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前篇
43.あふるる理由(1)
しおりを挟む邪魔だと思って、手袋を抜き取っていた。無意識だった。
初めて直に触れた肌はとてもとても柔らかくて。初めて舌で味わった肌は、中は、痺れるほどに甘くて。
口に吐き出されたものは最悪な味だったが、それでも、躊躇なく飲めてしまえたことに驚いた。
引き寄せられた薄い胸元。ぎゅうっと力強く抱きしめてきた、細い腕。
額を押し当てた胸からとくとくと聞こえてきたリョウヤの音に。
心の奥から溢れてきたあたたかな何かの正体が、まだ、掴めずにいる。
* * *
御者が飛ばしてくれたおかげで、日が暮れる前に館には到着できた。
腕の中のリョウヤは意識があるのかないのか、小刻みに震え、呼吸も乱れている。
いつものように大勢で出迎えた使用人たちを素通りし、玄関ホールまで早足で駆け込む。自らのコートで包み込んだリョウヤを抱きかかえて帰宅した主人に、使用人たちは呆気にとられた顔をしていた。
「おい、クレマンはいるか」
「ここでございますよ、旦那様」
するっと登場したクレマンは、アレクシスの腕の中でぐったりとしているリョウヤにまず視線を向けた。
「……奥様はどうなさったのですか?」
すっと目を細めたクレマン。言外に今度は何をやらかしたんですかと責められている。もちろん、堂々と何もしていない……とは言い切れないが、今の優先事項はそれではない。
とりあえず、自分がしでかしたことは置いておく。
「熱が出た。休ませる」
「そうでございましたか、ではお薬を用意させて頂きます。着替えの準備も」
「ああ、頼む。あとは医者にも連絡しろ……出血、している」
「どこがですか?」
「……下半身だ」
「……承知いたしました」
言いたいことは山ほどあるのだろうが、急いだほうがいいと、てきぱきと指示し始めたクレマンに後は任せることとし、リョウヤを抱えたまま玄関ホールを進む。
「旦那様、奥様はわたくし共がお運びいたします」
「いい。僕が運ぶ」
「……は?」
弱ったリョウヤを受け取ろうとした使用人たちが目を見張り、互いに顔を見合わせた。
「おまえたちは、クレマンの指示に従って治療の準備をしておけ」
少し前までのアレクシスならば、リョウヤを「適当に休ませておけ」とメイドの1人にでも放り投げていたことだろう。自分でもそれがわかっていただけに、まさに天変地異かとばかりにざわざわし始めた周囲を諫めることもできず、再度準備をするよう伝えて背を向ける。
「……う、」
リョウヤが腕の中で、苦しそうに身じろぎをした。てっきり目が覚めたのかと思ったが、そのまぶたはぎゅっと閉じられたままだ。
呼吸音は乱れていてはふはふと湯気のように熱いし、痰の絡んだ咳だって零れている。コート越しからでも、体の熱さが伝わってくるほどだ。
ぼうっと突っ立っている場合ではない、早く寝かせる必要がある。
リョウヤを落とさぬようしっかりと抱え直すと、衝撃が伝わらないよう慎重に、しかし4階まで休むことなく駆け上がる。
今はただ、これまで気にも留めていなかったリョウヤの軽さが、腕に異様に重かった。
* * *
半開きになっていた扉を足でこじ開ける。
リョウヤが起きていれば、「あんたさ、その足癖なんとかしろよ!」と小言を言われていたに違いない。
ベッドまで一直線に進む。多少薄暗いが、明かりがなくとも転ぶ心配はない。なにしろリョウヤが、部屋の中にあった調度品や家具類を、何から何まで外に出してしまったからだ。
まず、リョウヤを広いベッドにそっと横たわらせた。ベッドはあまり軋まない。それほどまでにリョウヤが細いのだ。
服はアレクシスが怒りに任せてびりびりに破いてしまったので、コートの下は裸同然だった。汗でべっとりと張り付いたコートは、脱がし辛かった。
だが、コートをなんとか脱がせ終わったところで、次の動作に以降することができずに止まる。
何しろ看病されたことはあるが、誰かの看病などしたことがなかったのである。
悲しいかな、アレクシスは典型的なお坊ちゃんだった。
一体、何をどうすればいいのやら。とりあえずメイドたちが新しい服を持ってくるのを待てばいいのか。いや、熱があるのだからまずは体を冷やす必要がある。だがしかし水はまだ用意されていない。汗と、下肢の血を拭うタオルすらもだ。ぐるりと周囲を見渡しても、この部屋はあまりにも殺風景で、絨毯も無ければカーテンすら取り外されている。リョウヤが外した。
ただ、直ぐにでもリョウヤを横たわらせなければと、それだけを考えて部屋に連れて来てしまった。
援護部隊という名の使用人たちはまだ来ない。水を冷やしたりお湯を沸かしたりとてんやわんやなのだろう。どうしたものかと部屋の中をうろうろと右往左往し、最終的には、廊下に放り出されていた椅子をずりずりと部屋に持ってきて、寝そべるリョウヤの隣に置き、腰を降ろした。
赤い顔を、上からのぞきこむ。
そういえば、着いたら起こしてやると言っていたな。
正直、この状態のリョウヤに声をかけていいものかと迷いはしたが。
「お……い、着いたぞ」
静かに呼びかけただけだというのに、ふるりと、リョウヤのまつ毛が震えた。うっすらと、濡れた黒い瞳が瞬く。不思議そうにこちらを見上げたリョウヤは、目をきゅ、ぎゅう、とつぶってから、もう一度押し開いた。
ぼんやりとしていた焦点が徐々に定まり、アレクシスをはっきりと捉える。
「着いたが」
それ以外に何を言えばいいのか、さっぱりわからない。
なので、とりあえず同じ言葉を口にした。
「や、……っぱ、り、きらきら、じゃん……」
「……なにがだ?」
「こんな、に、近かったん……だ」
アレクシスにはさっぱりだが、リョウヤの中では話が繋がっているらしい。リョウヤはふらりと、視線だけで周囲を見渡した。
ここに到着するまでも言動はだいぶ虚ろだった。
ここが自分の部屋だと、認識しているのかいないのか。
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