月に泣く

宝楓カチカ🌹

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前篇

  あふるる理由(2)

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「ここ、ど、こ」
「おまえの部屋だ」
「へ、や……?」
「ああ」
「俺、の?」
「そうだ」

 そっかぁ、とリョウヤは緩慢な動作で頷いて、ふっと落ちるように目を閉じた。一生懸命押し開こうとぷるぷる震えはしているものの、まぶたは酷く重そうだ。
 起きているのも、辛いのだろう。

『うれ、し……い』

 馬車の中で、零れるようにささやいたリョウヤ。猫のように吊り上がっていた眦が、あれほどまでに柔らかくたゆむとは、知らなかった。

 ここでさっさと寝ろと切り捨てるのは、違う気がする。

 口を開く代わりに、汗でべったりと張り付いている前髪をよけてやり、そろそろと、手のひらを濡れた額に乗せてみた。慣れない行動だったので多少はぎこちなくはなってしまったが、無いよりはいいだろう。
 冷たくて気持ちがいいと、本人が言っていたのだから。
 すると、苦し気に顔を歪めていたリョウヤが、ほうっと息を吐いた。硬かった表情も、少しだけほぐれているような気がする。
 アレクシスの方が、安堵した。

「ね、え」
「なんだ」

 リョウヤはまだ話し足りないのか、再び目を開けた。天井を見つめながらふらふらと揺れる瞳は、何かを探しているようにも見えた。
 額に置いていた手を頬に移せば、リョウヤがアレクシスに視線を戻し、眩しそうに目を細めた。

「ま……だ、いん、の? ここ……」
「──ここは僕の家だぞ。この部屋にいて何が悪い」

 強く言い返してしまったのは、てっきり、部屋を出ていけと言われたのかと思ったからだ。
 しかしふんわりとリョウヤの唇が緩んだことで、それが勘違いであったことに気付く。
 
「やっぱ、えら、そー……」

 何がおかしいのか、リョウヤがふ、と薄く笑った。馬車の中で見たものとかなり近いそれに、また言葉が何も出てこなくなる。
 熱が出るとやたらと笑うようになるのだろうか。それとも熱が出ていることで緊張がほぐれ、本来のリョウヤの姿が表に出ているのか。
 ──こんな笑い方をするとは、知らなかった。
 初めてリョウヤの笑みを見た瞬間、思わず声を失った。今もだ。この柔らかな表情から、視線が縫い付けられたように離せない。

 最近は、リョウヤと極力距離を置くようにしていた。
 リョウヤを一秒でも、視界に入れたくなかった。

 リョウヤの真っすぐな目を見ていると、悶々と胸に巣食っている、畏れとは違う不鮮明な形の何かが、溢れ出してしまいそうになる。しかも一度溢れてしまえば、きっと止まることはないだろうという確信もあった。
 無意識のうちに手を伸ばしそうになる。他でもないリョウヤに。
 それはあまりにも不可解すぎる衝動だった。なぜこの自分が、薄汚い稀人などに手を伸ばしたいと思うのか。リョウヤのか細い腕を、指が食い込むまで掴んでみたいと思うのか。

『稀人なんて卑しくて汚らわしい存在だわ。人間に媚びを売ることしかできない、この世の害よ』

 母親がそう称していた稀人ごときに。なぜ、ふと気を抜いた瞬間、その薄く開いた唇を目で追いかけてしまうのか。

 だから、リョウヤを寝室に呼び出すのを止めた。もちろん孕ませるためには、リョウヤに種を仕込むことは必要事項だ。けれどもできなかった。

 もちろん、毎晩毎晩リョウヤを相手にしていたのだ。成人した男として性欲は溜まる。馴染みの娼館には一度足を運んだが、気が乗らずに引き返してしまった。だというのに、「奥様は、よくお眠りになられているようです」と報告を受けるたび、胸の奥深くで燻る未知なる衝動が、苛立ちの鎌首をもたげさせた。
 徹底的に抱き潰してやりたい。けれども触れてしまえば、不鮮明な何かが形になってしまう。知りたいはずなのに、知りたくないとも、思う。
 相反する気持ちを、アレクシスは長らく持て余していた。

 きっかけはなんだったのか。

 何事もなかったかのような顔でマティアスと戯れているリョウヤの姿に、だったのか。出会ったばかりの稀人と、彼らだけが知る言語で楽しそうに会話をするリョウヤの姿に、だったのか。
 きゅっと手を握りしめられたぐらいで、頬を林檎のように赤らめ、はにかんだリョウヤにだったのだろうか。
 あんな表情、アレクシスの前で見せたことなど一度もなかった。
 きっと、全てにだったのだろう。
 特にぷつんと、頭の中の血管が切れたかと思ったのは、あの一言だ。

『俺はただ、あんたのことを死ぬまで嫌うだけだ……!』

 あの瞬間のリョウヤは、アレクシスの全てを拒絶していた。
 ぐつぐつと、時間をかけて煮え滾っていた怒りが、一息に噴き出た瞬間だった。憤怒のあまり我を忘れたことも、初めてだった。
 
『おまえは、僕のものだろうが……!!』

 あのシュウイチとかいう稀人の男は、大してリョウヤを知らないくせに、全てわかっているとでもいうような顔でリョウヤを懐柔しようとしていた。
 しかも我が物顔で。リョウヤはアレクシスが買った、アレクシスの所有物だ──僕のものだと、いうのに。

『俺のこと、や、優しいって言って、くれたんだ』

 アレクシスがリョウヤの優しさとやらを認められないでいるうちに。あの男は、あの何を考えているのかわからない腹黒そうな稀人は、リョウヤのことを……優しい、と。
 許せなかった。

『約束って……また、会おうねって』

 アレクシスだとてリョウヤと約束をした。素直に足を開くから自由をくれと交渉され、リョウヤが跡継ぎを産めば直ぐに解放してやると約束をしてやった。
 リョウヤを解放するということは、リョウヤがアレクシスの元から居なくなるということだ。だというのにシュウイチとは再会の約束をしただと? 月の向こう側だのなんだのと、アレクシスの元から去る日が待ち遠しくてたまらないとばかりに、嬉しそうに、花がほころぶように笑って。
 馬車を走らせ、ホテルに連れ込み、押し倒すまで。
 どろどろとした感情が吹き荒れて視界が不明瞭となり、自らが作り上げた嵐に吞まれているようだった。

 けれども。

『あんた、自分をあっためる方法、知らねーんだ、ろ……?』

 その一言に、目を見張るまでもなく目の前の靄が、晴れた。


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