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148≪国変え物語・8・禁教令の裏の裏≫
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てんせい少女
148≪国変え物語・8・禁教令の裏の裏≫
秀吉は一滴の血も流さずに家康を臣従させた。まさに人たらしのアクロバットであった。
妹の旭を正室という形で、さらに、その見舞いという形で実の母親である大政所を家康のもとに送った。天下制覇の実績で見れば、圧倒的に秀吉が有利に立っていたにも関わらずにである。
両者の支配領域は日本の2/3を超え、それも畿内から東海にかけての日本の中枢部である。応仁の乱以来、この地方の人々は戦に倦んでいた。
「関白殿下は大したお人や!」
道頓は、座敷に地図を開きながら唸っていた。すっかり秀吉のファンになってしまっている。道頓なりに秀吉の役にたってやろうと思っているのである。
脇に娘が二人座っている。一人は美奈、もう一人は五右衛門が化けた娘である。まるっきりそのままではなく、多少変えて、名前も桔梗と名乗っている。美奈の心臓移植以来、自分の細胞を自由に変える術を覚えてから、五右衛門は、しばしば心臓を提供した娘に変化(へんげ)する。五右衛門は供養のつもりでいたが、無意識に娘への変身を楽しんでいる風でもあった。
「昨日、関白殿下は、お忍びで家康様をお訪ねになられました」
五右衛門の桔梗が感動の声で言った。
「え、ご対面は、今日の午後からやと聞いてたけどな」
「それが、関白殿下なのです」
桔梗は、要領よくかいつまんで話した。
秀吉は、わずかな伴を連れただけで、酒をぶら下げ、なんの前触れもなく家康の宿所を訪ねた。
「旭の婿殿はおられるか?」
まるで親類のオッサンの気楽さである。突然の関白の訪問に、家康以下家臣たちまでも浮足立った。
「なんのなんの、構うてくださるな。前祝に猿めが嬉しゅうてたまらんので参っただけのこと。主はいずこに!?」
家康の家臣がうろたえる中、秀吉は、ずんずんと奥へ足を運び。勝手に家康の部屋を見つけて入ってしまった。
「そのままそのまま、ご家来衆も気楽にされよ。家康殿、この度は猿のわがままを聞いてくだされ、この通りじゃ!」
秀吉は、家臣たちが居る中で、家康に深々と頭を下げた。
「殿下、どうぞ頭をお上げくだされ」
たまらずに家康は、そう言った。
「いや、わしは嬉しゅうてならんのじゃ。元をただせば尾張の百姓の倅。いわば土くれにすぎなかった。それを信長様が人がましい武士に取り立ててくださった。今の天下は、儂の者だとは思うてはおらん。信長様からお預かりしたもんじゃと思うております。そえゆえ、天下統一に血は流してはいかんと思うてござる。明日は、城にて正式の体面となり、家康殿に頭を下げてもらわねばならぬ。それがお気の毒で、その前に心のあるままをお伝えしておきたかった。とにもかくにも、家康殿、まことにかたじけない!」
上げた秀吉の顔は、涙でクシャクシャになっていた。海千山千の家康の家臣たちも、この秀吉には感動した。
秀吉は、さんざん酒を酌み交わし、場の空気を柔らかくしてから、こう言った。
「明日は諸大名の前で、頭を下げてもらわねばならぬ。しかし、それは天下のための方便でござる。儂と家康殿は義兄弟。家康殿の心根は越前朝倉攻めのおりに、金ケ崎でわしが殿(しんがり)を務めた折、ねぎらいの言葉をかけていただき、ご家来二百をお貸しいただいたころから本物と存じてござる」
この話題には、家康も胸が熱くなった。
浅井の寝返りで朝倉との挟み撃ちになたっとき、信長は「逃げる」と一言言って、戦場を離脱した。
武将たちはことごとく置き去りにされた。しかし、当時の戦は大将の首が取られなければ負けにはならない。信長配下の大名たちは、それを十分承知していたので、信長の鮮やかな逃げっぷりに驚くものはあっても非難するものはいなかった。ただ、殿(しんがり)は織田家中の者が勤めなければ、織田家としては信を失う。
そこで、中級将校でしかなかった秀吉が名乗りを上げた。あの時の秀吉に嘘もハッタリもなかった。ただ主人信長を生かしてやりたい。その一言であった。家康は、それを思い出し、不覚にも目を熱くした。
「で、相談でござる……」
秀吉は、明日の体面、居並ぶ大名の前で「殿下の陣羽織を頂戴いたしたく存じます」と言ってくれと言った。
「この家康が臣従いたしましたからには、殿下に二度と陣羽織をお着せするようなことはございません」
という殺し文句まで用意していた。
これで、天下の大名どもは「あの徳川殿でさえ」と、いっそう秀吉のもとに結束を強めるに違いない。
「えらいなあ、関白殿下は。儂も、なんかしてお役にたたんとなあ……」
道頓は、地図を見ながら独りごちた。
「せや、外堀の南に、もう一本掘ろ!」
「外堀の、外堀ですか?」
「いや、商いのための運河じゃ。浪速の海から直接に大坂の街に運河を掘ったら、荷運びが、ごっつい便利になる……縄張りは……」
これが道頓堀掘削の最初であった。
秀吉は、その年(1587年)の夏に、キリシタンの禁教令の第一号を出している。信教については寛容な秀吉だったので、意外に思った美奈は、秀吉に聞いてみた。
「キリシタンは悪くはないし、どうがんばっても日本人全てを改宗させることはできん。せいぜいがんばっても、日本人の一分を超えることはない。なんせ八百万の神々の国じゃからな。しかし大友が、長崎をキリシタンにくれてしまいよった。わずかな数だが日本人が奴隷としても売られておる。ただの信教であれば何も言わん。その裏の野心を放置しておくわけにはいかん」
美奈は、まだ秀吉は正常で偉大だと思った。
148≪国変え物語・8・禁教令の裏の裏≫
秀吉は一滴の血も流さずに家康を臣従させた。まさに人たらしのアクロバットであった。
妹の旭を正室という形で、さらに、その見舞いという形で実の母親である大政所を家康のもとに送った。天下制覇の実績で見れば、圧倒的に秀吉が有利に立っていたにも関わらずにである。
両者の支配領域は日本の2/3を超え、それも畿内から東海にかけての日本の中枢部である。応仁の乱以来、この地方の人々は戦に倦んでいた。
「関白殿下は大したお人や!」
道頓は、座敷に地図を開きながら唸っていた。すっかり秀吉のファンになってしまっている。道頓なりに秀吉の役にたってやろうと思っているのである。
脇に娘が二人座っている。一人は美奈、もう一人は五右衛門が化けた娘である。まるっきりそのままではなく、多少変えて、名前も桔梗と名乗っている。美奈の心臓移植以来、自分の細胞を自由に変える術を覚えてから、五右衛門は、しばしば心臓を提供した娘に変化(へんげ)する。五右衛門は供養のつもりでいたが、無意識に娘への変身を楽しんでいる風でもあった。
「昨日、関白殿下は、お忍びで家康様をお訪ねになられました」
五右衛門の桔梗が感動の声で言った。
「え、ご対面は、今日の午後からやと聞いてたけどな」
「それが、関白殿下なのです」
桔梗は、要領よくかいつまんで話した。
秀吉は、わずかな伴を連れただけで、酒をぶら下げ、なんの前触れもなく家康の宿所を訪ねた。
「旭の婿殿はおられるか?」
まるで親類のオッサンの気楽さである。突然の関白の訪問に、家康以下家臣たちまでも浮足立った。
「なんのなんの、構うてくださるな。前祝に猿めが嬉しゅうてたまらんので参っただけのこと。主はいずこに!?」
家康の家臣がうろたえる中、秀吉は、ずんずんと奥へ足を運び。勝手に家康の部屋を見つけて入ってしまった。
「そのままそのまま、ご家来衆も気楽にされよ。家康殿、この度は猿のわがままを聞いてくだされ、この通りじゃ!」
秀吉は、家臣たちが居る中で、家康に深々と頭を下げた。
「殿下、どうぞ頭をお上げくだされ」
たまらずに家康は、そう言った。
「いや、わしは嬉しゅうてならんのじゃ。元をただせば尾張の百姓の倅。いわば土くれにすぎなかった。それを信長様が人がましい武士に取り立ててくださった。今の天下は、儂の者だとは思うてはおらん。信長様からお預かりしたもんじゃと思うております。そえゆえ、天下統一に血は流してはいかんと思うてござる。明日は、城にて正式の体面となり、家康殿に頭を下げてもらわねばならぬ。それがお気の毒で、その前に心のあるままをお伝えしておきたかった。とにもかくにも、家康殿、まことにかたじけない!」
上げた秀吉の顔は、涙でクシャクシャになっていた。海千山千の家康の家臣たちも、この秀吉には感動した。
秀吉は、さんざん酒を酌み交わし、場の空気を柔らかくしてから、こう言った。
「明日は諸大名の前で、頭を下げてもらわねばならぬ。しかし、それは天下のための方便でござる。儂と家康殿は義兄弟。家康殿の心根は越前朝倉攻めのおりに、金ケ崎でわしが殿(しんがり)を務めた折、ねぎらいの言葉をかけていただき、ご家来二百をお貸しいただいたころから本物と存じてござる」
この話題には、家康も胸が熱くなった。
浅井の寝返りで朝倉との挟み撃ちになたっとき、信長は「逃げる」と一言言って、戦場を離脱した。
武将たちはことごとく置き去りにされた。しかし、当時の戦は大将の首が取られなければ負けにはならない。信長配下の大名たちは、それを十分承知していたので、信長の鮮やかな逃げっぷりに驚くものはあっても非難するものはいなかった。ただ、殿(しんがり)は織田家中の者が勤めなければ、織田家としては信を失う。
そこで、中級将校でしかなかった秀吉が名乗りを上げた。あの時の秀吉に嘘もハッタリもなかった。ただ主人信長を生かしてやりたい。その一言であった。家康は、それを思い出し、不覚にも目を熱くした。
「で、相談でござる……」
秀吉は、明日の体面、居並ぶ大名の前で「殿下の陣羽織を頂戴いたしたく存じます」と言ってくれと言った。
「この家康が臣従いたしましたからには、殿下に二度と陣羽織をお着せするようなことはございません」
という殺し文句まで用意していた。
これで、天下の大名どもは「あの徳川殿でさえ」と、いっそう秀吉のもとに結束を強めるに違いない。
「えらいなあ、関白殿下は。儂も、なんかしてお役にたたんとなあ……」
道頓は、地図を見ながら独りごちた。
「せや、外堀の南に、もう一本掘ろ!」
「外堀の、外堀ですか?」
「いや、商いのための運河じゃ。浪速の海から直接に大坂の街に運河を掘ったら、荷運びが、ごっつい便利になる……縄張りは……」
これが道頓堀掘削の最初であった。
秀吉は、その年(1587年)の夏に、キリシタンの禁教令の第一号を出している。信教については寛容な秀吉だったので、意外に思った美奈は、秀吉に聞いてみた。
「キリシタンは悪くはないし、どうがんばっても日本人全てを改宗させることはできん。せいぜいがんばっても、日本人の一分を超えることはない。なんせ八百万の神々の国じゃからな。しかし大友が、長崎をキリシタンにくれてしまいよった。わずかな数だが日本人が奴隷としても売られておる。ただの信教であれば何も言わん。その裏の野心を放置しておくわけにはいかん」
美奈は、まだ秀吉は正常で偉大だと思った。
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