月に泣く

宝楓カチカ🌹

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前篇

  居場所(3)

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 ──きっと、今の「ここだ」は彷徨う手の行方であって、家の話ではない。
 それは、わかっているけど。
 
「かえる、の?」
「そうだ」

 いつもどこかに帰りたかった。でも、どこに向かえばいいのかわからなくて。

「帰ったら僕が……僕が起こしてやる、から。だから、さっさと寝ろ」

 ぽん、と、どさくさにまぎれて胸を叩かれた。
 力加減を間違ったのかちょっと強めだったし、叩いたあとどうしたらいいのかわからないのか、胸の上で手をうろうろとさ迷わせている気配。
 結局再びそろっと触れてきたり、またぱっと離れたり、して。
 あまりにも不器用な男の声は、ストンと胸に落ちてきた。
 苦しくもないのに、心臓をきゅっと掴まれたような気持ちになる。
 頑張らなくて、いいのだろうか。
 無理も、しなくていいのだろうか。
 このまま寝ててもいいのだろうか。休んでてもいいのだろうか。
 もう、自分で起きなくてもいいのだろうか。

「ほん、と?」
「だから、嘘をついてなんにな──……」

 そうか、そっか。
 頑張らなくていいんだ。無理しなくていいんだ。寝てても、休んでてもいいんだ。もう、自分で起きなくてもいいんだ。まっすぐ家に帰るから。
 家に着いたらこの人が起こしてくれるから──そっかぁ。
 ふっと、体から力が抜ける。まぶたの奥から、道のような、一筋の光が差し込んでくるようだった。
 顔を覗き込まれている気配。
 もしかしてこの人、キラキラした人なのかな。闇夜に煌々と浮かぶ、月みたいに。
 こんなに近くに、あったんだ。

「うれ、し……い」

 ぱちんと、地面を叩く鞭の音。カッポカポと、蹄の音が少々急ぎ足になった。

「イ……リ、ぅ」

 ガタガタと揺れる耳朶に、ふいに落ちてきた謎の言葉。

「リ、ゥ……ァ、リ」

 繰り返されるそれに、ああ、そういえばまだこの人に名乗ってなかったなと、思って。

「おれ、は、リョウヤだ、よ」
「、ョ……」
「リョ、ウ、ヤ。サカクルガワ、リョウヤ……」
「サ……」

 ぶつぶつと、何度かくぐもった声が聞こえる。練習、しているのだろうか。
 すうっと息を吸い込んだ音も、聞こえて。


「──ふん。リョウアか。簡単だな」


 ぷっと、噴き出してしまった。惜しい。

「違う、よぉ……アじゃなくて、ヤだってばぁ」

 くすくすと肩を震わせて笑ってしまった。低くて偉そうな声だっただけに、堂々と言い間違えてしまうのが、あんまりにも面白くて。

「なんでそんな、自信満々でまちがえんの? おっかしーの……ふ、ふふ」

 おかしくておかしくて、ふにゃふにゃと頬が緩む。こんなにも笑ったのは、久しぶりだ。

「膝、かってぇ、し」
「……それは関係ないだろう」
「さいあく、だよ……もっと、やわらかくして、よ」
「落とすぞ」
「ふ、ふ……ふ」

 でも、落としてくるような素振りは見せない。顔は見えないけど、どんな顔をしているのか容易に想像できてしまった。きっと唇をちょっと尖らせて、不貞腐れているようなむすっとした顔をしているに違いない。
 それに間違ってはいたけれども、まともに呼んでもらえたことが何よりも嬉しかった。
 良夜ではなく、リョウヤを、見つけてくれた。

「ありが、と、……」

 あったかい気持ちを伝えたくて、きゅっと手に力をこめる。男の手は少しだけ逡巡するようにぴくりと震え、それでもやっぱりぎこちなく、きゅうと、握り返してくれた。
 誰とも知れぬひんやりとした手だったけども、だんだんと自分の熱が移って温かくなってくる。
 血潮の通う、生きている人の、手だ。
 大きな石に乗り上げてしまったのか、がったんと馬車が揺れた。一瞬浮いた頭が男の膝の妙に柔らかいところに激突して、「……ぐ」と、一段と苦し気な声で男が唸った。
 上体を丸めているのか、硬い腹が額に押し付けられる。
 不可抗力だとは言え、悪いのは自分だ。
 けれどもその痛そうな声も随分と間抜けに聞こえて、また笑ってしまった。

「貴様……何を笑っている」

 恨みがましく、睨まれているのだろう。少し子どもっぽい声だ。また、頬が緩む。

「変なやつめ」

 変なのはあんただよ、と、言ってやりたい。
 それにこの声、やっぱりどこかで聞いたことがあるような、ないような。
 相変わらず膝の収まりは悪いけど、ちょっと、ほっとした。
 そういえばこの人の名前、知らないや。起きたら聞いてみようかな。でも目が覚めたらこの人、いなくなっちゃうのかな。
 できればまた、会いたいな。このまま傍に……いて、ほしいな。
 でもそれはちょっと、ワガママすぎるかな。俺なんかの傍にいてくれる人なんて、いないよ、なぁ。

 もうそれ以上は、意識を保っていられなかった。




 リョウヤが完全に気を失い、眠りの世界へと旅立っても。
 家に到着するまでの長い間、アレクシスは握りしめたぬくもりを決して、離さなかった。




 





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