116 / 142
前篇
居場所(3)
しおりを挟む
──きっと、今の「ここだ」は彷徨う手の行方であって、家の話ではない。
それは、わかっているけど。
「かえる、の?」
「そうだ」
いつもどこかに帰りたかった。でも、どこに向かえばいいのかわからなくて。
「帰ったら僕が……僕が起こしてやる、から。だから、さっさと寝ろ」
ぽん、と、どさくさにまぎれて胸を叩かれた。
力加減を間違ったのかちょっと強めだったし、叩いたあとどうしたらいいのかわからないのか、胸の上で手をうろうろとさ迷わせている気配。
結局再びそろっと触れてきたり、またぱっと離れたり、して。
あまりにも不器用な男の声は、ストンと胸に落ちてきた。
苦しくもないのに、心臓をきゅっと掴まれたような気持ちになる。
頑張らなくて、いいのだろうか。
無理も、しなくていいのだろうか。
このまま寝ててもいいのだろうか。休んでてもいいのだろうか。
もう、自分で起きなくてもいいのだろうか。
「ほん、と?」
「だから、嘘をついてなんにな──……」
そうか、そっか。
頑張らなくていいんだ。無理しなくていいんだ。寝てても、休んでてもいいんだ。もう、自分で起きなくてもいいんだ。まっすぐ家に帰るから。
家に着いたらこの人が起こしてくれるから──そっかぁ。
ふっと、体から力が抜ける。まぶたの奥から、道のような、一筋の光が差し込んでくるようだった。
顔を覗き込まれている気配。
もしかしてこの人、キラキラした人なのかな。闇夜に煌々と浮かぶ、月みたいに。
こんなに近くに、あったんだ。
「うれ、し……い」
ぱちんと、地面を叩く鞭の音。カッポカポと、蹄の音が少々急ぎ足になった。
「イ……リ、ぅ」
ガタガタと揺れる耳朶に、ふいに落ちてきた謎の言葉。
「リ、ゥ……ァ、リ」
繰り返されるそれに、ああ、そういえばまだこの人に名乗ってなかったなと、思って。
「おれ、は、リョウヤだ、よ」
「、ョ……」
「リョ、ウ、ヤ。サカクルガワ、リョウヤ……」
「サ……」
ぶつぶつと、何度かくぐもった声が聞こえる。練習、しているのだろうか。
すうっと息を吸い込んだ音も、聞こえて。
「──ふん。リョウアか。簡単だな」
ぷっと、噴き出してしまった。惜しい。
「違う、よぉ……アじゃなくて、ヤだってばぁ」
くすくすと肩を震わせて笑ってしまった。低くて偉そうな声だっただけに、堂々と言い間違えてしまうのが、あんまりにも面白くて。
「なんでそんな、自信満々でまちがえんの? おっかしーの……ふ、ふふ」
おかしくておかしくて、ふにゃふにゃと頬が緩む。こんなにも笑ったのは、久しぶりだ。
「膝、かってぇ、し」
「……それは関係ないだろう」
「さいあく、だよ……もっと、やわらかくして、よ」
「落とすぞ」
「ふ、ふ……ふ」
でも、落としてくるような素振りは見せない。顔は見えないけど、どんな顔をしているのか容易に想像できてしまった。きっと唇をちょっと尖らせて、不貞腐れているようなむすっとした顔をしているに違いない。
それに間違ってはいたけれども、まともに呼んでもらえたことが何よりも嬉しかった。
良夜ではなく、リョウヤを、見つけてくれた。
「ありが、と、……」
あったかい気持ちを伝えたくて、きゅっと手に力をこめる。男の手は少しだけ逡巡するようにぴくりと震え、それでもやっぱりぎこちなく、きゅうと、握り返してくれた。
誰とも知れぬひんやりとした手だったけども、だんだんと自分の熱が移って温かくなってくる。
血潮の通う、生きている人の、手だ。
大きな石に乗り上げてしまったのか、がったんと馬車が揺れた。一瞬浮いた頭が男の膝の妙に柔らかいところに激突して、「……ぐ」と、一段と苦し気な声で男が唸った。
上体を丸めているのか、硬い腹が額に押し付けられる。
不可抗力だとは言え、悪いのは自分だ。
けれどもその痛そうな声も随分と間抜けに聞こえて、また笑ってしまった。
「貴様……何を笑っている」
恨みがましく、睨まれているのだろう。少し子どもっぽい声だ。また、頬が緩む。
「変なやつめ」
変なのはあんただよ、と、言ってやりたい。
それにこの声、やっぱりどこかで聞いたことがあるような、ないような。
相変わらず膝の収まりは悪いけど、ちょっと、ほっとした。
そういえばこの人の名前、知らないや。起きたら聞いてみようかな。でも目が覚めたらこの人、いなくなっちゃうのかな。
できればまた、会いたいな。このまま傍に……いて、ほしいな。
でもそれはちょっと、ワガママすぎるかな。俺なんかの傍にいてくれる人なんて、いないよ、なぁ。
もうそれ以上は、意識を保っていられなかった。
リョウヤが完全に気を失い、眠りの世界へと旅立っても。
家に到着するまでの長い間、アレクシスは握りしめたぬくもりを決して、離さなかった。
それは、わかっているけど。
「かえる、の?」
「そうだ」
いつもどこかに帰りたかった。でも、どこに向かえばいいのかわからなくて。
「帰ったら僕が……僕が起こしてやる、から。だから、さっさと寝ろ」
ぽん、と、どさくさにまぎれて胸を叩かれた。
力加減を間違ったのかちょっと強めだったし、叩いたあとどうしたらいいのかわからないのか、胸の上で手をうろうろとさ迷わせている気配。
結局再びそろっと触れてきたり、またぱっと離れたり、して。
あまりにも不器用な男の声は、ストンと胸に落ちてきた。
苦しくもないのに、心臓をきゅっと掴まれたような気持ちになる。
頑張らなくて、いいのだろうか。
無理も、しなくていいのだろうか。
このまま寝ててもいいのだろうか。休んでてもいいのだろうか。
もう、自分で起きなくてもいいのだろうか。
「ほん、と?」
「だから、嘘をついてなんにな──……」
そうか、そっか。
頑張らなくていいんだ。無理しなくていいんだ。寝てても、休んでてもいいんだ。もう、自分で起きなくてもいいんだ。まっすぐ家に帰るから。
家に着いたらこの人が起こしてくれるから──そっかぁ。
ふっと、体から力が抜ける。まぶたの奥から、道のような、一筋の光が差し込んでくるようだった。
顔を覗き込まれている気配。
もしかしてこの人、キラキラした人なのかな。闇夜に煌々と浮かぶ、月みたいに。
こんなに近くに、あったんだ。
「うれ、し……い」
ぱちんと、地面を叩く鞭の音。カッポカポと、蹄の音が少々急ぎ足になった。
「イ……リ、ぅ」
ガタガタと揺れる耳朶に、ふいに落ちてきた謎の言葉。
「リ、ゥ……ァ、リ」
繰り返されるそれに、ああ、そういえばまだこの人に名乗ってなかったなと、思って。
「おれ、は、リョウヤだ、よ」
「、ョ……」
「リョ、ウ、ヤ。サカクルガワ、リョウヤ……」
「サ……」
ぶつぶつと、何度かくぐもった声が聞こえる。練習、しているのだろうか。
すうっと息を吸い込んだ音も、聞こえて。
「──ふん。リョウアか。簡単だな」
ぷっと、噴き出してしまった。惜しい。
「違う、よぉ……アじゃなくて、ヤだってばぁ」
くすくすと肩を震わせて笑ってしまった。低くて偉そうな声だっただけに、堂々と言い間違えてしまうのが、あんまりにも面白くて。
「なんでそんな、自信満々でまちがえんの? おっかしーの……ふ、ふふ」
おかしくておかしくて、ふにゃふにゃと頬が緩む。こんなにも笑ったのは、久しぶりだ。
「膝、かってぇ、し」
「……それは関係ないだろう」
「さいあく、だよ……もっと、やわらかくして、よ」
「落とすぞ」
「ふ、ふ……ふ」
でも、落としてくるような素振りは見せない。顔は見えないけど、どんな顔をしているのか容易に想像できてしまった。きっと唇をちょっと尖らせて、不貞腐れているようなむすっとした顔をしているに違いない。
それに間違ってはいたけれども、まともに呼んでもらえたことが何よりも嬉しかった。
良夜ではなく、リョウヤを、見つけてくれた。
「ありが、と、……」
あったかい気持ちを伝えたくて、きゅっと手に力をこめる。男の手は少しだけ逡巡するようにぴくりと震え、それでもやっぱりぎこちなく、きゅうと、握り返してくれた。
誰とも知れぬひんやりとした手だったけども、だんだんと自分の熱が移って温かくなってくる。
血潮の通う、生きている人の、手だ。
大きな石に乗り上げてしまったのか、がったんと馬車が揺れた。一瞬浮いた頭が男の膝の妙に柔らかいところに激突して、「……ぐ」と、一段と苦し気な声で男が唸った。
上体を丸めているのか、硬い腹が額に押し付けられる。
不可抗力だとは言え、悪いのは自分だ。
けれどもその痛そうな声も随分と間抜けに聞こえて、また笑ってしまった。
「貴様……何を笑っている」
恨みがましく、睨まれているのだろう。少し子どもっぽい声だ。また、頬が緩む。
「変なやつめ」
変なのはあんただよ、と、言ってやりたい。
それにこの声、やっぱりどこかで聞いたことがあるような、ないような。
相変わらず膝の収まりは悪いけど、ちょっと、ほっとした。
そういえばこの人の名前、知らないや。起きたら聞いてみようかな。でも目が覚めたらこの人、いなくなっちゃうのかな。
できればまた、会いたいな。このまま傍に……いて、ほしいな。
でもそれはちょっと、ワガママすぎるかな。俺なんかの傍にいてくれる人なんて、いないよ、なぁ。
もうそれ以上は、意識を保っていられなかった。
リョウヤが完全に気を失い、眠りの世界へと旅立っても。
家に到着するまでの長い間、アレクシスは握りしめたぬくもりを決して、離さなかった。
18
あなたにおすすめの小説
獣のような男が入浴しているところに落っこちた結果
ひづき
BL
異界に落ちたら、獣のような男が入浴しているところだった。
そのまま美味しく頂かれて、流されるまま愛でられる。
2023/04/06 後日談追加
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる