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第1章 大賢者様の秘書になりました
31.どうしても、会いたくて
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「あ……また行き止まりか」
しばらく歩いた末に立ち止まった男性は、疲れたような深い溜息を吐いた。
それもそうだ。中庭からこの場所へ落ちてきてから、もう何時間も経ったような気がしている。
たまにそれとない会話を挟みながらもずっと歩き続け、行き止まりに足を止めたのはもう何回目か。
ふうっと大きく息を吐く音がして、男性がこちらを振り向いた気配がした。
「すまない。ずっと歩き通しで疲れたよな。ここら辺で少し休憩しないか?」
「賛成です」
「ちょっと冷たいけれど、床に座ろう。……ああ、本には気をつけて」
お互い声を掛け合いながら、なんとか床に平積みされた本を避けて座り込む。
座った途端にじんと足が痛んで、そういえば落ちてきた時に痛めていたのだと思い出した。
一度意識してしまうと、ずきずきと痛んでくる気がするのは何故だろう。
そっと足首に触れると、じわっとした痛みがあって少し顔が歪んだ。これは、捻挫くらいしてしまっているかもしれない。
こうして休憩しているうちはいいけれど、次に彼がまた歩き出すと言った時には、もうついていけないかもしれない。
うーん、困った……。
ふわふわもこもこのフィイをわしわしかき回しながら、座ってから一言も発さない隣の男性……がいるはずの場所へ、そっと視線を向けた。
彼は今、何を考えているんだろう。
休憩と言って腰を下ろした床は本当に冷たくて、暗すぎてどうしようもないとはいえ、こんなところに女性を直接座らせてしまったことに俺は大変罪悪感を感じていた。
母上からの鬼のような――もとい、かなり執拗な女性の扱いについての教育を思い出して、小さく身震いする。
こんなことがばれたら、後で折檻されてしまう。
だが今は、その恐れすら薄れてしまうほど、大変に困っていた。
ここは、一体どこだ。出口はどこだ。
勿論わかってる。全ての原因は、己の魔力の高さに奢って無茶な行動をした自分なのだ。
俺があんなことをしなければ、きっと今隣にいる女性もこんな場所へ落ちることにはならなかったはずだ。
まだまだ未熟で不甲斐ない自分に苛立ちながらも、今まで感じたこともないような、この場所に停滞している異様にどろどろとした負のマナに、完全に怯え腰になっている自分がいて、心の中で活をいれる。
この場所に満ちているのは、古くておぞましくて思わず絶望してしまいそうな暗い魔力の塊で、ちょっとでも気を抜けば身体ががたがたとみっともなく震え出してしまいそうだ。
幸い隣の女性は、さほどマナを感じていないらしい。
あまり取り乱したりする様子もなく静かで、先ほどまで掴んでいた手も温かく、震えているようなこともなかった。
ただ少しだけ、足音が乱れていたのが気になった。もしかしたらどちらかの足を怪我しているのかもしれない。
……って、絶対落ちてきた時だよな。ってことは、俺のせいだよな。
はぁ、と盛大に溜息を吐きたいのを、なんとか堪える。
隣の女性はリブラリカの職員らしいけれど、掴んだ手の感触や声の様子から、そこそこ若いのがわかっている。
こんな暗い場所で知らない男と2人きり。出口もわからないなんて、絶対怖い……よな。
彼女の足といい、今の状況といい、黙って考えていればいるほど、罪悪感がむくむくと大きくなっていく。
いつもなら誰かのせいにしてしまうところだけれど……どう考えてみたって、これは完全に自分が悪いのだ。
しばらく悶々と考え続けていると、ふと横合いから視線を感じた。
その視線が、最後の一押しだったのかもしれない。
「あー……。その、なんだ」
結局俺は、自分の中の罪悪感に負けて、口を開いていた。
「君には、本当に申し訳ないことをした」
「え?」
「……君がここに落ちてきたのは、俺が原因なんだ」
今まで他愛ないことを話して、彼女はとても優しい人間なのだと言葉の端々から感じていた。
そんな彼女をこんなことに巻き込んでしまうなんて申し訳ないと、俺としては珍しく本気でそう思っている。
「ええと、どういう事情かお伺いしても大丈夫ですか?」
躊躇いがちな声が、優しい。
ぐさりと胸に刺さるものを感じながら、俺は事情を話しはじめた。
「中庭の、隅の方で。大賢者の作ったという最奥禁書領域に、無理に入り込もうとしたんだ。俺の魔力ならやれると思って。そしたら途中でビッツシーが飛び出してきて、それに驚いて……中途半端に開いたところに、落ちたんだ」
我ながら、言葉にしてみるとなんとも情けない。
これじゃ、悪戯好きの子供と変わらないではないか。
ちょっと頭を抱えたくなって、がしがしと髪をかき回した。静かに聞いていた女性が、そっと身じろぎしたのが空気の流れで伝わってくる。
「……なるほど。その時のあなたの声を聞いてやってきた私が、続けてその穴に落ちてしまったということだったんですね」
さすがに呆れられるか怒られるかするだろうと思っていたのに、聞こえてきた彼女の声は静かなままで、こちらのほうが拍子抜けしてしまいそうになった。
「怒らない……のか?」
「どうしてですか?」
「どうしてって……。そもそも最奥禁書領域は、職員でさえ入ることが許されない場所なのに、そこに無理矢理入ろうとした俺のせいで、君はこんな目に遭ってるんだぞ」
「確かにそうですけれど、私も注意を怠っていたので……。全部あなたのせい、というわけではないと思いますから」
今まで出会った女のどれとも違う、呑気というか、柔らかい反応に一瞬ぽかんとしてしまいそうになった。
全部があなたのせいではない、という言葉が、さらに胸に刺さる。
もし立場が逆だったならば、俺は烈火のごとく怒り狂って、相手のことを責め立てると思う。
こんな考え方をできるということが、突然胸に響くように素敵だと思えた。
「それより、どうしてそこまでして、最奥禁書領域へ入りたかったんですか?」
「え?あ、ああ……どうしても直接、大賢者に会いたかったんだ。会って、頼みたいことがあって。……だが、彼は王城に来ることもなければ、中々外に出てくることもないだろう?だから、自分から行くしかないかと思って……」
「あー……。確かに、簡単に会える人では、ない……ですね」
「だが、最近になってリブラリカの中なら出歩くようになったと言うだろう?俺も、この前来たときに丁度見かけたんだが……フードを被っていて、本物がどうか確認する前に、さっさと逃げられてしまって……」
「……ん?」
「俺は、王城にある大賢者の肖像画を見たことがあるんだ。だから、もし、もし本物の大賢者だというなら、どうしても直接話したくて……」
「…………」
ついに、彼女から相づちすら聞こえてこなくなってしまった。
さすがに、自分勝手過ぎて呆れられてしまったのかもしれない。
「す、すまない……本当に、申し訳なかった……こんな俺の我が儘に付き合わせてしまって。君が呆れるのも、仕方がない……」
「え、あ、いいえ!いえそういうんじゃないんです、黙り込んでしまってごめんなさい。えっと……」
「?なんでも遠慮せず言って欲しい。悪いのは俺なんだ」
彼女は一瞬だけ躊躇うようにして、そっと控えめに尋ねてきた。
「話せないようなことなら、無理にはお聞きしないのですけど……あの、ほむ――じゃなかった、大賢者様に、どんなことをお願いしようと思っていたのかなって、気になって」
「……ああ。別に構わない。ええと――!」
彼女ならきっと、理由を聞いても笑ったりせず聞いてくれるのだろう。
根拠はないけれど何となくそんな風に思って、俺が口を開き掛けた時だ。
ぶわり、と。
やけどしてしまうんじゃないかと思うほどの、突然の苛烈な温度のマナを感じて、一気に全身が総毛立った。
――なんだ、これは。
全身に感じる圧に身体を強ばらせていると、目の前の空間に紅く輝くマナの粒子が渦巻いて、その中心にすらりと細身の男性が現われた。
「っやっと見つけた――!梨里!」
暗闇に慣れきっていた目には、突如の光が眩しすぎる。
眩んだ視界にぼんやりとしか映らない人影は、慌てたように隣の女性の前へと跪いたようだった。
「焔さん……!」
「遅くなってすまない。大丈夫?怪我していない?」
「すみません、足をちょっと捻ってしまって……」
「足?……わかった、ちょっとだけごめんね」
「へ?え、わ!わあああ」
しぱしぱする目を必死に瞬きする。段々見えてきた視界には、黒髪の男性が見えてきた。
彼女の悲鳴がしたと思ったけれど、どうやら男が彼女を抱き上げたらしい。
そのままくるりとこちらを向いた男の顔を見て、一瞬思考が停止した。
「……は?」
「…………で、誰と一緒にいるのかと思えば。まぁ、なんとなくそうだとは思ってたけど」
はあっと大きめの溜息を吐いた男は、何も言わず固まっている俺の襟首を鷲掴みにした。
瞬間、ぐるっと世界が一回転。
ぱっと回転が収まると、何やら静かで綺麗な、至って普通の書棚が視界に映る。
全身に触れる空気が温かく感じて、ようやっとあの場所を抜け出せたのだと感じた。
「さて、何からどうしたものか……」
ぽいっと床に放り出された俺はそれでも放心したように男を見つめていて、夢でも見ているんじゃないかと、自分の頬を思い切りつねりたい衝動が胸いっぱいに湧き上がってくるのに耐えていた。
鮮明になった視界に映る男性は、いつも飽きることなく眺め続けていた肖像画の中にあった、大賢者の姿そのものだった。
待っていれば絶対に助けてもらえると信じていたから、焔さんが突然現われてもほっとしただけで驚きはなかった。
膝下と背を支えられて抱き上げられた時には多少――いやかなり動揺したけれど、それでもちょっとだけ、至近距離になった焔さんから感じる慣れしたしんだ香りに、安堵してしまっている自分がいるのは内緒だ。
一瞬で戻ってきたいつもの最奥禁書領域。
焔さんはちゃんとあの男性も連れてきてくれていたから、床に座り込みながらぽかんと焔さんを見上げる彼の姿をようやく確認することができた。
さっき話を聞いていたときから、まさかとは思っていたけれど。
整った顔立ちに、とろりとした蜂蜜を思わせる綺麗な色の髪。薄紫に煌めくつり気味の目に、白を基調とした上質で光沢のある生地に金の装飾と刺繍の美しい、騎士服のようなデザインのジャケットコート。
ひと目見たら忘れられないような華やかな容姿は、間違いなくあの日、焔さんに顔を見せろと詰め寄っていた第一王子その人のものだ。
「さて、何からどうしたものか……」
心底困ったような焔さんの溜息が間近で聞こえて、改めて距離の近さを実感してしまう。
布越しに感じる体温にまで気づいてしまって、途端にどきどきと心臓が走り出した。
これはちょっと、早急に下ろしてもらわないと……!
「あ、あの、焔さん私……っ」
「だめ」
――まだ最後まで言ってないんですけど!!
考えを読まれたんだろうか、ちょっと抱え直す動作までされてしまって、だめという言葉の強さと拗ねたような感じからも、完全なる拒否の意思を感じた。
これは、もう一度頼んだくらいでは下ろしてくれそうにない。
どうして、と内心全力で叫びながら、せめてと真っ赤になっているだろう顔を両手で覆った。
「梨里さんはちょっと待ってて。……それで、どうして王子様がこんな場所にいるのかな?」
ちょっとむすっとしたような、呆れたような焔さんの声が頭上で聞こえるけれど、私はもう下ろしてもらえるまで、指1本すら身動き出来る気がしなかった。
しばらく歩いた末に立ち止まった男性は、疲れたような深い溜息を吐いた。
それもそうだ。中庭からこの場所へ落ちてきてから、もう何時間も経ったような気がしている。
たまにそれとない会話を挟みながらもずっと歩き続け、行き止まりに足を止めたのはもう何回目か。
ふうっと大きく息を吐く音がして、男性がこちらを振り向いた気配がした。
「すまない。ずっと歩き通しで疲れたよな。ここら辺で少し休憩しないか?」
「賛成です」
「ちょっと冷たいけれど、床に座ろう。……ああ、本には気をつけて」
お互い声を掛け合いながら、なんとか床に平積みされた本を避けて座り込む。
座った途端にじんと足が痛んで、そういえば落ちてきた時に痛めていたのだと思い出した。
一度意識してしまうと、ずきずきと痛んでくる気がするのは何故だろう。
そっと足首に触れると、じわっとした痛みがあって少し顔が歪んだ。これは、捻挫くらいしてしまっているかもしれない。
こうして休憩しているうちはいいけれど、次に彼がまた歩き出すと言った時には、もうついていけないかもしれない。
うーん、困った……。
ふわふわもこもこのフィイをわしわしかき回しながら、座ってから一言も発さない隣の男性……がいるはずの場所へ、そっと視線を向けた。
彼は今、何を考えているんだろう。
休憩と言って腰を下ろした床は本当に冷たくて、暗すぎてどうしようもないとはいえ、こんなところに女性を直接座らせてしまったことに俺は大変罪悪感を感じていた。
母上からの鬼のような――もとい、かなり執拗な女性の扱いについての教育を思い出して、小さく身震いする。
こんなことがばれたら、後で折檻されてしまう。
だが今は、その恐れすら薄れてしまうほど、大変に困っていた。
ここは、一体どこだ。出口はどこだ。
勿論わかってる。全ての原因は、己の魔力の高さに奢って無茶な行動をした自分なのだ。
俺があんなことをしなければ、きっと今隣にいる女性もこんな場所へ落ちることにはならなかったはずだ。
まだまだ未熟で不甲斐ない自分に苛立ちながらも、今まで感じたこともないような、この場所に停滞している異様にどろどろとした負のマナに、完全に怯え腰になっている自分がいて、心の中で活をいれる。
この場所に満ちているのは、古くておぞましくて思わず絶望してしまいそうな暗い魔力の塊で、ちょっとでも気を抜けば身体ががたがたとみっともなく震え出してしまいそうだ。
幸い隣の女性は、さほどマナを感じていないらしい。
あまり取り乱したりする様子もなく静かで、先ほどまで掴んでいた手も温かく、震えているようなこともなかった。
ただ少しだけ、足音が乱れていたのが気になった。もしかしたらどちらかの足を怪我しているのかもしれない。
……って、絶対落ちてきた時だよな。ってことは、俺のせいだよな。
はぁ、と盛大に溜息を吐きたいのを、なんとか堪える。
隣の女性はリブラリカの職員らしいけれど、掴んだ手の感触や声の様子から、そこそこ若いのがわかっている。
こんな暗い場所で知らない男と2人きり。出口もわからないなんて、絶対怖い……よな。
彼女の足といい、今の状況といい、黙って考えていればいるほど、罪悪感がむくむくと大きくなっていく。
いつもなら誰かのせいにしてしまうところだけれど……どう考えてみたって、これは完全に自分が悪いのだ。
しばらく悶々と考え続けていると、ふと横合いから視線を感じた。
その視線が、最後の一押しだったのかもしれない。
「あー……。その、なんだ」
結局俺は、自分の中の罪悪感に負けて、口を開いていた。
「君には、本当に申し訳ないことをした」
「え?」
「……君がここに落ちてきたのは、俺が原因なんだ」
今まで他愛ないことを話して、彼女はとても優しい人間なのだと言葉の端々から感じていた。
そんな彼女をこんなことに巻き込んでしまうなんて申し訳ないと、俺としては珍しく本気でそう思っている。
「ええと、どういう事情かお伺いしても大丈夫ですか?」
躊躇いがちな声が、優しい。
ぐさりと胸に刺さるものを感じながら、俺は事情を話しはじめた。
「中庭の、隅の方で。大賢者の作ったという最奥禁書領域に、無理に入り込もうとしたんだ。俺の魔力ならやれると思って。そしたら途中でビッツシーが飛び出してきて、それに驚いて……中途半端に開いたところに、落ちたんだ」
我ながら、言葉にしてみるとなんとも情けない。
これじゃ、悪戯好きの子供と変わらないではないか。
ちょっと頭を抱えたくなって、がしがしと髪をかき回した。静かに聞いていた女性が、そっと身じろぎしたのが空気の流れで伝わってくる。
「……なるほど。その時のあなたの声を聞いてやってきた私が、続けてその穴に落ちてしまったということだったんですね」
さすがに呆れられるか怒られるかするだろうと思っていたのに、聞こえてきた彼女の声は静かなままで、こちらのほうが拍子抜けしてしまいそうになった。
「怒らない……のか?」
「どうしてですか?」
「どうしてって……。そもそも最奥禁書領域は、職員でさえ入ることが許されない場所なのに、そこに無理矢理入ろうとした俺のせいで、君はこんな目に遭ってるんだぞ」
「確かにそうですけれど、私も注意を怠っていたので……。全部あなたのせい、というわけではないと思いますから」
今まで出会った女のどれとも違う、呑気というか、柔らかい反応に一瞬ぽかんとしてしまいそうになった。
全部があなたのせいではない、という言葉が、さらに胸に刺さる。
もし立場が逆だったならば、俺は烈火のごとく怒り狂って、相手のことを責め立てると思う。
こんな考え方をできるということが、突然胸に響くように素敵だと思えた。
「それより、どうしてそこまでして、最奥禁書領域へ入りたかったんですか?」
「え?あ、ああ……どうしても直接、大賢者に会いたかったんだ。会って、頼みたいことがあって。……だが、彼は王城に来ることもなければ、中々外に出てくることもないだろう?だから、自分から行くしかないかと思って……」
「あー……。確かに、簡単に会える人では、ない……ですね」
「だが、最近になってリブラリカの中なら出歩くようになったと言うだろう?俺も、この前来たときに丁度見かけたんだが……フードを被っていて、本物がどうか確認する前に、さっさと逃げられてしまって……」
「……ん?」
「俺は、王城にある大賢者の肖像画を見たことがあるんだ。だから、もし、もし本物の大賢者だというなら、どうしても直接話したくて……」
「…………」
ついに、彼女から相づちすら聞こえてこなくなってしまった。
さすがに、自分勝手過ぎて呆れられてしまったのかもしれない。
「す、すまない……本当に、申し訳なかった……こんな俺の我が儘に付き合わせてしまって。君が呆れるのも、仕方がない……」
「え、あ、いいえ!いえそういうんじゃないんです、黙り込んでしまってごめんなさい。えっと……」
「?なんでも遠慮せず言って欲しい。悪いのは俺なんだ」
彼女は一瞬だけ躊躇うようにして、そっと控えめに尋ねてきた。
「話せないようなことなら、無理にはお聞きしないのですけど……あの、ほむ――じゃなかった、大賢者様に、どんなことをお願いしようと思っていたのかなって、気になって」
「……ああ。別に構わない。ええと――!」
彼女ならきっと、理由を聞いても笑ったりせず聞いてくれるのだろう。
根拠はないけれど何となくそんな風に思って、俺が口を開き掛けた時だ。
ぶわり、と。
やけどしてしまうんじゃないかと思うほどの、突然の苛烈な温度のマナを感じて、一気に全身が総毛立った。
――なんだ、これは。
全身に感じる圧に身体を強ばらせていると、目の前の空間に紅く輝くマナの粒子が渦巻いて、その中心にすらりと細身の男性が現われた。
「っやっと見つけた――!梨里!」
暗闇に慣れきっていた目には、突如の光が眩しすぎる。
眩んだ視界にぼんやりとしか映らない人影は、慌てたように隣の女性の前へと跪いたようだった。
「焔さん……!」
「遅くなってすまない。大丈夫?怪我していない?」
「すみません、足をちょっと捻ってしまって……」
「足?……わかった、ちょっとだけごめんね」
「へ?え、わ!わあああ」
しぱしぱする目を必死に瞬きする。段々見えてきた視界には、黒髪の男性が見えてきた。
彼女の悲鳴がしたと思ったけれど、どうやら男が彼女を抱き上げたらしい。
そのままくるりとこちらを向いた男の顔を見て、一瞬思考が停止した。
「……は?」
「…………で、誰と一緒にいるのかと思えば。まぁ、なんとなくそうだとは思ってたけど」
はあっと大きめの溜息を吐いた男は、何も言わず固まっている俺の襟首を鷲掴みにした。
瞬間、ぐるっと世界が一回転。
ぱっと回転が収まると、何やら静かで綺麗な、至って普通の書棚が視界に映る。
全身に触れる空気が温かく感じて、ようやっとあの場所を抜け出せたのだと感じた。
「さて、何からどうしたものか……」
ぽいっと床に放り出された俺はそれでも放心したように男を見つめていて、夢でも見ているんじゃないかと、自分の頬を思い切りつねりたい衝動が胸いっぱいに湧き上がってくるのに耐えていた。
鮮明になった視界に映る男性は、いつも飽きることなく眺め続けていた肖像画の中にあった、大賢者の姿そのものだった。
待っていれば絶対に助けてもらえると信じていたから、焔さんが突然現われてもほっとしただけで驚きはなかった。
膝下と背を支えられて抱き上げられた時には多少――いやかなり動揺したけれど、それでもちょっとだけ、至近距離になった焔さんから感じる慣れしたしんだ香りに、安堵してしまっている自分がいるのは内緒だ。
一瞬で戻ってきたいつもの最奥禁書領域。
焔さんはちゃんとあの男性も連れてきてくれていたから、床に座り込みながらぽかんと焔さんを見上げる彼の姿をようやく確認することができた。
さっき話を聞いていたときから、まさかとは思っていたけれど。
整った顔立ちに、とろりとした蜂蜜を思わせる綺麗な色の髪。薄紫に煌めくつり気味の目に、白を基調とした上質で光沢のある生地に金の装飾と刺繍の美しい、騎士服のようなデザインのジャケットコート。
ひと目見たら忘れられないような華やかな容姿は、間違いなくあの日、焔さんに顔を見せろと詰め寄っていた第一王子その人のものだ。
「さて、何からどうしたものか……」
心底困ったような焔さんの溜息が間近で聞こえて、改めて距離の近さを実感してしまう。
布越しに感じる体温にまで気づいてしまって、途端にどきどきと心臓が走り出した。
これはちょっと、早急に下ろしてもらわないと……!
「あ、あの、焔さん私……っ」
「だめ」
――まだ最後まで言ってないんですけど!!
考えを読まれたんだろうか、ちょっと抱え直す動作までされてしまって、だめという言葉の強さと拗ねたような感じからも、完全なる拒否の意思を感じた。
これは、もう一度頼んだくらいでは下ろしてくれそうにない。
どうして、と内心全力で叫びながら、せめてと真っ赤になっているだろう顔を両手で覆った。
「梨里さんはちょっと待ってて。……それで、どうして王子様がこんな場所にいるのかな?」
ちょっとむすっとしたような、呆れたような焔さんの声が頭上で聞こえるけれど、私はもう下ろしてもらえるまで、指1本すら身動き出来る気がしなかった。
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