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【第二部】東の国アル・ハダール
60 それぞれの役目
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「サイードさん!」
急いで駆け寄った時、僕は地面に横倒しになって嘶いているサイードさんの馬を見てしまった。
「う、馬、怪我してるの……!?」
「ああ」
サイードさんを乗せていたあの立派な鹿毛の馬もヤハルと同じように足をやられたらしい。後ろ脚からドクドクと血が流れて地面を黒く染めている。
「あ、足、縛らなきゃ」
ヤハルがさっき傷に布を巻いていたのを思い出してとっさに頭にかぶったシュマグを取ろうとすると、サイードさんがそれを止めた。
「いや、いい」
そう言って腰からいつも使っているのとは別の、もう一回り大きなナイフを抜く。まさか、と思わず息を飲んだ。
「アキーク」
「神子殿、こちらへ」
サイードさんに呼ばれたアキークに腕をとられ、手のひらで目を覆われる。そしてヤハルたちの方へと連れて行かれそうになった。その手を押しやって振り返る。
地面にしゃがんだサイードさんの背中越しに見える馬の身体が大きく痙攣して、そして動かなくなった。
サイードさんが立ち上がって言う。
「血の匂いに惹かれてヤマイヌやオオカミが来る。その前に行こう」
そして賊が乗っていた馬で無事だったものの中から一番丈夫そうな一頭を選んでサイードさんが乗った。それ以外の馬たちは馬具を外して逃がしてやった。
◇ ◇ ◇
襲ってきたのはこの辺りを根城にしていた盗賊で、全部で18人いたそうだ。サイードさんは足を怪我したヤハルを庇って一人で一度に4人を相手にしたらしい。
そして15人を殺し3人が逃げ、こちらは馬を一頭失った。
「足に傷を負った馬を連れていくことはできない」
その夜いつものように焚火を囲んで、つい黙り込んでしまっていた僕にサイードさんが言った。
「ならば楽にしてやるのが我らの役目だ」
「……うん」
焚火を見つめているサイードさんの横顔はいつもと変わらず端正で、とても静かだった。それを横から盗み見ながら僕は思う。
サイードさんはこれまでに何度も、こんな風に大事な馬や時には部下や仲間を亡くした経験があったんだろう。そして様々な感情を受け入れる術をすでに知っている。
諦めているとか、投げやりになっているわけじゃない。それはサイードさんの、静かだけれどまっすぐに前を見ている視線と姿勢に現れてる。
こんな時、どんな顔でどんなことを言えばいいのか、残念だけど僕はまだわからない。
こんな時、僕はアジャール山での初めての野営で僕が寝ていた時に、夢うつつに聞いていたサイードさんとダルガートの会話を思い出す。
二人の大人の男が交わしていた言葉の数は決して多くはなく、とても静かで淡々としていた。それは毎日騒がしい教室や家族が留守がちな家ではついぞ聞かなかったものだ。
あんな風に言葉や自分を大袈裟に飾ることなく、少ない言葉でも互いに過不足なく分かり合える関係はすごくいいな、と思う。
僕ももっと大人になってたくさんの経験を積んだらああなれるのだろうか。
ダルガートならこんな時、サイードさんになんて声を掛けただろうか。
パンを食べてあたたかいお茶を飲んだ後、僕はいつものように毛布を巻きつけ荷物を枕にサイードさんと並んで寝た。
夜中にふと目を覚ますとサイードさんの姿がなかった。ナスィーフが火の番をしていて、僕に視線でサイードさんがいる場所を教えてくれる。
サイードさんは少し離れた場所に一人で立って星空を見上げていた。僕は黙ってその大きくて頼りがいのある背中をじっと見つめる。
サイードさんは強くてみんなに頼りにされている。だからこそ神子が一人の騎士を選ぶ『選定の儀式』ではアル・ハダールの代表として選ばれたし、僕たちに初めて会った村の人もひと目でそれを見抜いてサイードさんを一番に上座に招いた。
サイードさんはすごくたくさんの『役目』を負っている。神子の守護者としてずっと僕についていてくれたり、カルブの儀式のためにあんなしんどい目にあう羽目になったのもそうだ。
そして僕を守っていつも先頭で戦って、そのせいで大事な、ずっと可愛がっていた馬が怪我をした時にそれ以上苦しまないように死なせてやるのもサイードさんの役目なんだ。
なら僕の役目はなんだろう。
僕はみんなのために、サイードさんのために何ができて、何をすべきなんだろう。
◇ ◇ ◇
どんな時でも朝は必ずやってくる。
僕は日が昇る前にそっと起きだして杭に繋いだ馬たちの間を通り抜け、僕たちが来た道を振り返る。そしてまだ暗い西の空に向かって顔を上げた。
僕は今から六週間と四日前にこの世界にやってきた。
そして砂漠の真ん中にある中央神殿でサイードさんに出会い、神殿長さんやカハル皇帝と話をしてウルドやアドリーさんやエイレケのマスダルに会い、そしてダルガートを知った。
西のイスタリアの王女様と話し、ヤハルたちとともに神殿を出発して、いろんな村や街でいろんな人と出会い、砂漠を旅してここまで来た。
僕は目を閉じて深く息を吸う。
まだ夜の匂いの残る空気を身体いっぱいに満たして、祈る。
エルミランの山頂で僕が願ったのは、あたたかくて柔らかな恵みの雨。
日の光を覆い隠す雲を、人々の憂いを払う優しい風。
背中に熱を感じる。東の空に太陽が登る。
目を開けた僕を柔らかな霧雨が濡らした。この雨はあの山羊や羊を飼っているおじいさんたちのところにも届いているだろうか。
その時、ふと肩に何かが掛けられた。振り向くとサイードさんが後ろに立っていて僕が濡れないようにと毛布をかぶせてくれている。そして背中から腕を回してぎゅっと抱きしめてくれた。
「ありがとう、カイ」
サイードさんの言葉に僕は首を振る。
何も言わなくてもサイードさんには気づかれてる。
僕が何か言いたくてもふさわしい言葉が思いつかなくて何も言えないでいること。
今はもういないサイードさんの一族の代わりに、せめてこないだ泊めてもらったおじいさんたちを助けたいと思ってること。
そしてそれが全部ただの自己満足に過ぎないことも。
全部分かった上でありがとうって言って抱きしめてくれてるんだ。
その腕に頬を寄せて、僕は夜の最後の名残を眺める。そして無性に泣きたくなるのを必死に堪えた。
――――――――
(次回、帝都イスマーンに到着します)
急いで駆け寄った時、僕は地面に横倒しになって嘶いているサイードさんの馬を見てしまった。
「う、馬、怪我してるの……!?」
「ああ」
サイードさんを乗せていたあの立派な鹿毛の馬もヤハルと同じように足をやられたらしい。後ろ脚からドクドクと血が流れて地面を黒く染めている。
「あ、足、縛らなきゃ」
ヤハルがさっき傷に布を巻いていたのを思い出してとっさに頭にかぶったシュマグを取ろうとすると、サイードさんがそれを止めた。
「いや、いい」
そう言って腰からいつも使っているのとは別の、もう一回り大きなナイフを抜く。まさか、と思わず息を飲んだ。
「アキーク」
「神子殿、こちらへ」
サイードさんに呼ばれたアキークに腕をとられ、手のひらで目を覆われる。そしてヤハルたちの方へと連れて行かれそうになった。その手を押しやって振り返る。
地面にしゃがんだサイードさんの背中越しに見える馬の身体が大きく痙攣して、そして動かなくなった。
サイードさんが立ち上がって言う。
「血の匂いに惹かれてヤマイヌやオオカミが来る。その前に行こう」
そして賊が乗っていた馬で無事だったものの中から一番丈夫そうな一頭を選んでサイードさんが乗った。それ以外の馬たちは馬具を外して逃がしてやった。
◇ ◇ ◇
襲ってきたのはこの辺りを根城にしていた盗賊で、全部で18人いたそうだ。サイードさんは足を怪我したヤハルを庇って一人で一度に4人を相手にしたらしい。
そして15人を殺し3人が逃げ、こちらは馬を一頭失った。
「足に傷を負った馬を連れていくことはできない」
その夜いつものように焚火を囲んで、つい黙り込んでしまっていた僕にサイードさんが言った。
「ならば楽にしてやるのが我らの役目だ」
「……うん」
焚火を見つめているサイードさんの横顔はいつもと変わらず端正で、とても静かだった。それを横から盗み見ながら僕は思う。
サイードさんはこれまでに何度も、こんな風に大事な馬や時には部下や仲間を亡くした経験があったんだろう。そして様々な感情を受け入れる術をすでに知っている。
諦めているとか、投げやりになっているわけじゃない。それはサイードさんの、静かだけれどまっすぐに前を見ている視線と姿勢に現れてる。
こんな時、どんな顔でどんなことを言えばいいのか、残念だけど僕はまだわからない。
こんな時、僕はアジャール山での初めての野営で僕が寝ていた時に、夢うつつに聞いていたサイードさんとダルガートの会話を思い出す。
二人の大人の男が交わしていた言葉の数は決して多くはなく、とても静かで淡々としていた。それは毎日騒がしい教室や家族が留守がちな家ではついぞ聞かなかったものだ。
あんな風に言葉や自分を大袈裟に飾ることなく、少ない言葉でも互いに過不足なく分かり合える関係はすごくいいな、と思う。
僕ももっと大人になってたくさんの経験を積んだらああなれるのだろうか。
ダルガートならこんな時、サイードさんになんて声を掛けただろうか。
パンを食べてあたたかいお茶を飲んだ後、僕はいつものように毛布を巻きつけ荷物を枕にサイードさんと並んで寝た。
夜中にふと目を覚ますとサイードさんの姿がなかった。ナスィーフが火の番をしていて、僕に視線でサイードさんがいる場所を教えてくれる。
サイードさんは少し離れた場所に一人で立って星空を見上げていた。僕は黙ってその大きくて頼りがいのある背中をじっと見つめる。
サイードさんは強くてみんなに頼りにされている。だからこそ神子が一人の騎士を選ぶ『選定の儀式』ではアル・ハダールの代表として選ばれたし、僕たちに初めて会った村の人もひと目でそれを見抜いてサイードさんを一番に上座に招いた。
サイードさんはすごくたくさんの『役目』を負っている。神子の守護者としてずっと僕についていてくれたり、カルブの儀式のためにあんなしんどい目にあう羽目になったのもそうだ。
そして僕を守っていつも先頭で戦って、そのせいで大事な、ずっと可愛がっていた馬が怪我をした時にそれ以上苦しまないように死なせてやるのもサイードさんの役目なんだ。
なら僕の役目はなんだろう。
僕はみんなのために、サイードさんのために何ができて、何をすべきなんだろう。
◇ ◇ ◇
どんな時でも朝は必ずやってくる。
僕は日が昇る前にそっと起きだして杭に繋いだ馬たちの間を通り抜け、僕たちが来た道を振り返る。そしてまだ暗い西の空に向かって顔を上げた。
僕は今から六週間と四日前にこの世界にやってきた。
そして砂漠の真ん中にある中央神殿でサイードさんに出会い、神殿長さんやカハル皇帝と話をしてウルドやアドリーさんやエイレケのマスダルに会い、そしてダルガートを知った。
西のイスタリアの王女様と話し、ヤハルたちとともに神殿を出発して、いろんな村や街でいろんな人と出会い、砂漠を旅してここまで来た。
僕は目を閉じて深く息を吸う。
まだ夜の匂いの残る空気を身体いっぱいに満たして、祈る。
エルミランの山頂で僕が願ったのは、あたたかくて柔らかな恵みの雨。
日の光を覆い隠す雲を、人々の憂いを払う優しい風。
背中に熱を感じる。東の空に太陽が登る。
目を開けた僕を柔らかな霧雨が濡らした。この雨はあの山羊や羊を飼っているおじいさんたちのところにも届いているだろうか。
その時、ふと肩に何かが掛けられた。振り向くとサイードさんが後ろに立っていて僕が濡れないようにと毛布をかぶせてくれている。そして背中から腕を回してぎゅっと抱きしめてくれた。
「ありがとう、カイ」
サイードさんの言葉に僕は首を振る。
何も言わなくてもサイードさんには気づかれてる。
僕が何か言いたくてもふさわしい言葉が思いつかなくて何も言えないでいること。
今はもういないサイードさんの一族の代わりに、せめてこないだ泊めてもらったおじいさんたちを助けたいと思ってること。
そしてそれが全部ただの自己満足に過ぎないことも。
全部分かった上でありがとうって言って抱きしめてくれてるんだ。
その腕に頬を寄せて、僕は夜の最後の名残を眺める。そして無性に泣きたくなるのを必死に堪えた。
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(次回、帝都イスマーンに到着します)
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