった。あささん、今日はつきあってくれてありがとう。いま、心のなかで旦那様にお伝えをしました。こちらが善左さんのお嫁さんのあささんですよって。そしたら急に玉露がきらきらと光って、きっと旦那様が喜んで笑っているのね」
寒椿を愛でる菊子の横顔は、あきらかな微笑みをたたえていた。とてもやわらかで、ひかえめだけれど、気品に溢れて美しい。それはいつか人参畑で見あげた、善左衛門の横顔とも似ていた。
それから菊子は、しまってあった本を取りだしてめくるように、彼女が河原家へ嫁入りした経緯を明かしてくれた。
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