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第1章 大賢者様の秘書になりました
29.垂直落下はお断り
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コンコン、と突然のノックの音に、レッスン中だった女性3人は顔を見合わせた。
焔さんが異世界へ本の調達に行っている今日、いつも通り淑女のマナー講座中の出来事である。
今まで、この時間に誰かが尋ねてきたことなどない。
まっすぐ綺麗に歩く練習をしていた私は、頭の上の本を下ろして胸元に抱えた。
シャーロットとグレアと目が合うけれど、どちらも不思議そうな顔をしている。
コンコン。
再び音がして、ドアの向こうから控えめな声が聞こえてきた。
「お取り込み中大変申し訳御座いません。ロイアー副館長へ、王城より至急の知らせが御座います」
「王城からの知らせですって?」
シャーロットは「ちょっとごめんなさい」と断りを入れて、早足で扉へ向かった。
「今開けますわ」
扉を開けた先にいたのは、困り顔をした青年騎士だった。
騎士に差し出された手紙に視線を落としたシャーロットは、しばらくしてくしゃりと手紙を握りしめる。
「頂いた件、承知いたしましたわ。陛下にも、すぐに確認致しますとお返事を」
「承りました。それでは失礼します」
慌ただしく去って行く騎士の背を見送り扉を閉めると、シャーロットは盛大に溜息を吐いてこめかみをぐりぐりと押さえた。
「……どうしてこう、最近は厄介ごとが多いのかしら……」
「シャーロット、大丈夫? 紅茶飲む?」
「ありがとうございますリリー。でもごめんなさい、急ぎでこなさないといけない仕事ができまして……。グレア様、残りの授業、お任せしてもよろしいでしょうか?」
「大丈夫よ。無理しないでね、シャーロット」
「ありがとうございます。それでは、失礼いたしますわね」
シャーロットは丁寧に一礼すると、ささっと荷物をまとめて部屋を出て行ってしまう。
残されたグレアと私は少しだけお茶で休憩して、時間いっぱいまでその日の授業を続けた。
――結局、王城からの仕事ってなんだったんだろう。
昼になり、店へと帰るグレアをリブラリカの玄関口まで見送った後。
ぼんやりそんなことを考えながら、アルトが待っているであろう授業用の部屋へ戻ろうと、廊下を歩いていた時だ。
「――――」
ん?
半分吹き抜けになった渡り廊下で、風に乗ってきた何かが軽く耳を掠めた気がした。
足を止めてキョロキョロと回りを見回すけれど、見える範囲の中庭にも廊下にも、人の姿はない。
気のせいかな、なんて再び一歩、歩き出した時。
「わあ――っ」
「!」
ほんの微かだったけれど、誰かの焦ったような叫び声が、微かに聞こえた。
ここは職員しか入れない場所だけど、中庭のほうは一般開放されている区画と繋がっているから、たまに子供が入り込むこともあると聞いている。
周りには誰もいないし、もし子供が入り込んでいて怪我でもしていたら大変だ。
廊下を逸れて、声がしたはずの中庭へと小走りに向かう。今日は晴れているけれど、少しだけ風が肌寒い。
綺麗に整えられた中庭は、腰の辺りまである生け垣や花壇などもあって、あまり見通しが良くない。
「……あの!誰かいますか?」
思い切って声を出してみるけれど、特に返ってくる声はない。
もう少し、奥の方だったかな?
サクサクと気持ちのいい音を立てる下草を踏みながら、もう少しだけ奥を覗いてみようと、生け垣をひとつ回り込んだ時だった。
「……あれ?」
緑一色のはずの地面に、赤い色が広がっている。
建物沿いの生け垣の下、半ば埋もれるようにして、赤い布がくしゃくしゃになって落ちているようだった。
そしてなぜかその布の上に、ほわんほわんと本の妖精、フィイが一匹浮いている。
「フィイ?え、どうしてこんなところに……」
最奥禁書領域以外で見たことのないフィイの姿に、思わず手を伸ばす。
白いふわふわは抵抗もなく、ふよんふよんと漂ってきて腕にすっぽりと収まった。
「えっと、こっちは……?」
そのまましゃがみ込んで足下の赤い布にそっと触れてみる。土と草まみれでくしゃくしゃになってしまっているけれど、なんとなく上等で厚地の生地でできているらしい。
そっと引っ張ってみると、赤い布のフチには金の飾りまでついていた。
……これどこかで、見たことがあるような?
「うーん、どこで見たんだっけ……」
腕にすり寄るフィイをもしゃもしゃとかき回すように撫でながら立ち上がる。
がざりと、背後の茂みが音を立てたのはその時だった。
「?!」
驚いてばっと振り返ると、さらに数度、がさがさと音がして、揺れる茂みからぴょこんと小柄で青いウサギが跳びだしてきた。
「わっ……ってなんだ、ビッツシーか」
悪戯好きの妖精。確か、前にお茶会でオリバーに聞いた時には……遭遇したら、とんでもない目に遭うけれど、その後に幸せがやってくるはた迷惑な幸せウサギだって……。
そこまで思い出して、ふと気づいた。
今、傍にはアルトがいない。自分の腕の中にはフィイが収まっている。
遭遇したら、とんでもない目に遭う、妖精。
「きゅいいい?」
可愛らしくビッツシーが首を傾げる姿に、少し前の初遭遇の記憶が重なった。
無意識に、たじ、と一歩、後ろに下がる。
「……待って待って。いやここ、最奥禁書領域じゃないし、屋外だから……」
「きゅい?」
「まさかね?前みたいなことしないよね?……えっと、ほら、何もしないからあっちいって……」
ふんふんと鼻を動かす姿は大変愛らしいのだけど、そんな姿に和む余裕もなく、背中を冷たいものが伝っていく。
ビッツシーが一歩こちらに近づいて、反射的にびくりと飛び上がった。
「うあぁ……えっと、うん、あの、大丈夫だから、ほんと……私、あっちいくから。ね?」
「きゅい?」
じりじりと、横移動。そうだ、背後は建物しかないんだから、来た道を戻るしかない。
……一歩。
また、一歩。
じりじりと距離が開いていくけれど、緊張しすぎて心臓がばくばくいっている。
また一歩、と足を動かした時、柔らかいもの踏んだ感触に、思わず足下を確認してしまった。
「きゅいいいいいいいいい!」
「わああ!」
視線が外れた瞬間、甲高く鳴いたビッツシーが弾丸のようなスピードでこちらに突っ込んできた。
ぶ、ぶつかる!!
咄嗟に片腕で顔を庇うと、その腕に柔らかい塊が勢いよく当たる感触。
さらにその腕ががつっと眼鏡に当たって、鼻頭がずきっと痛んだ。
腕1本でその勢いを殺せるわけもなく、押された私の身体が揺らぎ、柔らかいもの――赤い布を踏んでしまっていた足が、盛大に滑った。
身体が、背中から思い切り倒れていく。
「うそっ!」
咄嗟に壁やら生け垣やらにぶつかるのを覚悟して、ぎゅっと目を瞑った――のだが。
なぜか背中にもお尻にも、覚悟した衝撃はやってこない。
その代わりのように、途方もない浮遊感があって、慌てて目を開けた。
「……は?!」
遙か頭上に、丸く見える空がどんどん遠ざかっていく。
フィイを抱えた私の身体は、真っ暗な穴のようなところを、背中から真っ逆さまに落下していた。
「……っいやああああああ!!!!」
胃の辺りが浮くような、気持ちの悪い感覚。
絶叫しながら落ちていく以外に、何もできることはなかった。
「……あん?」
昼を告げる鐘が遠くに聞こえる頃。
梨里の迎えのため面談室で丸くなっていたアルトは、突然違和感を感じて身体を起こした。
全身がぞわりとして、今まで感じていた梨里の気配がふつりと途切れる。
「?」
梨里を感じられなくなるのは、彼女と自分のいる世界が異なった時だけのはずだ。
だが梨里は、つい一瞬前までリブラリカ館内を歩いているようだった。
彼女が元の世界に帰ったならば、存在が感じられなくなってもおかしくはないけれど――そのためには、確実に最奥禁書領域にあるあの小部屋の扉を使わなければならない。
しかし梨里の存在は、この部屋へ来るまでの道中でふつりと消えた。
「なんだなんだ、何が起きた」
ぴくぴくとひげを揺らして、すぐに彼女の探知を始める。
リブラリカの図書館内に、微かな反応はあるが……はっきりしない。
ゆらゆらと揺らぐような、何かに邪魔されているような気配。
その感覚にはっと気づくものがあって、アルトは舌打ちをした。
「あの阿呆……!」
この反応……、多分何かの理由で、最奥禁書領域の次元の境目に落っこちたのだろう。
「よりによって、イグニスがいない時に……!」
この微か過ぎる反応から見るに、梨里はだいぶ奥深くまで落ちていったらしい。
最奥禁書領域は、次元を歪めた迷路の様な空間だ。
もしもイグニスが半端にしか手をつけていないような奥底に迷い込めば、そうそう出てはこれない。
そして、次元が歪んでいるということは、世界としても同じ軸上にあるかどうかが曖昧になってくるもの。
すうっと手足の先が冷えるような感覚は、アルト自身が存在するためのマナの供給が極端に薄くなった影響だ。
アルトはイグニスの使い魔だから、イグニスが別の世界へ出向いている今、ブレスレットの核石によって仮の主と定めた梨里まで存在が遠くなってしまえば、アルトの具現化に必要なマナが足りなくなってしまう。
アルトは急いで最奥禁書領域へと飛び込むと、梨里の居場所を探して走り始めた。
「おい!お前達も手伝え!!」
書棚の間を駆けながら、見かけたフィイ達に怒鳴り、さらに弱り続ける力でイグニスへと呼びかけ続ける。
(イグニス!!おい!!大変だ、早く戻ってこい……!)
「……へ?」
ある熱い砂の国で、露天に出ている本を手に取っていた焔は、ふと弱い魔力を感じて顔を上げた。
キョロキョロと周りを見渡しても、マーケットには魔力を持つ者の反応はない。
変だな、と首を傾げながら本を露台へと戻した時。
キンと小さな音が、焔の耳にだけ届いた。
「なんだ?」
あまり治安の良くない国で、目立つ行動はしたくない。
露天を離れ、するすると薄暗い路地へと移動し胸元を探ると、小さなマナの波動を感じた。
弱々しくマナの力が脈打っていたのは、自分のマナジェムと、もう一つ。
「……!」
それに気づいた途端、荷物を背負い直して、ゲートまで走り出した。
小さく、気づくかわからないほど微かに震えていたのは、あの日梨里からもらった青い宝石のブックマーカー。
――きっと、何かあったんだ。
たどり着いたゲートである扉を荒っぽく開けて飛び込んで、最奥禁書領域へと足を踏み入れる。
ぐらりと一瞬気持ち悪さを感じたのは、きっとここの次元に何かの揺らぎが起きていたからだ。
持っていた荷物を床に放り投げて、使い魔の名を強く呼ぶ。
「アルトっ!」
自分で思っていたよりずっと焦った大きな声が唇から飛び出して、少し驚いた。
どうやら自分は今、冷静ではないらしい。
呼ぶ声に応えるように、アルトの声が奥の方から返ってきた。
「イグニス!リリーが落ちた!!!」
そうか、それで次元が揺れていたのか……!
マナが鮮やかな紅い光の粒になって、焔の全身をぶわりと包み込む。
「探せ!」
梨里は本当に、落ちやすい体質らしい。
アルトに短く怒鳴り返して、広大なこの次元の海で一つの反応を探し始める。
近い場所にはいない。どんどん範囲を広げ深いところまで探索を伸ばす度に焦りが募っていく。
早く――早く見つけてやらないと。
自分らしくもなく冷静になれないのは何故なのか。
苛立たしく舌打ちをして、焔はすっと瞳を細めた。
焔さんが異世界へ本の調達に行っている今日、いつも通り淑女のマナー講座中の出来事である。
今まで、この時間に誰かが尋ねてきたことなどない。
まっすぐ綺麗に歩く練習をしていた私は、頭の上の本を下ろして胸元に抱えた。
シャーロットとグレアと目が合うけれど、どちらも不思議そうな顔をしている。
コンコン。
再び音がして、ドアの向こうから控えめな声が聞こえてきた。
「お取り込み中大変申し訳御座いません。ロイアー副館長へ、王城より至急の知らせが御座います」
「王城からの知らせですって?」
シャーロットは「ちょっとごめんなさい」と断りを入れて、早足で扉へ向かった。
「今開けますわ」
扉を開けた先にいたのは、困り顔をした青年騎士だった。
騎士に差し出された手紙に視線を落としたシャーロットは、しばらくしてくしゃりと手紙を握りしめる。
「頂いた件、承知いたしましたわ。陛下にも、すぐに確認致しますとお返事を」
「承りました。それでは失礼します」
慌ただしく去って行く騎士の背を見送り扉を閉めると、シャーロットは盛大に溜息を吐いてこめかみをぐりぐりと押さえた。
「……どうしてこう、最近は厄介ごとが多いのかしら……」
「シャーロット、大丈夫? 紅茶飲む?」
「ありがとうございますリリー。でもごめんなさい、急ぎでこなさないといけない仕事ができまして……。グレア様、残りの授業、お任せしてもよろしいでしょうか?」
「大丈夫よ。無理しないでね、シャーロット」
「ありがとうございます。それでは、失礼いたしますわね」
シャーロットは丁寧に一礼すると、ささっと荷物をまとめて部屋を出て行ってしまう。
残されたグレアと私は少しだけお茶で休憩して、時間いっぱいまでその日の授業を続けた。
――結局、王城からの仕事ってなんだったんだろう。
昼になり、店へと帰るグレアをリブラリカの玄関口まで見送った後。
ぼんやりそんなことを考えながら、アルトが待っているであろう授業用の部屋へ戻ろうと、廊下を歩いていた時だ。
「――――」
ん?
半分吹き抜けになった渡り廊下で、風に乗ってきた何かが軽く耳を掠めた気がした。
足を止めてキョロキョロと回りを見回すけれど、見える範囲の中庭にも廊下にも、人の姿はない。
気のせいかな、なんて再び一歩、歩き出した時。
「わあ――っ」
「!」
ほんの微かだったけれど、誰かの焦ったような叫び声が、微かに聞こえた。
ここは職員しか入れない場所だけど、中庭のほうは一般開放されている区画と繋がっているから、たまに子供が入り込むこともあると聞いている。
周りには誰もいないし、もし子供が入り込んでいて怪我でもしていたら大変だ。
廊下を逸れて、声がしたはずの中庭へと小走りに向かう。今日は晴れているけれど、少しだけ風が肌寒い。
綺麗に整えられた中庭は、腰の辺りまである生け垣や花壇などもあって、あまり見通しが良くない。
「……あの!誰かいますか?」
思い切って声を出してみるけれど、特に返ってくる声はない。
もう少し、奥の方だったかな?
サクサクと気持ちのいい音を立てる下草を踏みながら、もう少しだけ奥を覗いてみようと、生け垣をひとつ回り込んだ時だった。
「……あれ?」
緑一色のはずの地面に、赤い色が広がっている。
建物沿いの生け垣の下、半ば埋もれるようにして、赤い布がくしゃくしゃになって落ちているようだった。
そしてなぜかその布の上に、ほわんほわんと本の妖精、フィイが一匹浮いている。
「フィイ?え、どうしてこんなところに……」
最奥禁書領域以外で見たことのないフィイの姿に、思わず手を伸ばす。
白いふわふわは抵抗もなく、ふよんふよんと漂ってきて腕にすっぽりと収まった。
「えっと、こっちは……?」
そのまましゃがみ込んで足下の赤い布にそっと触れてみる。土と草まみれでくしゃくしゃになってしまっているけれど、なんとなく上等で厚地の生地でできているらしい。
そっと引っ張ってみると、赤い布のフチには金の飾りまでついていた。
……これどこかで、見たことがあるような?
「うーん、どこで見たんだっけ……」
腕にすり寄るフィイをもしゃもしゃとかき回すように撫でながら立ち上がる。
がざりと、背後の茂みが音を立てたのはその時だった。
「?!」
驚いてばっと振り返ると、さらに数度、がさがさと音がして、揺れる茂みからぴょこんと小柄で青いウサギが跳びだしてきた。
「わっ……ってなんだ、ビッツシーか」
悪戯好きの妖精。確か、前にお茶会でオリバーに聞いた時には……遭遇したら、とんでもない目に遭うけれど、その後に幸せがやってくるはた迷惑な幸せウサギだって……。
そこまで思い出して、ふと気づいた。
今、傍にはアルトがいない。自分の腕の中にはフィイが収まっている。
遭遇したら、とんでもない目に遭う、妖精。
「きゅいいい?」
可愛らしくビッツシーが首を傾げる姿に、少し前の初遭遇の記憶が重なった。
無意識に、たじ、と一歩、後ろに下がる。
「……待って待って。いやここ、最奥禁書領域じゃないし、屋外だから……」
「きゅい?」
「まさかね?前みたいなことしないよね?……えっと、ほら、何もしないからあっちいって……」
ふんふんと鼻を動かす姿は大変愛らしいのだけど、そんな姿に和む余裕もなく、背中を冷たいものが伝っていく。
ビッツシーが一歩こちらに近づいて、反射的にびくりと飛び上がった。
「うあぁ……えっと、うん、あの、大丈夫だから、ほんと……私、あっちいくから。ね?」
「きゅい?」
じりじりと、横移動。そうだ、背後は建物しかないんだから、来た道を戻るしかない。
……一歩。
また、一歩。
じりじりと距離が開いていくけれど、緊張しすぎて心臓がばくばくいっている。
また一歩、と足を動かした時、柔らかいもの踏んだ感触に、思わず足下を確認してしまった。
「きゅいいいいいいいいい!」
「わああ!」
視線が外れた瞬間、甲高く鳴いたビッツシーが弾丸のようなスピードでこちらに突っ込んできた。
ぶ、ぶつかる!!
咄嗟に片腕で顔を庇うと、その腕に柔らかい塊が勢いよく当たる感触。
さらにその腕ががつっと眼鏡に当たって、鼻頭がずきっと痛んだ。
腕1本でその勢いを殺せるわけもなく、押された私の身体が揺らぎ、柔らかいもの――赤い布を踏んでしまっていた足が、盛大に滑った。
身体が、背中から思い切り倒れていく。
「うそっ!」
咄嗟に壁やら生け垣やらにぶつかるのを覚悟して、ぎゅっと目を瞑った――のだが。
なぜか背中にもお尻にも、覚悟した衝撃はやってこない。
その代わりのように、途方もない浮遊感があって、慌てて目を開けた。
「……は?!」
遙か頭上に、丸く見える空がどんどん遠ざかっていく。
フィイを抱えた私の身体は、真っ暗な穴のようなところを、背中から真っ逆さまに落下していた。
「……っいやああああああ!!!!」
胃の辺りが浮くような、気持ちの悪い感覚。
絶叫しながら落ちていく以外に、何もできることはなかった。
「……あん?」
昼を告げる鐘が遠くに聞こえる頃。
梨里の迎えのため面談室で丸くなっていたアルトは、突然違和感を感じて身体を起こした。
全身がぞわりとして、今まで感じていた梨里の気配がふつりと途切れる。
「?」
梨里を感じられなくなるのは、彼女と自分のいる世界が異なった時だけのはずだ。
だが梨里は、つい一瞬前までリブラリカ館内を歩いているようだった。
彼女が元の世界に帰ったならば、存在が感じられなくなってもおかしくはないけれど――そのためには、確実に最奥禁書領域にあるあの小部屋の扉を使わなければならない。
しかし梨里の存在は、この部屋へ来るまでの道中でふつりと消えた。
「なんだなんだ、何が起きた」
ぴくぴくとひげを揺らして、すぐに彼女の探知を始める。
リブラリカの図書館内に、微かな反応はあるが……はっきりしない。
ゆらゆらと揺らぐような、何かに邪魔されているような気配。
その感覚にはっと気づくものがあって、アルトは舌打ちをした。
「あの阿呆……!」
この反応……、多分何かの理由で、最奥禁書領域の次元の境目に落っこちたのだろう。
「よりによって、イグニスがいない時に……!」
この微か過ぎる反応から見るに、梨里はだいぶ奥深くまで落ちていったらしい。
最奥禁書領域は、次元を歪めた迷路の様な空間だ。
もしもイグニスが半端にしか手をつけていないような奥底に迷い込めば、そうそう出てはこれない。
そして、次元が歪んでいるということは、世界としても同じ軸上にあるかどうかが曖昧になってくるもの。
すうっと手足の先が冷えるような感覚は、アルト自身が存在するためのマナの供給が極端に薄くなった影響だ。
アルトはイグニスの使い魔だから、イグニスが別の世界へ出向いている今、ブレスレットの核石によって仮の主と定めた梨里まで存在が遠くなってしまえば、アルトの具現化に必要なマナが足りなくなってしまう。
アルトは急いで最奥禁書領域へと飛び込むと、梨里の居場所を探して走り始めた。
「おい!お前達も手伝え!!」
書棚の間を駆けながら、見かけたフィイ達に怒鳴り、さらに弱り続ける力でイグニスへと呼びかけ続ける。
(イグニス!!おい!!大変だ、早く戻ってこい……!)
「……へ?」
ある熱い砂の国で、露天に出ている本を手に取っていた焔は、ふと弱い魔力を感じて顔を上げた。
キョロキョロと周りを見渡しても、マーケットには魔力を持つ者の反応はない。
変だな、と首を傾げながら本を露台へと戻した時。
キンと小さな音が、焔の耳にだけ届いた。
「なんだ?」
あまり治安の良くない国で、目立つ行動はしたくない。
露天を離れ、するすると薄暗い路地へと移動し胸元を探ると、小さなマナの波動を感じた。
弱々しくマナの力が脈打っていたのは、自分のマナジェムと、もう一つ。
「……!」
それに気づいた途端、荷物を背負い直して、ゲートまで走り出した。
小さく、気づくかわからないほど微かに震えていたのは、あの日梨里からもらった青い宝石のブックマーカー。
――きっと、何かあったんだ。
たどり着いたゲートである扉を荒っぽく開けて飛び込んで、最奥禁書領域へと足を踏み入れる。
ぐらりと一瞬気持ち悪さを感じたのは、きっとここの次元に何かの揺らぎが起きていたからだ。
持っていた荷物を床に放り投げて、使い魔の名を強く呼ぶ。
「アルトっ!」
自分で思っていたよりずっと焦った大きな声が唇から飛び出して、少し驚いた。
どうやら自分は今、冷静ではないらしい。
呼ぶ声に応えるように、アルトの声が奥の方から返ってきた。
「イグニス!リリーが落ちた!!!」
そうか、それで次元が揺れていたのか……!
マナが鮮やかな紅い光の粒になって、焔の全身をぶわりと包み込む。
「探せ!」
梨里は本当に、落ちやすい体質らしい。
アルトに短く怒鳴り返して、広大なこの次元の海で一つの反応を探し始める。
近い場所にはいない。どんどん範囲を広げ深いところまで探索を伸ばす度に焦りが募っていく。
早く――早く見つけてやらないと。
自分らしくもなく冷静になれないのは何故なのか。
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