屋根裏の魔女、恋を忍ぶ

如月 安

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第一部

第45話 触れる

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 以前、話しかけた時のことが脳裏をよぎる。

 話しかけると、また不快な思いをさせてしまうかも知れないが、今生の別れに、飛んでくるポットから庇ってもらったお礼くらいは、ちゃんと言っておこう。

「あの、もっと早くお礼申し上げるべきでしたが、あの時は、セシリア様のお宅で庇っていただき、ありがとうございました。」

 ウェイン卿は顔を上げ、驚いたように、わたしを見た。眉間の皺が緩み、ほんのり赤みが差す。

「いえ・・・。その、腕にお怪我を負わせてしまい、申し訳ありませんでした。」

 思いもよらないことを言われて、一瞬驚いたが、そう言えば、名目上は『護衛』ということになっていたと思い出した。本当はどうでも良いだろうに、流石は王宮騎士、芸が細かい、と感銘を受ける。

 そういえば、騎士達は、誰もセシリアが投げたものに当たっていなかった。あの状況でも、反射的にちゃんと避けていたのだろう。

「いいえ。わたくしがぼんやりしていたせいですし、翌日にはすっかり治ってしまいましたから。それよりも、わたくしの歩調は遅すぎませんか?体調が優れないのでしたら、先にお戻りになってください。」

「は・・・?体調・・お、わたしのですか?」

 訝し気に問われ、口を開く。

「あの・・、お顔の色が優れないようにお見受けします。お仕事がお忙しいのでしょう?わたくしにはお気遣いなく、先にお戻りください。屋敷で温かいお茶でも召し上がって、早くお休みになられた方が―――」

 言い終わらぬうちに、ウェイン卿は、ふわっと可笑しそうに微笑んだ。


 え?


 あれ?

 ・・・わ、笑った?

 ウェイン卿が?いつでもどこでも冷静沈着。いつだって落ち着き払っていて、何があろうとも、このわたしの前でだけは笑うまいと思っていた、あのウェイン卿が?

 その微笑みの破壊力は、あまりにも大きすぎた。

 心臓が口から飛び出しそうなほど高鳴り、全身が金縛りにあったみたいに動けず、声も出せず、ただ、凝視することしかできない。

 柘榴石《ガーネット》のような深い紅色の瞳を細め、そっと口角を上げたその顔は、夢で思い描いたよりも、ずっとずっと素敵で、周りにキラキラと光が瞬いているように見えた。

「・・・わたしのことを、ご存じでしょうか。」

 眩いまま、ウェイン卿が話し出したが、わたしはその希少すぎる奇跡の微笑に惹き付けられ、相槌の言葉を口にすることすらできず、ただ小さく頷いた。

「・・・わたしの生まれた家は、ハイドランジアとの国境近くの没落しきった子爵家でした。母は、その家の使用人でしたが、物心ついた頃には、・・いなくなりました。この目は、その母方から受け継いだものです。」

 ウェイン卿は、どこか遠い目をして、微笑しながら、続けた。

「辺境の子爵家での扱いは・・・よくある話です。しばらくして、国境の緊張が高まり、小競り合いが始まると、王都から子爵家に、国境警備に赴くよう、命令が下りました。
 一族の誰かが行かねばならなかったので、父は当時十二だったわたしを送りました。それからは、戦いに明け暮れる日々を過ごしていましたが、ノワゼット公爵に拾われ第二騎士団に入り、二年前にはハイドランジアが滅んで・・・その辺りは、もうご存じかも知れません。」

「・・・・はい。」

 ウェイン卿の活躍ぶりはよく知っていた。
 屋根裏での生活は、本と古新聞を読むことに多くを占められている。新聞には、扇動的な記事が並んでいた。ウェイン卿の剣技は鬼神の如くだとかなんとか。

 ウェイン卿は、言い淀みながら、続けた。

「・ええ・・・つまり、その、何が言いたいか、というと・・・、わたしにはずっと、・・・二年前に戦争が終わってからも、世界は灰色に沈んでいるように見えていました。
 ・・・ところが、ごく最近になって、そうでもないのではないか、と思うようになりました。」

 赤い瞳がこちらをじっと見つめているが、その真意を測りかねていた。

 なぜ、今ここで、わたしにそんな話をするのだろう?

 きっと、特に意味はないのだろう。

 今日は嬉しいことに、ほんの少し、ウェイン卿の表情の変化を見られた。

 だけどやっぱり、この人の考えていることだけは、さっぱりわからない。

 でも、理由はともかく、それは、とても―――

「・・・それは、何よりでございます。ウェイン卿は、素晴らしい方ですから、きっと、これからも彩りある、光の中を進まれると思います。」

 柘榴石のような不思議な色の瞳が見開かれ、きらりと光ったように見えた。

「・・・そう、思われますか?」

「はい。もちろんです。わたくしには想像もできない苦境の中に置かれながら、今は立派な居場所を持っていらっしゃいます。
 どのようなご事情があったのかはわかりませんが、ウェイン卿を手放された方は、大変な失敗をされたと思います。一緒にいらっしゃったら、きっと今頃は、とても幸せになれたでしょうに。それから―――」

 自分の居場所すら、満足に作れないわたしとは、大違いだとずっと思っていた。

 わたしが、ただ思い悩み、逃げることも叫ぶことも泣くことも、何もかも諦めて、命じられるまま屋根裏に閉じこもっている間、ウェイン卿はきっと、たゆまぬ努力をし、自分の力で道を切り拓いたのだ。

 ウェイン卿の存在は、この二年間、わたしの光だった。

 決して叶わない恋だったが、これからもずっと、この人が光溢れる道を行くことを願う。

「――ウェイン卿が、ご無事に戻られて、良かったです。」

 言った途端、ウェイン卿は、よろり、とよろめいて、大木の幹に手を突いた。


 ・・・ウェイン卿ほどの騎士ですら、木の根っこに足を取られることがあるらしい。

(なら、わたしがしょっちゅう躓くのも、無理ないか。)

 足元に目をやって根っこを確認していると、目の前に、すうっとウェイン卿が立った。

 ぎょっとして見上げると、白銀の髪の下に、神秘的な赤い瞳が煌めいていた。
 それはまるで、氷の中に炎が煌めいているようで、思わず見惚れて目が離せずにいると、その両手が、すいっとわたしの顔の辺りに伸ばされた。

 驚きのあまり、身が竦み、声も出せぬまま、目を瞑った。

 躊躇うように、一度、手が止まった気がしたが、またそっとフードに手をかけると、まるで気遣うように、ゆっくりと少しずつ外された。

 額と首筋に、ひんやりとした夕暮れの空気を感じる。

 恐る恐る見上げ、目が合うと、赤い瞳は少し細められ、何度か瞬いた。
 醜いこの顔を前にしても、不快に思われている様子は見て取れず、ほっとする。

「・・・・一体なぜ、いつも顔を隠されているのか、教えてはいただけませんか?」

 何故、そんなことを知る必要があるのだろう?

 今日のウェイン卿の言動は、何もかも不可解だ。

(もう、言ってしまっても、良いのかもしれない。)

 ノワゼット公爵は、間違いなく、ブランシュを深く愛している。
 わたしが伯爵の実子でないと知ったところで、それをブランシュの汚点と捉えるとは思えなかった。
 公爵は、わたしを排除しようとはするだろうが、それは今だって同じことだ。
 ブランシュのことは、必ず守ってくれるだろう。

(だけど・・・、ウェイン卿には、どう思われるだろう。)

 わたしが伯爵の娘ではないと知られたら、わたしはもう『令嬢』ですら、なくなる。
 こうして、内心はどうあれ、建前だけでも丁重に接してくれるのは、わたしが伯爵家の『令嬢』だからに他ならない。

「・・・・申し上げられません。」

 自分でも、驚くほど情けない声が出た。

 この期に及んでまだ、これ以上嫌われたくないと思っている自分には、ほとほと呆れ果てた。
 もうすでに、死を願うほどに嫌われているというのに。

 我ながら、愚かすぎて、哀れすぎて、つける薬もないと思う。

 だけど、これから永遠に、会うことも、顔を見ることも、遠い地では、その名を耳にすることすら、なくなる。

 今日、屋敷に戻るまでの短い間、夢を見ていたって、神様は許してくれそうな気がした。

「いえ。いつか、貴女が言っても良いと思われたなら、その時で構いません。ただ、今日は一度だけ、これからノワゼット公爵の前で、フードを取っていただけませんか?」

「・・・どうしても、必要でしょうか?」

「はい、必要です。」

――― これからは、自分のしたいように生きるといい。

 夢で逢ったあの老人の声を思い出す。
 ずっと父の言いつけを守って、隠れて生きてきた。
 その結果、誰にも必要とされず、どこにも居場所がなく、ドブネズミのように始末されかけている。

 どうせもうすぐ、わたしはここを去る。
 この人が望むなら、最後に顔を曝すくらい、もう構わないように思えた。

 黙っていると、ウェイン卿が口を開いた。

「・・・もし、気が進まないなら、他の方法を考えます。」

「いえ、そのように、致します。」

 ウェイン卿を見上げて、そっと微笑んで答えた。

「・・・有り難うございます。」

 赤い瞳を細めて優しく微笑むと、フードにそっと手を伸ばし、ゆっくりと優しい手つきで被せた。

 それから、片手を伸ばすと、壊れやすい銀細工に触れるような手つきで、わたしの手をそうっと取る。

「体調は、お陰様で万全ですから、一緒に戻りましょう。」

 たった今、起こった展開に全くついて行けず、言葉を失くして、こくこく頷くわたしに向かって、ウェイン卿はこの世の何よりも爽やかに微笑んで見せた。

 そのまま、歩き始める。

――― て、て、手が、触れては、いませんか・・・?

 それは、繋ぐと言うには、あまりに緩く、優しい触れ方で。
 
 驚天動地の事態に、わたしの心臓は、早鐘のように打ち鳴らされていた。

 そして、あることに気付く。


(そういえば、今日はずっと、ウェイン卿の声は、冷たくなかった。)
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