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ミナミくんと虎の店長さんの逃避行。

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「おお、戻ったか!」

 呉凱ウーカイがミナミを担いで醫院に駆け込んだ途端、山羊の医師がよっこらせと立ち上がって言った。そして呉凱に袋を押し付ける。

「これを持ってすぐに出ろ。もう幇の手配が回っとる」
「早ェな」

 すると黒メガネの狸がひょこひょこと片足を引きずってやって来た。

「そりゃああんだけ派手にバンバンやってりゃなァ。俺んとこにもなんか知ってるかって早速電話が来てるぜ。しばらくアンタは姿隠しといた方がいいな、虎大哥」
「ああ、わかった」

 呉凱は狗仔ガウジャイが手にした紙袋の中にベルトから抜いた銃を落とす。すると狗仔が頷いてくしゃり、と袋の口を締めた。

「こっちは俺が始末しとく」
「借りができたな」
「そのうち倍返しで請求するさ」

 呉凱はポカンと口を開けて話を聞いているミナミをもう一度担ぐと、狸の「アンタのこと聞かれても最近できた愛しい寶貝ベイビーとイチャつきたくてどっか雲隠れしてると返事しといてやるよ」などという与太を聞き流して醫院を出た。

「う、呉凱さん、どこ行くの?  俺自分で歩けるよ」
「いいから、しっかり捕まってろ」

 すでに深夜に近い時刻だが、あの犬人が呉凱を狙って所かまわず銃を使ったせいもあってか、まだあちこちから住人たちのざわめきが聞こえてくる。
 呉凱は山羊の医師から受け取った袋を口に咥えると、ミナミを背負ったまま抜け道を利用して醫院のある羅斯福路からかなり離れた松隆路三巷まで一気に走った。そして誰も後をつけてきていないのを再度確認してからミナミを降ろす。

「こっちだ」

 そう言って床に落ちている穴の開いたバケツや果物の皮、檳榔のカスを蹴り、天井を縦横無尽に走る古びた配管から漏れる水を避けて一番奥にある鉄の格子をくぐった。中には小さなカウンターがあり、まるまると太ったネコと旧式の銃を膝に乗せた老婆がちんまりと座っていた。

「いいか?」

 呉凱が尋ねると、老婆が皴だらけの顔でこくり、と頷く。呉凱はミナミを腕の中に囲い込んで狭い通路を奥へと入って行った。呉凱の懐でミナミが緊張しきっているのがわかる。肩を抱いた手にぎゅっと力を籠めてやると、ミナミが呉凱を見上げて少し笑った。

 一番奥の部屋に入って鍵を掛けるとミナミがきょろきょろと珍し気に中を見回す。そこは寝台と小さなキャビネットが置かれただけのシケた宿だった。身体の大きい呉凱とミナミが入るとかなり狭苦しいが、場所が場所だけに洗濯されたタオルと敷布、それにシャワーがあるだけまだ上等な方だ。

「…………ここは……?」
「いわゆる連れ込み宿ってところだな」
「つ、連れこ……っ?」

 途端にミナミの目がまん丸になる。

「幇から逃げるには外に出る方がヤバイ。この世でアリバイが成立しねぇのは唯一この円環大厦の中だけだ。ここなら誰にも足取りを掴ませずに姿を隠せる。まあ『丈八燈塔、灯台下照遠不照近暗し 』ってやつだな」

 呉凱はどさり、とベッドに腰を下ろすと山羊の医師から渡された袋を開けてみた。中には軟膏と消毒薬とガーゼ、テープ、そしてビニール袋に包まれた食べ物がいくつか入っていた。

(ガーゼ?)

 呉凱は不思議に思ってミナミを見上げる。

「お前、もしかしてどっか怪我してんのか」
「え、あ、そうだった」
「そうだったって……忘れんなよ」
「いや、もう夢中だったから……」

 今思い出したと言わんばかりの顔をしたミナミに眉を顰めて手招きする。すると大人しく呉凱の隣に座って後ろを向いた。

「ここ……首の後ろなんだけど……」

 ミナミが後ろ髪を掻き上げるとそこには痛々しく腫れた火傷の痕があった。思わず腹の底が怒りでカッと熱くなる。

「畜生、あの野郎やっぱり八つ裂きにしてやるべきだった」
「え、いいよそんな……、なんかもう痛いの通り過ぎちゃった感じだし……」
「待ってろ」

 呉凱は立ち上がると狭い部屋の隅にある扉を開け、置いてあったタオルを洗面台で濡らしてきつく絞った。

「少し冷やせ」
「ああ、ありがとう」

 できるだけ痛くないようにそっと濡れたタオルを乗せてやると、一瞬ビクッとミナミの身体が跳ねる。だが呉凱が向かい合わせに身体を抱えてやると、フーッと息を吐いて肩の力を抜いた。

「……悪かったな」

 呉凱が言うと、ミナミが「え?」と視線を上げる。

「俺のせいでお前まで巻き込んじまった」

 ミナミは元の世界でも他人のいざこざに巻き込まれて命を落とし、言葉も通じない異世界に飛ばされてしまった。そのせいでどれだけ辛い思いをしたか呉凱でも想像ぐらいはできる。
 なのにまたしても呉凱のせいでこんな場所に連れ込まれて怖い目に遭い、怪我まで負わされたのだ。呉凱を恨んで当然だろう。
 だがミナミは呉凱を詰るどころか、逆に両腕を呉凱の胴に回してぎゅっと抱きついてきた。そしてぐりぐりと額を呉凱の胸に擦りつけて呟く。

「…………そりゃあ、めちゃくちゃ怖かったけど」
「……ああ」
「でも、呉凱さんにまた会えて、ほんとに良かった」
「おう」
「あれ持ってくの、間に合ってほんとに良かった」
「……ありがとな」
「うん」

 うなじに当てたタオルが落ちないように手で押さえながら、呉凱はミナミを抱きしめた。するとミナミもますます強く呉凱にしがみつく。呉凱の胸に顔を埋めたまま動かないミナミをあやしながら、呉凱は薄暗い天井を見上げて言った。

「……俺は昔、結構荒れた生活をしててな。あんまり人に言えねぇことだってたくさんしてきた」
「…………ん」
「俺をつけ回してたあいつは復讐だと言っていた。けど結局あいつは自分の正体どころか、なんで俺を憎んでたのかも言わずに死んだ」
「……じゃあ、結局なんで狙われたのかわからずじまいなの?」

 ごそ、とミナミが身じろいで呉凱を見上げる。

「ああ、馬鹿げた話だろ。曲がりなりにもてめぇの命を賭けてまで俺に復讐しようとしたくせに、理由も原因もわからねぇんじゃ俺だって悔やみようがねぇ。果たしてそれで復讐なんて言えんのかね」
「……どうかな……、よくわかんないや……」

 本当に馬鹿げた話だと心底思う。
 恐らく、過去に自分とあの男の間に何かがあったのだろう。呉凱にわかるのはそれだけだ。
 男は呉凱を恨み、復讐のために呉凱を追ってきた。だが男は負け、死んだ。結局あの犬人は復讐の理由さえ呉凱に思い知らせることができなかったのだ。文字通りの犬死にだ。それに対して呉凱はどういう感情を持てばいいのか、まだわからずにいる。

(これも俺の 『円』 と 『環』 か)

 この世は原因と結果の寄せ集めだ。ある事柄が原因となって、そこから一つの根から生え出る木が結び合い枝分かれしていくように広がり、やがて無数の結果を生み出す。そして彼方まで分かれていったものが再び最初の地点に戻ってくる。まるで大きな円環のように。
 呉凱の過去にあった何かがあの男の憎しみを生み、その憎しみが呉凱の身に返り、そして男が呉凱に向けた敵意は翻って男自身に降りかかった。

 『円』 は縁。『環』 は款。

 そこから生まれるものは幸福とは限らず、時には関わる者を滅ぼす。だがこの世の誰もそこから逃れることはできない。

 ふいに、呉凱は自分の腕の中にあるぬくもりと息遣いがたまらなく大事に思えて、ミナミを抱える腕に力を籠める。そして柔らかな髪に頬を擦りつけた。
 一つ間違えればこれを永遠に失うところだった。呉凱は、あの犬人からミナミを殺すと言われた時に生まれて初めて覚えた怒りと恐怖をまざまざと思い出す。
 だが呉凱の過去がきれいさっぱり消えでもしない限り、同じことが起こる可能性は決してゼロにはならないのだ。

「呉凱さん」

 ふと、懐からミナミの声がした。

「言っとくけど、別れないからな」

 正直、少しは考えていたことをズバリ指摘されて呉凱は眉を上げる。すると呉凱の胸元から顔を覗かせて、ミナミが再び言った。

「自分のせいで俺が怪我したとか思うのも禁止だし、危ないから別れるなんて言ったら本気で怒るよ」

 呉凱の背中に回されたミナミの腕に一層力が籠る。

「……それと、昔の自分を悪く思うのもダメだからね」
「……どうして」
「だって昔の呉凱さんがあるからこそ、今の呉凱さんがいるんじゃないか」

 その言葉に思わず呉凱は目を見開いた。するとミナミが伸びあがって呉凱の膝に乗り上げる。そして首にしがみつくようにして囁いた。

「……昔あった大変なこといっぱい乗り越えてきたからこそ、今の呉凱さんはこんなにカッコいい人になったんだろ? だから俺は昔の呉凱さんに感謝したいくらいだよ、ほんとにさ」
「……お前ってヤツは」

(ああ、これは本当に、俺の負けだ)

 呉凱は思った。
 恐ろしい目にあった原因である呉凱にこんなことを言える者が一体どれだけいるだろうか。
 これこそが、突然殺されて異世界に飛ばされ、家族も知り合いもなく言葉も通じない場所で一人でここまで生き抜いてきたミナミの強さなのだろう。

 呉凱にも、美味いものやきれいなものを愛でる心はある。だが強いものへの尊敬ははるかにそれを上回る。

「ミナミ。おめーはずっと俺の傍にいてくれ」

 ミナミをぎゅっと抱きしめてそう言うと、ミナミが「ぐえ」と苦しそうに呻いてから「当たり前じゃん」と答えた。それがおかしくて呉凱は腕を緩め、ミナミの口に自分の口を押し付けて牙を剥く。
 食ってやるぞ、と言外に脅せばミナミは待ってましたとばかりに目を輝かせて自分から食いつてくる。そんなところがたまらなくかわいいと思った。

「オラ、まずは首の手当てだ。あと身体洗ってメシ食うぞ」
「え、ここ風呂なんてあるの?」
「シャワーだけな。無事湯が出るように祈っとけ」

 そう言って呉凱はミナミを抱え上げると、ノシノシとシャワールームに向かって歩いて行った。
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