上 下
75 / 84
闇夜の錦

しおりを挟む
 テーブルに置かれた絵本を数冊手に取って、ベッドの端に腰掛けた。この七ヶ月ほどの間に何冊、何回絵本を一緒に読んだだろう。
 最初は玲児が喜ぶからと読んでいたが、初めて知る物語たちに触れるのは子供時代に得られなかったものを取り返す大事な時間になっていた。
 きっと玲児は小さな頃、女の子のようだと否定され後ろめたい気持ちを抱きながらこっそりと絵本を読んでいたのだろう。玲児は好きなものを素直に好きだと感じる気持ちを取り返せただろうか。
「はやと……?」
 枕元から声がしたので振り返れば、寝転んで抱き枕に顔を半分埋めたままの玲児がうっすらと瞼を開けてこちらを見ていた。微笑んで目にかかる前髪を横に撫でつける。
「おはよう」
 ふわっとした瞳を見つめながら、ああ、小さな玲児だと思った。昨日の夜、目が覚めたら帰って来ているかもしれないとつい期待をしてしまった。
 ため息をつく。しかしがっかりしたわけではない。昨日までと変わらない日々をまた送るだけだ。十分幸せじゃないか。
「朝飯食う? まだ早いし寝ててもいいけど」
「抱っこがよい」
 そのままでもいいのに玲児は起き上がって座り、ウミウシは膝において両手を伸ばしてきた。それに応え、正面から抱きしめる。
「絵本を読んでくれ」
「おう。今日はなにがいい?」
「しらゆきひめ」
 隣に座って絵本を読む。そういえば初めて読んでやったのは白雪姫だったな。あの頃に比べたら俺も読むのに慣れてきた。つっかえることはないし、ちゃんと感情も込められている……はず。和人さん、ナレーターの仕事でも持ってこないかな。
「はやと、知っているか?」
「ん? なにが?」
「白雪姫は……本来の話では、王子様のキスで目覚めたわけじゃない」
 耳に通ったその声は随分とはっきりとした発音をしており、弦楽器が響くように脊椎にまでまっすぐ届いた。
「王子は……白雪姫のあまりの美しさに感動して、棺ごと家来に持たせて何処へ行くにも連れ回していたのだ。それに疲れ果てた家来が棺を蹴飛ばした拍子に、喉に詰まっていた林檎がとれて目が覚めた……」
 玲児はロマンチックの欠けらもない物語の顛末を語りながら目を伏せ、眠っている白雪姫のページに指で触れた。
「知った時、王子は随分身勝手な人間だと思ったが……白雪姫は幸せになれたのだろうか」
 棺に入れられた白雪姫。
 小人が綺麗に飾り付けた物言わぬ悲しいほどにひたすら美しい白雪姫。
 美しいから自分の物にしようと本人も知らないうちに連れ回すなんて確かに随分と身勝手なやつだ。白雪姫が目覚めた姿に最初は喜びはしたものの、こじらせた期間が長いぶん理想とのギャップにがっかりしたかもしれないな。喧嘩も沢山しただろうな。でも焦がれたぶんそれも乗り越えられたと信じてやりたい。
「大丈夫だろ。白雪姫は小人も手懐けたし、きっと王子も教育し直してくれるよ。そう考えると二人が結ばれてからの話も面白そうだな」
「む……そうだな」
 絵本を閉じ、いつものように俺の腕にしがみつく。まだ眠そうだ。つるつるの眉間を指で触ると、そこにシワを寄せて腕に顔をぐしぐしと擦り付けた。
 先程の語りはどう考えても幼い玲児とは違かった。オリオン座の話を語る、凛とした儚い横顔を思い出す。けれども目の前にいる玲児の表情はまだここにいない、どこか遠い遥か彼方へ思いを馳せるみたいにぼんやりとしていた。
「玲児、また寝る?」
 顔を腕に埋めたまま、玲児は首を横に振った。
「じゃあ散歩しよう。朝の空気は気持ちがいいし、今日は休みで人も少ないだろうから。行く?」
 聞けば、目だけ覗かせてこくんと頷いた。
 そうと決まればと玲児の支度をして玉貴ちゃんに声をかけ、俺たちは外に出た。自宅の庭に出る以外は月に一回の通院以外で外に出ることはなかったので、玲児にとっては久しぶりの外出となる。俺と出るのは初めてだ。
 こんな朝の七時から散歩だなんて年寄りみたいだなと思いながら、隣を歩く玲児に目を向けた。
 朝早いが意外ともう高くまで太陽が上がっている。玲児がそれを眩しそうに目を細めて見つめている。陸上部の朝練に行くために通っていただろう中学までの通学路。きっと時間も調度このくらいだっただろう。こんな顔をして朝日を眺めていたのかな。
 人がいたら良くないかなと思って一応手は繋がないでいたら、トントンと人差し指で手の甲をつつかれた。その衝撃と懐かしさに動きを止めてしまったら、もう一度トントンとつつかれる。感情が溢れだしそうになるのをぐっとこらえながら、その手をそっと握る。
「初めて玲児と手を繋いだ時……もうこれが最初で最後かもしれないから、一生の思い出にしようって思ったんだ」
 あの日は夕方で、もっと薄暗かった。いつも冷たい玲児の手が熱を出したせいで熱くなっていて。でも当時は普段の玲児の手の温度とか知らないし、気にする余裕もなかった。あれからたくさん玲児に触れて、冷たい温度もきめ細かい肌の質感も色んなことを知った。
「友達としてでも傍にいたいなって思ってたんだよな。でも玲児も俺を好きだと言ってくれて……それだけであんなに嬉しかったのに。俺は随分ワガママになっちまったよな」
 自分の悪癖のせいでこじれた関係はただ純粋にお互いを想いあっていた俺たちの気持ちをどんどん歪なものに変えてしまった。間違った方向に固く尖り続けた依存と執着心はすでに崩れかけていた玲児をとうとう貫いた。
 それでも君があの時死んだわけではないと信じている。
「どんな形であっても、今もまだ俺を傍に置いてくれてありがとう。約束してくれたから、俺のこと覚えていてくれたのかな? 俺のこと、そばに置いてくれるって、とにかく離れないでいようって」
 玲児は何も言わない。握った手も握り返してくることはない。俺を見ないで、目覚めたばかりの住宅街を眺めている。
 何度もこの道を歩いた。中学の頃とは少し変わってしまったけれど、この空気は変わらない。人通りの少ないこの道でこっそり手を繋ぐのが何より嬉しかったことはこの胸に刻まれいる。
 さらに歩いていくと、一緒に年越しを迎えた神社が見えた。少し立ち止まろうかと境内に入り、さっきよりもゆっくりと歩いて長い階段の手前で止まった。
「俺は玲児の全てが愛しいよ。玲児は俺だけのものだとか、そんなのどうでもいい。玲児の愛するもの全部まるごと大好きだ。玲児を作ってきた全てに感謝してる。あの道だってそうだ。俺は帰り道ばっかり一緒にいたけど、玲児は朝も一人でここを通ってたんだよな。だから朝のこの道も等しく愛しく感じてる」
 隣に並んで階段を見上げていた玲児の左手を取ると、やっとこちらに目線を上げてくれた。
「玲児……愛してるよ。ここにいてくれて、ありがとう。俺と出会ってくれて、ありがとう」 
 何度も思い、告げたことのある台詞だが、当時とは重みが違う。
 玲児が俺を救ってくれた。玲児がいなければ今の俺は存在しない。きっともっと悲惨なものだった。
 玲児と一緒に歩んでいきたいから、俺はここまで来れた。
 上手く笑えているか自信のない俺の顔を、玲児は見上げた。少し小首を傾げて眩しそうに眉間にシワを寄せて、顔を顰めて……いや、違う。太陽は玲児の背後に昇っている。
 太陽を見て、玲児を見て、何度も瞬きをした。
「ああ……」
 深いため息とともに声が漏れ、玲児の左手をとって甲に口付けた。
「玲児……その口から紡がれる、色んな話が聞きたいんだ。玲児のこと、全部知りたい。俺もたくさん伝えたいことがある。時間がいくらあっても足りないくらい話をしたい」
 泣いてしまうのが嫌で瞬きをせずに目線を動かし誤魔化していたら、玲児の右手が近づいてきて、人差し指が瞼にたまるそれを掬いとった。
「隼人……ずっと、隣にいてくれたな?」
 その言葉は、言葉を紡ぐその顔は、ずっと待っていたものだった。
 しゃんとした背筋からのびた細く長い首。顎を引いたまま見つめてくるから上目遣いになる。不機嫌に見える眉間のシワは、見慣れてくると切なく物悲しげで放っておけなくなる。
 頬を撫でる指はどれだけ俺に触れても慣れることはなく、躊躇うように遠慮がちに指の腹でそっと触れてくる。甘えるのが苦手な冷たい細く長い指。
 玲児。
 玲児だ。
「どんな形でも隣にいるだけでも幸せだった……大切な時間だった。でも……」
 言葉につまりながらもなんとか笑いかけると、玲児も目を細めて微笑み返し、頷いてくれた。
「会いたかった……」
 抱きしめようとしたら、言い終わる前に玲児に抱き寄せられた。
 背中に腕を回され、固く強く抱きしめられる。そんなにされたら苦しいのに、自然と口元が綻んでたまらない。涙と笑顔を抑えるのに必死でそっちの方がよほど苦しい。
「記憶が……曖昧だ。俺はずっと夢でも見ていたのか? 長い夢だ」
「それは、いい夢だった?」
「そうだな……きっと、そうだ。お前がずっと一緒にいてくれたから」
 改めて二人で向き合い、お互いの手を取り合いながら頬を撫でる。存在を確かめ合うように視線を交わし、額をくっつけて笑い合った。
「面白い顔になっているぞ。泣きたいのか笑いたいのかどっちなんだ」
「うっせぇなぁ。複雑なんだよ」
「ならば早速……泣きたい気持ちも、笑いたい気持ちも、教えてくれ。聞きたいことが山ほどある」
 取り合った手をそのままに玲児は一歩踏み出した。俺もそれに続いて二人で並んで歩き始める。
「俺も話したいことがたくさんある。今日一日じゃ足りねぇよ?」
「ゆっくり話せばいいだろう。明日も明後日も、いくらでも時間をかけて」
 きっとこのまま帰宅したって二人でゆっくりなんてできないだろうしなと、玉貴ちゃんや秀隆さんの顔を思い浮かべたらふふ、と声を漏らして笑ってしまった。本当に嬉しそうにするなと、呆れた顔で玲児が笑う。
 これからもずっと、長い時間を君と過ごそう。
 二人きりでもいい。
 みんな一緒でもいい。
 ただ隣に玲児がいてくれたなら、俺はもう大丈夫だ。
 俺の人生の中で唯一の光だった瞬間の続きが、今ここから始まる。





END.
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

滅ぼされた国の最後の姫は、最強の治癒力を惜しみなく発揮する

cc.
恋愛 / 連載中 24h.ポイント:14pt お気に入り:108

最推しの義兄を愛でるため、長生きします!

BL / 連載中 24h.ポイント:24,353pt お気に入り:12,911

愛され奴隷の幸福論

BL / 連載中 24h.ポイント:3,873pt お気に入り:1,945

回帰したシリルの見る夢は

BL / 完結 24h.ポイント:726pt お気に入り:3,915

巣ごもりオメガは後宮にひそむ

BL / 完結 24h.ポイント:6,669pt お気に入り:1,589

悪役令息になんかなりません!僕は兄様と幸せになります!

BL / 連載中 24h.ポイント:4,494pt お気に入り:10,286

あなたの重すぎる愛は私が受け止めます

恋愛 / 完結 24h.ポイント:390pt お気に入り:1,244

家康の祖母、華(け)陽院(よういん)―お富の方―(1502?-1560)

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

処理中です...