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第1章 大賢者様の秘書になりました
30.迷子、ふたり
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しばらく続いた落下は唐突に終わった。
ぐいんっと身体に衝撃があって、次の瞬間にはどさっと床のような場所に投げ出される。
「いっ……たぁ……」
打ったお尻をさすりながら痛みをやり過ごす。どうやら、地面にぺしゃんこになるような事態は避けられたようでほっとした。
びっくりした心臓が多少落ち着いてくれば、少しは周りを見る余裕も出てくる。
ふわっと頬にすり寄ってきたほわほわのものは、よく見えないけれどフィイだ。きっと抱いたまま落ちてきてしまったのだろう。
自分以外の温かさを感じると、ひとりじゃないという安心感に冷静さも戻ってくる。
真っ暗に見えた周囲にも次第に目が慣れてきて、ぼんやりした弱い青緑色の光が見えるようになってきた。
目が慣れても薄暗い。そもそもここには、正体不明の青緑の光以外に光源がないようだ。
足下付近にだけ漂うように揺れる光に、無造作に積み上げられた本のようなものがうっすら見えている。
そっと床を手探りすれば、冷たくなめらかな石の床に、いくつも四角くて重いものが指先にぶつかった。
そのうちの一冊に微かに指先に触れた瞬間、指先が熱いものにでも触ったかのように痛んで、小さな悲鳴を上げて手を引っ込めた。
「何、今の……」
フィイを抱いて、静かに立ち上がる。ずきっと少しだけ右足が痛んで、思わず顔をしかめた。
いつの間にか、捻ってしまったのかもしれない。
先ほどより高くなった視界。先ほどの熱さが怖くて手は伸ばせないけれど、前後は空いた空間になっていて、左右には割と近い位置に壁があるようだった。
少し古くさいような、カビくさいような……それでいて、落ち着かないような、なんとも言えないこの空気。
「ここ……最奥禁書領域の、どこか……なの?」
唇から漏れた息が、ほんのりと白いことにやっと気がついた。それと同時に感じる寒気。
ここは、なんだかすごく寒い。
さすがにこの年になって闇が怖いというわけではないけれど……寒気と、異様な空気を纏ったこの場所は、なんだかすごく恐ろしかった。
心細くてぎゅっと胸元に抱きしめたフィイが、温かい。
「……えっと」
これからどうしよう、と、身体を震わせたその時だった。
「……そこに誰かいる……のか?」
「ひゃあ?!」
突然背後から掛かった声に、大きく飛び上がる。
思わず悲鳴を上げれば、相手も驚いたように小さく声を上げた。
「わっ……そ、その声、女か……。すまない、驚かせてしまって」
男性の声だ。ちょっと気まずそうに、静かに話すまだ若い声。
「その、突然近づいたりするより、先に声を掛けたほうが驚かないかと思ったんだが……。すまなかった。何もしないから、落ち着いてくれ」
「…………は、い」
「今からそっちに行く」
几帳面にそう宣言する声がして、コツコツと小さい足音がして人の気配が近づいてきた。
ぼんやりと黒い影が人の形を作っているのは分かる。それでも、ここは薄暗すぎて相手の服装も、顔も見えない。
心臓はまだちょっとドキドキしているし、相手は知らない人間だ。警戒してちょっとだけ後ずさると、その足音が聞こえたのか、相手は私から少し距離を空けて足を止めてくれた。
「俺はさっき、ここに落ちてきてしまって……。君も落ちてきたのか?」
「はい……」
さっき、ということは、私が中庭で聞いた声の主はこの男性だったのだろうか。
男性は、ふむ、と身じろぎしたようだった。
「そうか。……俺のせいかな」
「え?」
語尾がぼそぼそと微かで聞き取れなかった……が、男性はなんでもない、と頭があるはずの場所を左右に振ったようだった。
「ここは多分、最奥禁書領域だと思うんだが……君は、ここがどこかわかるだろうか?もしかして、司書だったりしないか?」
「え、と……リブラリカの職員ですが、ここがどこかはわからなくて……」
「ああ、最奥禁書領域は、大賢者以外は立ち入り禁止なんだったな。君がわからなくても当然か。……うん、それなら仕方ないな」
「すみません……」
実はその大賢者の秘書なのですが、とはさすがに言えない。
相手が誰かもわからないけれど、この様子だとリブラリカの職員ではなさそうだし……ここは私が出口まで案内を、なんて……、かっこいいことが言えたら良かったんだけど。
アルトがいない私は、魔力すら使えないただの一般人だ。
「さて……。いつまでもここにいるわけにもいかないし、少し歩こうと思うのだが、君も一緒にどうだ?」
「え……」
「初対面だし信用できないのもわかる。断られるならひとりで行くが、落ちた者同士、一緒に行動したほうが何かと良いのではないかと思って……」
――どうしよう。
唐突に思いも寄らない提案をされて、返答に困ってしまった。
きっと今頃、異変に気づいたアルトが自分を探してくれていると思うし、恐らく待つだけ待っていれば、別世界から焔さんが帰ってきた時に見つけてもらえると思う。
だから動く必要も特にないのだが……もし私が断っても、この男性はひとりで行くと言う。
焔さんなら私のことを見つけられるはずだ。結局この男性のことも探さなければいけなくなるのなら、最初から一緒にいたほうが手間が掛からないかもしれない。
静かな空間に、自分と男性の呼吸の音だけが響いている。
ここはなんとなく恐ろしいから、ひとりでいるのも心細いし……。
「わかり、ました。一緒に行きます」
私は長く悩んだ末、男性についていくことにした。
「…………」
「……」
相変わらずの静かすぎる空間に、足音が二つ。
あれから大分歩いた気がするけれど、周りは代わり映えのしない薄暗さと得体の知れない恐ろしい空気のままだった。
右手でフィイを抱きしめ、左手は前を歩く男性に繋がれている。
この暗さの中、はぐれないようにと半ば強引に握られた手に、最初はちょっとだけ抵抗があったものの……今私は、握ってくる彼の手の感触に別のものを感じていた。
お互い歩いているから分かりづらいのだが、明らかに震えていて、指先が冷たいのだ。
初めて話をした時には落ち着いた声だと思ったのだけど、この人、たぶん怯えてる。
それに気づいてしまってから、無言でいるより何か話掛けた方がいいのかな、なんてことも考えたのだけど……。そもそも人付き合いが苦手な私に、気の利いた世間話なんて出来ない。
どうしたものかとぐるぐる考え込みながら、そのまま歩いていた時だった。
「う、わっ」
前方で、がつっという音と驚いたような男性の声がしてはっと顔を上げる。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……。大丈夫だ、行き止まりだったみたいで、急に足が本にぶつかって驚いた」
「行き止まり……」
立ち止まった男性の脇へ進むと、確かに目の前に圧迫感を感じる。薄い足下の光の辺りには、本棚と積まれた本、そして男性が躓いたであろう開いたまま落ちている本がぼんやりと見えた。
暗くて仕方なかったとはいえ、蹴られてしまった本に少し胸が痛む。
その本を直そうとそっと伸ばした手は、横合いからぱしりと男性に掴まれ止められてしまった。
「ここにある本に、触らないほうがいい」
「……どうして、ですか?」
「この辺りにある本からは、すごく……その、悪いマナを感じるんだ。表題や文字は見えないけれど、恐らくみんな、呪いや悪い魔術に関する本だと思う。物によっては、触るだけで命を奪われるようなこともあるかもしれない」
「っ!」
男性の忠告に、思わず伸ばし掛けていた手を勢いよく引き戻した。
「それでいい。何の本か分からないから、触れないほうが身のためだ」
さっきから感じていた寒気や恐ろしい空気は、そういうことだったのか。
落ちてきてすぐ指先が触れてしまった時も、やけどしそうな刺激を感じたりした。
こんなところで無駄に死んでしまいたくはない。
「ご忠告、ありがとうございます……」
「……いや。それより、君は本が好きなのか?」
「え?……好き、ですけど……」
いきなり何を、と首を傾げれば、その戸惑いが伝わったのか焦ったような声が返ってくる。
「ああいや、唐突だったな。俺が蹴った本を見た時、顔は見えないが君から悲しそうな気配を感じて……」
この人は、随分と感覚が鋭い人間らしい。
何か話題をと思っていたところだし、これは丁度いいかもしれない。
「そうでしたか。私は本、大好きです。あなたは好きですか?」
「俺、は……そうだな。好きだった、というのが正しい気がする。……これほど本を国宝のように扱う国で、何をという話だが」
新しい道を探して今来た通路を戻りながら、ぽつぽつと会話が続く。
歩く速度が、さっきまでよりぐっと落ちていた。
「好きだった……?」
「昔は、オルフィードの魔法使いとか……色々な物語を楽しめる本が、好きだった。だが……成長するにつれて、読まなければならない本は物語ではなく、小難しい帝王学や経済学などのものばかりになって。他にも沢山、時間さえあればやらなければいけないことも多くなって……。物語なんて、読むことも許されなくなった」
「……」
「だから、今の俺にとっての本は、学ぶための教材として教師から与えられるものなんだ。勉強することが大切なのはわかっているが……本が好きとは言えないな」
「それは……寂しい、ですね。好きな本を、読めないなんて」
寂しそうな声で語られた男性の言葉に、少しだけ胸が締め付けられる。
きっとこの人はそれなりの貴族の出身か何かなのだろう。
そんな風に好きな本を読むことすらできない人がいるという現実は、私にとって初めて知ることで、衝撃だった。
「地位があればこそ、制限される自由も大きいと学ぶ出来事だった。人生、仕方がないこともある。……こんなつまらない俺の話より、君の話も聞かせてくれないか」
「私の、ですか……?」
私の話、といわれても。いきなり、実は私、異世界から来ていて――なんて話をするわけにもいかないし、一体何を話せば……。
「ああ。そうだな……君はどうして本が好きなんだ?」
どうして好きか、なんて。
「上手く言えないですね……私はもう、本というものが大好きなので……。本を開けば、行ったことのない世界にも、場所にも行けて、自分では体験できないような冒険を感じたり、知らなかったことを知れたり……。誰かの想いとか感情とか、たくさんのものがぎゅっと詰まっていて……、色々なことを教えてもらえるから」
椅子に座って本の世界に没頭すれば、自分が知らない世界、出来事、感情――どこにいたって、沢山のものを感じることができるから。
だから私は、本が大好きで、誰かの綴る物語が大好きなのだ。
「色々なことを教えてもらえる、か……。いいな、そういうの」
男性から返ってきた呟きは、静かでどこか頼りなさげに聞こえた。
「君みたいな友人がいたら、俺も色々教えてもらえるんだけどな」
それきり、また会話が途切れる。
貴族というものは、友達すらできないものなのだろうか。
私の身近にいる貴族といえば、シャーロットやオリバー、グレアだけれど……みんな長い付き合いって言っていたし、仲良しだった。
この人の家は、特別厳しいのかもしれない。
時々寂しそうに聞こえる声が、なんとなく焔さんと重なる様な気がして。
いつの間にかあまり良く知らないはずのこの人を、放っておけないような気持ちになっていた。
ぐいんっと身体に衝撃があって、次の瞬間にはどさっと床のような場所に投げ出される。
「いっ……たぁ……」
打ったお尻をさすりながら痛みをやり過ごす。どうやら、地面にぺしゃんこになるような事態は避けられたようでほっとした。
びっくりした心臓が多少落ち着いてくれば、少しは周りを見る余裕も出てくる。
ふわっと頬にすり寄ってきたほわほわのものは、よく見えないけれどフィイだ。きっと抱いたまま落ちてきてしまったのだろう。
自分以外の温かさを感じると、ひとりじゃないという安心感に冷静さも戻ってくる。
真っ暗に見えた周囲にも次第に目が慣れてきて、ぼんやりした弱い青緑色の光が見えるようになってきた。
目が慣れても薄暗い。そもそもここには、正体不明の青緑の光以外に光源がないようだ。
足下付近にだけ漂うように揺れる光に、無造作に積み上げられた本のようなものがうっすら見えている。
そっと床を手探りすれば、冷たくなめらかな石の床に、いくつも四角くて重いものが指先にぶつかった。
そのうちの一冊に微かに指先に触れた瞬間、指先が熱いものにでも触ったかのように痛んで、小さな悲鳴を上げて手を引っ込めた。
「何、今の……」
フィイを抱いて、静かに立ち上がる。ずきっと少しだけ右足が痛んで、思わず顔をしかめた。
いつの間にか、捻ってしまったのかもしれない。
先ほどより高くなった視界。先ほどの熱さが怖くて手は伸ばせないけれど、前後は空いた空間になっていて、左右には割と近い位置に壁があるようだった。
少し古くさいような、カビくさいような……それでいて、落ち着かないような、なんとも言えないこの空気。
「ここ……最奥禁書領域の、どこか……なの?」
唇から漏れた息が、ほんのりと白いことにやっと気がついた。それと同時に感じる寒気。
ここは、なんだかすごく寒い。
さすがにこの年になって闇が怖いというわけではないけれど……寒気と、異様な空気を纏ったこの場所は、なんだかすごく恐ろしかった。
心細くてぎゅっと胸元に抱きしめたフィイが、温かい。
「……えっと」
これからどうしよう、と、身体を震わせたその時だった。
「……そこに誰かいる……のか?」
「ひゃあ?!」
突然背後から掛かった声に、大きく飛び上がる。
思わず悲鳴を上げれば、相手も驚いたように小さく声を上げた。
「わっ……そ、その声、女か……。すまない、驚かせてしまって」
男性の声だ。ちょっと気まずそうに、静かに話すまだ若い声。
「その、突然近づいたりするより、先に声を掛けたほうが驚かないかと思ったんだが……。すまなかった。何もしないから、落ち着いてくれ」
「…………は、い」
「今からそっちに行く」
几帳面にそう宣言する声がして、コツコツと小さい足音がして人の気配が近づいてきた。
ぼんやりと黒い影が人の形を作っているのは分かる。それでも、ここは薄暗すぎて相手の服装も、顔も見えない。
心臓はまだちょっとドキドキしているし、相手は知らない人間だ。警戒してちょっとだけ後ずさると、その足音が聞こえたのか、相手は私から少し距離を空けて足を止めてくれた。
「俺はさっき、ここに落ちてきてしまって……。君も落ちてきたのか?」
「はい……」
さっき、ということは、私が中庭で聞いた声の主はこの男性だったのだろうか。
男性は、ふむ、と身じろぎしたようだった。
「そうか。……俺のせいかな」
「え?」
語尾がぼそぼそと微かで聞き取れなかった……が、男性はなんでもない、と頭があるはずの場所を左右に振ったようだった。
「ここは多分、最奥禁書領域だと思うんだが……君は、ここがどこかわかるだろうか?もしかして、司書だったりしないか?」
「え、と……リブラリカの職員ですが、ここがどこかはわからなくて……」
「ああ、最奥禁書領域は、大賢者以外は立ち入り禁止なんだったな。君がわからなくても当然か。……うん、それなら仕方ないな」
「すみません……」
実はその大賢者の秘書なのですが、とはさすがに言えない。
相手が誰かもわからないけれど、この様子だとリブラリカの職員ではなさそうだし……ここは私が出口まで案内を、なんて……、かっこいいことが言えたら良かったんだけど。
アルトがいない私は、魔力すら使えないただの一般人だ。
「さて……。いつまでもここにいるわけにもいかないし、少し歩こうと思うのだが、君も一緒にどうだ?」
「え……」
「初対面だし信用できないのもわかる。断られるならひとりで行くが、落ちた者同士、一緒に行動したほうが何かと良いのではないかと思って……」
――どうしよう。
唐突に思いも寄らない提案をされて、返答に困ってしまった。
きっと今頃、異変に気づいたアルトが自分を探してくれていると思うし、恐らく待つだけ待っていれば、別世界から焔さんが帰ってきた時に見つけてもらえると思う。
だから動く必要も特にないのだが……もし私が断っても、この男性はひとりで行くと言う。
焔さんなら私のことを見つけられるはずだ。結局この男性のことも探さなければいけなくなるのなら、最初から一緒にいたほうが手間が掛からないかもしれない。
静かな空間に、自分と男性の呼吸の音だけが響いている。
ここはなんとなく恐ろしいから、ひとりでいるのも心細いし……。
「わかり、ました。一緒に行きます」
私は長く悩んだ末、男性についていくことにした。
「…………」
「……」
相変わらずの静かすぎる空間に、足音が二つ。
あれから大分歩いた気がするけれど、周りは代わり映えのしない薄暗さと得体の知れない恐ろしい空気のままだった。
右手でフィイを抱きしめ、左手は前を歩く男性に繋がれている。
この暗さの中、はぐれないようにと半ば強引に握られた手に、最初はちょっとだけ抵抗があったものの……今私は、握ってくる彼の手の感触に別のものを感じていた。
お互い歩いているから分かりづらいのだが、明らかに震えていて、指先が冷たいのだ。
初めて話をした時には落ち着いた声だと思ったのだけど、この人、たぶん怯えてる。
それに気づいてしまってから、無言でいるより何か話掛けた方がいいのかな、なんてことも考えたのだけど……。そもそも人付き合いが苦手な私に、気の利いた世間話なんて出来ない。
どうしたものかとぐるぐる考え込みながら、そのまま歩いていた時だった。
「う、わっ」
前方で、がつっという音と驚いたような男性の声がしてはっと顔を上げる。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……。大丈夫だ、行き止まりだったみたいで、急に足が本にぶつかって驚いた」
「行き止まり……」
立ち止まった男性の脇へ進むと、確かに目の前に圧迫感を感じる。薄い足下の光の辺りには、本棚と積まれた本、そして男性が躓いたであろう開いたまま落ちている本がぼんやりと見えた。
暗くて仕方なかったとはいえ、蹴られてしまった本に少し胸が痛む。
その本を直そうとそっと伸ばした手は、横合いからぱしりと男性に掴まれ止められてしまった。
「ここにある本に、触らないほうがいい」
「……どうして、ですか?」
「この辺りにある本からは、すごく……その、悪いマナを感じるんだ。表題や文字は見えないけれど、恐らくみんな、呪いや悪い魔術に関する本だと思う。物によっては、触るだけで命を奪われるようなこともあるかもしれない」
「っ!」
男性の忠告に、思わず伸ばし掛けていた手を勢いよく引き戻した。
「それでいい。何の本か分からないから、触れないほうが身のためだ」
さっきから感じていた寒気や恐ろしい空気は、そういうことだったのか。
落ちてきてすぐ指先が触れてしまった時も、やけどしそうな刺激を感じたりした。
こんなところで無駄に死んでしまいたくはない。
「ご忠告、ありがとうございます……」
「……いや。それより、君は本が好きなのか?」
「え?……好き、ですけど……」
いきなり何を、と首を傾げれば、その戸惑いが伝わったのか焦ったような声が返ってくる。
「ああいや、唐突だったな。俺が蹴った本を見た時、顔は見えないが君から悲しそうな気配を感じて……」
この人は、随分と感覚が鋭い人間らしい。
何か話題をと思っていたところだし、これは丁度いいかもしれない。
「そうでしたか。私は本、大好きです。あなたは好きですか?」
「俺、は……そうだな。好きだった、というのが正しい気がする。……これほど本を国宝のように扱う国で、何をという話だが」
新しい道を探して今来た通路を戻りながら、ぽつぽつと会話が続く。
歩く速度が、さっきまでよりぐっと落ちていた。
「好きだった……?」
「昔は、オルフィードの魔法使いとか……色々な物語を楽しめる本が、好きだった。だが……成長するにつれて、読まなければならない本は物語ではなく、小難しい帝王学や経済学などのものばかりになって。他にも沢山、時間さえあればやらなければいけないことも多くなって……。物語なんて、読むことも許されなくなった」
「……」
「だから、今の俺にとっての本は、学ぶための教材として教師から与えられるものなんだ。勉強することが大切なのはわかっているが……本が好きとは言えないな」
「それは……寂しい、ですね。好きな本を、読めないなんて」
寂しそうな声で語られた男性の言葉に、少しだけ胸が締め付けられる。
きっとこの人はそれなりの貴族の出身か何かなのだろう。
そんな風に好きな本を読むことすらできない人がいるという現実は、私にとって初めて知ることで、衝撃だった。
「地位があればこそ、制限される自由も大きいと学ぶ出来事だった。人生、仕方がないこともある。……こんなつまらない俺の話より、君の話も聞かせてくれないか」
「私の、ですか……?」
私の話、といわれても。いきなり、実は私、異世界から来ていて――なんて話をするわけにもいかないし、一体何を話せば……。
「ああ。そうだな……君はどうして本が好きなんだ?」
どうして好きか、なんて。
「上手く言えないですね……私はもう、本というものが大好きなので……。本を開けば、行ったことのない世界にも、場所にも行けて、自分では体験できないような冒険を感じたり、知らなかったことを知れたり……。誰かの想いとか感情とか、たくさんのものがぎゅっと詰まっていて……、色々なことを教えてもらえるから」
椅子に座って本の世界に没頭すれば、自分が知らない世界、出来事、感情――どこにいたって、沢山のものを感じることができるから。
だから私は、本が大好きで、誰かの綴る物語が大好きなのだ。
「色々なことを教えてもらえる、か……。いいな、そういうの」
男性から返ってきた呟きは、静かでどこか頼りなさげに聞こえた。
「君みたいな友人がいたら、俺も色々教えてもらえるんだけどな」
それきり、また会話が途切れる。
貴族というものは、友達すらできないものなのだろうか。
私の身近にいる貴族といえば、シャーロットやオリバー、グレアだけれど……みんな長い付き合いって言っていたし、仲良しだった。
この人の家は、特別厳しいのかもしれない。
時々寂しそうに聞こえる声が、なんとなく焔さんと重なる様な気がして。
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