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第3章 サトル、謡う

3-2-3 見参、漆黒の魔狼 ヴィント

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「…おい」
「よし、やっぱりこれが鍵だったな! 見ろ、俺でも使えそうだ」
「俺も、俺にもやらせてくれっ」

 俺を見て後ずさったベイルが喘ぐように声を掛けたけど、中に棒を入れて取り出したノウマンとはしゃぐジッドには聞こえていない。
 ……ステータスアイコンが灯る。体力を犠牲にして足りるものなら、どれでもスキルが使用可能になっていた。
 この森で一番豊かなマナは水だ……。トレントロッドも奪われたままだし、使ったことがないから、感覚で行くしかない。
 指先をゆっくり上げて、俺に呼ばれて水色の蝶のようにまとわりつく水のマナを魔力として練り上げる。

「あ…あぁ…」

 冷気がのたうつように足元を這って、巨人族タイタンのベイルが逞しい身体を震わせ、恐ろしいものを見るような目で呆然と立ち竦んだ。
 俺の鞄をいじくりまわしていた二人もやっと気づいたけど、もう遅い。

「なんだ、てめえっ!?」
水魔法アクアスペル…? 使えないんじゃなかったのかっ?」

 枷は外れた。あとは詠唱だ。

「『罪びとよ、凍れ』」

 心臓の痛みと引き換えに、キンっと音が響いた。三人の足元を氷の矛を持つ水の女神アクティエが抱き着くように拘束して、そのまま腰まで氷が這い上って固まる。水属性の上級の拘束魔法レクシオンスペルだ。

「な、なんだ、こりゃあ!?」
「!」
「くそ…!」

 ジッドは焦って、ノウマンは驚愕、ベイルが一番顔色が悪い。
 どうする? 殺すか?
 だめだ、マリーベルを助けないといけない。
 こいつらの仲間がどこにいるかもわからないし、どう止めればいいのか…。
 命令…? 俺の命令を聞くか? こいつらが? どう言えば、脅せばいい?
 引きずり出される魔力の負荷で心臓がゴトンゴトンと重苦しい鼓動を刻むし、噴き出した粘つく汗が顎から滴る。鼻血もまた出てきたし、耳鳴りが酷くてだんだん視界が暗くなってきた。
 脅すにしても、声を聴きとれる距離に行かないと…歩こうとしたけど、足元から俺自身が崩れる。
 手に、ぱしゃっと冷たい水が当たった。小さな波が寄せては返す。水の女神アクティエの淡く光る水色の豊かな水の髪が床を覆うほど広がり、辺りを薄青く照らしていた。
 顔を上げたら、水の女神アクティエが、無様に転がる俺を見下ろしてる。
 表情がないから、まるで水の彫刻みたいだ……。

「ひあぁああ! 腕が、俺の腕がッ!!」

 ジッドが濁った悲鳴を上げる。煙…?
 水の女神アクティエが俺を見たまま、氷の矛を持ち上げる。矛の先にいるのは、あの三人だ。
 自分から出たいろんなもので汚れた地面に必死に起き上がったら、ジッドの腕が煙を上げて捻じれながら干からびて、カランっとソロモン・コアが落ちた。

「なんでだ! なんでポーションが効かねえんだ!?」
「なんだ、一体何が起こってる!?」

 もしかして、あいつらには水の女神アクティエが、見えていない…?
 まるで枯れ木のようにしなびて行くジッドの腕に、水の女神アクティエが「死の吐息」を吹きかける。あれは解除不可能と言われる呪いだ。
 だって、水の女神アクティエを喚び出した者が赦さない限り解けないから。
 水の女神アクティエが俺のそばに滑り寄る。冷たい手が頬を撫でて、目の前で微笑んだ水の女神アクティエがぱしゃんと音を立てて還った。

「かえして…」

 俺の声に答えるように、ふわっとアンティークな鍵の形をしたソロモン・コアが浮き上がる。
 とっさにノウマンが掴みかけるけど、恐れるように手を引いた。

「くそッ!!」

 ベイルが自由になる上半身で殴りつけても、ソロモン・コアは壊れない。
 丸い結界が揺らぎもせず強靭な拳を受け止め、そのままふわふわと俺のそばに帰って来た。
 ちゃりん、と手に落ちる。
 とたん、全身が重くなって喉が引きつり、また血を吐いた。
 痛い、痛い…! もうどこが痛いかわからない!!
 ピシ、ピキ、と術者からの魔力配給が途切れた氷が割れる音がする。

「仕方ない。殺すぞ」
「じゃあ俺にやらせろォ!! このクソガキ、よくも俺の腕を!!」
「おい、あの鞄はいいのか?」

 ちくしょう…もう、身体が…動かないよ……。
 誰か…あの子を、マリーベルを助けてくれ…!

「惜しいが、こうなっては仕方がない。あの小僧以外使えない代物なら、この世から消し去る方が得策だ」
「引きずって行ってもか」
「危険の方が勝る。よそにくれてやるのも馬鹿らしい」

 とうとう割れた氷の破片が当たった。
 もう一回、ソロモン・コアを手放せば…!
 でもダメだ。手から離れてくれない。

「まず指だ。それから耳も鼻も、股で縮み上がってるそれも削いでから、じっくり内臓まで犯して殺してやるからな…!」

 心臓が痛い。耳鳴りでもう音がわからない。

「ゆる、さない…」
「なんだと?」
「おれは、おまえたちを、ゆるさない…!」

 力じゃ敵わない。どうあがいたって無駄だ。
 でも、喰い千切れるものがあれば食いちぎってやる。爪が剥がれようが抵抗する!
 ただ泣いて、諦めて、殺されるなんてごめんだ!!
 振り上げられた短剣を見据えて覚悟を決めた俺の周りに、水のマナがちらちらと現れた。
 俺の手が凍り出す。怯んだジッドにも薄い氷がまとわりつき、凍って短剣が滑り落ちた。

「ノウマン! 助けてくれぇ!」

 知らない声と同時に誰かが入ってきて、ジッドの凍った手に首を掴まれた。

「何事だ!?」
「ひでぇよ、約束がちがう! 遊ぼうとしたらあの小娘に弟が燃やされて、」

 はっきり聞こえない…。

「クソがっ、もういい! 死ね、死ね、死ねぇ!!」

 ぎゅっと首が絞められて、目の前が真っ赤に染まるのを見ながら必死にもがいて、爪を手に、だめなら顔面に立てようとあがいて、もろともに凍りついていく。

「ひあぁぁ…なんだこいつ! 離せ! おい、離せよ!!」

 首の手が解けて、今度は俺がジッドを掴んでいた。
 俺がどうなったって構うもんか! このまま氷漬けにしてやる!!
 ああ、でももう…目の、前が……。

「――駄目だよ」

 ………幼いころ。
 母さんが眠りかけた俺をとがめたような、耳に甘く響く優しい声が聞こえた。
 いつの間に閉じてたんだろう。ふっと目を開くと、俺の前に立つ黒い影が見えた。
 ぱらぱらと顔になにかかかる。生温かくて甘い、鉄の匂いの…これは…血か?

「ああ、ごめん。かかっちゃったね。すぐ終わらせるから、いい子にしてるんだよ」

 もしかして、俺に声をかけてくれたの?
 どさ、となにか重いものが落ちた音…。
 起き上がる気力もないままの視界に、皮一枚で繋がっただけの頭を蹴られたジッドが、虚ろな顔で間欠泉みたいに血を吹き出しながら転がっていた。
 痩せた体にくたりとした耳と艶のない尻尾が、自分の血に濡れて惨めに落ちてる。雨の日に事故に遭った野良犬みたいだな……。
 さっきの…こいつの血か。
 あれ、残った二人は?

「…っ、…!」

 伝えたいのに、声が出ない。
 ひゅうひゅうとみっともない息だか声だかわからないものを漏らしながら血だまりの上を這うと、気がついてくれた黒い人影が大股でこっちに来た。
 両方の腕から、手の甲に沿うようにしてなにか生えてる……。尖った先端からぽたっと雫が落ちて、わかった。石みたいに真っ黒な刃物だ。短剣より少し長い。
 びっと腕を払うと、玉のように液体が散って引っ込んだ。あれ、たぶん血かな……。

「大丈夫、……じゃないよね。動かないで」

 優しく言ってからたくましい腕が俺を抱き起こして、俺が力なく握ってたままのソロモン・コアを取った。
 だめだ、それは危ない!

「はい、君の大事なものでしょう?」

 慌てて取り返そうとする前に、ソロモン・コアをそっと俺の頭からかけてくれた。
 あれ、頭も耳もっていうかぜんぶ痛いし音がこもってるのに、不思議とこの人の声はちゃんと聞こえるな。

「ちょっとごめんね」

 謝りながら、びりびりになって肩に引っかかってるだけになってたシャツを脱がされた。とうとうすっぽんぽんになったけど隠す気力もないし、中身を刺されてるような、火傷してるような痛みで震えるお腹を押さえて息をするだけで精一杯だ。

「肩が外れてるのかな。すぐ済むから我慢して」
「ッ!!」

 返事する間もない!
 後ろから抱きしめられたと思った瞬間、左腕と肩を抑えられて捩じり上げるように肩がはめられて、また体の中からゴキンと音がする。

「う゛あぁあっ」

 痛すぎてぶわっと涙も声も出た! 力を入れたら腹も痛い、顔も、耳も肩も痛い!!

「痛かったねぇ、ごめんごめん」

 痛いよ! もうどこもかしこも痛いのに!! もういやだッ!!

「大丈夫だよ。もうこれ以上痛いことはしないからね」

 へたりこんだまま、自分でもどこにこんな体力が残ってたのか、おまえは幼児かって勢いで泣き声を上げたら、あんたは予防接種につきそうお母さんですかって調子で抱きしめられて、腹が立った!!
 でも、そうだ…。マリーベル! あの子を助けに行かないと!

「うぅ…っ」
「ほら、落ち着いて。手当しないと」

 うるさい、落ち着いていられるか! そんなのあとでいいよ、早く行かないと!
 鞄に手を突っ込んで、自家製のポーションを取り出す。蓋を開けたいけど指が動かない!

「貸して。…はい、どうぞ」

 自分で持ち上げられないから手を借りて一気に飲んだら、黙ってても痛みでヒクついてたお腹がじわっと暖かくなって、ほとんど塞がってた視界も少し見えるようになった。鼻血はわからないけど、だらだら出てこなかったらもうそれでいい!
 よし、行くぞ!

「ほら、危ないよ」

 勢い込んで立ち上がろうとしたけど、腰が立たない。またべちゃっと汚れた地面に落ちて、悔しさと情けなさでしゃくりあげながら拳で涙を拭った俺の背中を、大きな手が撫でてなだめようとしてくる。

「ちょっと待ってね」

 それからがさごそと自分の腰鞄からなにか取り出して、濡らした布で顔や酷い有様の下半身をそっと拭いてくれた。わざわざ自分のタオルと水筒を使ってくれたのか……。

「ここじゃ応急処置しかできないけど、このままじゃ気持ち悪いでしょう。痛くないようにするから、少しだけ我慢してね」

 またポーションの匂いだ。肘とか膝にかけて洗われて、初めてそこが痛かったらしいことに気がついた。ひどく擦りむいてたっぽい。
 あ……血が止まった。ポーションで傷口を洗うなんて贅沢な使い方だなあ。
 きれいにしたところを手早く布で押さえて、最後に背中からなにかがばさっと被せられた。汗で濡れて冷えた身体が、少し暖かくなる。

「とりあえず、今はここまでだ。あとでもっとちゃんと綺麗にするからね」

 これ、この人の着ていた黒い上着だ……。
 素材がなにかわからないけど、恐ろしく滑らかな革で、吸い付くように肌を覆ってくれた。なんかめちゃくちゃ高そう……。
 こっち、クリーニング屋さんってあるのかな? あったらこれ、クリーニング代を払わないとだよね?
 ぼんやり見ていたら、その人はあちこちに散乱した俺の服を集めて袋に入れてくれてる。
 だめだ、俺もへたり込んで泣いてるだけってのは情けない。
 近くに落ちてたブーツを取ってのろのろと履いてたら、またそばに来て残った片方を履かせてくれた。それから「触るよ」ってささやいて、流れた鼻血と涙をそっと拭ってくれたんだ。
 頬に触れた大きな手の優しさが胸にしみた。さっきまで殴ったり蹴られたりされてたからかなあ。
 あいつらと同じように大きくてたくましい手なのに、この人の手がくれた優しさに、初めて自分が助かったんだって実感した。……実感できた!

「……っ」
「怖かったね。もう大丈夫だよ」

 嗚咽混じりの震える息をついた俺を見て、そう言いながら俺が痛くないよう、でも体温が伝わるように、そっと抱きしめて背中や頭を撫でてくれる。

「うぅ…!」

 マリーベルを助けに行かなくちゃいけないのに、情けなくも先に安心してしまって俺は泣いた。
 それはもう、ぼろぼろと涙も鼻水だか鼻血だかも盛大に垂らして泣いちゃったんだ。俺のせいで胸元とか絶対汚れたのに、この人はいやがりもせず拭ってよしよししてくれたから、その黒い革手袋をはめた手を思わずぎゅっと掴む。
 ああ、きっと、本当に優しい人だ。
 この人なら、あの子を助けてくれるかも知れない!
 なんとか嗚咽を堪えて息をついて、俺は必死に大きくて温かい手を掴んで訴えた。

「どうしたの?」
「…っ、……!」

 くそ、声が出ない! 慌てて大きな手のひらに字を書く。

「マ、リー、ベ、ル…?」

 そう! あの子を助けて欲しいんだ!!
 ダメなら俺が自分で行く!

「ああ、待って。慌てないの。ピンクの花束みたいに可愛い女の子のことでしょう?」
「!」

 そう、その子! 縋るように見上げたら、急に動いたせいか点滅する暗い視界の中に、まるで月のように二つの金色が浮かんで見えた。
 そうか、この人の目だ……。

「その子なら大丈夫だよ。悪者に狙われたけど、自分で相手を火だるまにしてやっつけちゃったからね。それから無事に僕たちに出会って、君を助けて欲しいって訴えてくれたんだ。今はピルさん……ピルパッシェピシェールさんといっしょにいるよ」

 マリーベル…よかった! それに、ピルピルさんまで来てくれたなんて。
 あの人も強いし、きっとマリーベルを守ってくれる!

「強い子だね。自分も怖かっただろうに、自分の保護なんていらない、それより君を助けてって、本当に必死だったよ」

 安心して気が抜けそうになったけど、いや。まだだ。ちゃんと自分の目で確かめなくちゃ!

「さあ、これで少しは落ち着いたかな? 行こう」

 それから羽織ったままだった黒い上着に俺の腕を通して、たくましい片腕でひょいと抱えてくれた。力持ちだ!
 この上着も俺にはかなり大きいから、これ一枚でしっかり大事なところが隠れてくれるのがありがたい。
 黒い上着の下は黒いシャツか……。黒ずくめだな。絹じゃないけど、綿シャツってわけでもなさそう。こっちの世界で俺が見たり触ったりした中では知らない素材だ。
 それにかなり背が高い。目に血が入って見えにくいけど、そういえばこの人、誰だろう?
 何度か瞬きしてたらやっと間近にあった顔が見えて、俺は息を呑んだ。
 え…え? ウソだろ…!?
 信じられなくてごしごしともう一回、今度はしっかり血と涙を拭って、端正な横顔をじっと見る。
 艶のある黒い髪に、黒い立ち耳と豊かで艶やかなふぁっさあぁと揺れる黒い尻尾! 転がった松明に照らされた滑らかな肌は鞣したような褐色で、俺を見た切れ長の目は狼そのものの闇に光る金色だった。
 めったにいない獣人族ガルフの狼、それも月光旅団の漆黒の魔狼、ヴィントじゃないか!! なんでここに!?

「どうしたの?」

 驚きすぎて口をぱくぱくさせてたら、「ああ」となにかに気づいた様子でヴィントが笑って名乗ってくれた。
 笑ったらおっかなそうな顔が、牙もあるのに途端に優しいお兄さんになる。

「サトル・ウィステリア君。助けに来るのが遅くなってごめんね。僕は月光旅団のヴィント・エスペランサ。ナーオットのギルドで君の捜索依頼を受けたんだ」

 ギルドで!? なんでまた……。
 理由を聞きたいけど、声が出ないしわざわざ書くのも時間がかかるし!
 とっさになにも言えずにヴィントの顔を見たまま唇を噛んだら、切れてたらしくてめっちゃ痛くて泣き声っぽいのが漏れた。
 いや、もう泣いてないんだよ。単純に痛くて「いてっ」って言いたかったのに、声にならなかっただけなんだ。

「こんなに腫れて…痛いよねぇ…」
「…ぃ、き」

 自分の方が痛いみたいな顔をするんだな。長い指がそっと腫れた口元に触れて、平気って言いたいのに、掠れすぎてぜんぜん伝わらない。

「平気じゃないよ…酷いなあ」

 いや、伝わってた。
 色男だけど女の人を千人ぐらいソープに沈めてるホストか、良くてマフィアって感じの危ないお兄さんにしか見えないのに、悲しそうな顔をしたらリアルに存在してる耳と尻尾がしょぼん…ってなるせいで、むしろ愛嬌あるのがすごいな!?

「悪さもしてない子どもに手を上げるような輩はろくなもんじゃないよ。首の前にこいつの四肢を落とすべきだったよね」

 いや、そういうのはいらないです!
 一転、冷たい目で自分が殺した相手を見下ろす横顔は、ちらっと覗く牙と相まって本当に怖い。
 さっきまでだって怖かったし痛かったけど、今はあんたの腕の中にいる現状が一番怖い気がするよ!?
 これで俺が実は大人だってバレて、この冷たい顔と声で「いい大人でしょ? 自分でなんとかしなよ」なんて言われたら絶対立ち直れない自信がある!

「しばらく手に力を入れすぎちゃいけないよ。凍傷になってしまってるからね」

 それはわかった。それより下ろして欲しいけど、弱々しい抵抗に気づいてもらえない。
 長い脚から繰り出される大きなストライドで出口に向かわれて、そこにもう一人、長身の人影を見つけた。
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