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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶
124.墓参り
しおりを挟む梨里の知らない場所で、彼女をひとりにするのには不安があった。
それでも、あの場所に連れて行く気には、どうしてもなれなかったのだ。
まぁ……、阿呆だが猪王子が一緒にいるし、アルトも置いてきた。
そこまで深刻な事態にはならないだろう。
客間を出てからずっと無言で歩く自分に、現領主だという老婆は黙ってついてきていたのだが、やがてコツリと杖を鳴らした。
「私はここで一度、失礼させて頂きたく」
「ああ、わかった」
曲がった背中で低く礼をする老婦人をその場に残し、焔はまた廊下を歩き出した。
途中、中庭へ出る扉をくぐる。
建物に囲まれた小さな中庭は、庭師がしっかりしているのだろう、色とりどりの夏の花に溢れていた。
特に気に留めることもなくそこを通り過ぎ、反対側にある扉から再び建物の中へと入る。
この屋敷に訪れた客人ならば、こちら側も、正面玄関があった建物と同じ建物に思えるだろう。
が、しかし。
特殊な造りをしているこの屋敷では、中庭からしか入れない奥に、別棟があるのだ。
先ほど領主に案内されたのは、表の棟だけ。
この屋敷の重要な部屋は全て、こちらの別棟にある。
踏み出した足音は、深い絨毯に吸い込まれ、自らの纏うローブとその飾りが、静かな空間にしゃらりと小さな音を響かせた。
見る限り、表の棟と全く同じに見える廊下。
だが、こちらは空気から違う。
周囲がずしりと重くなったように感じるのは、こちらの別棟に満ちるマナの濃度のせいだろう。
こちらの建物は本当に古く、ロランディア領主一族が魔女と呼ばれる所以が、深く根ざしている場所だから。
『古いもの』が滞積している場所には、どうしても重さが生じるというものだ。
焔は迷うことなく、廊下を進んでいく。
表の建物より遙かにしんと静まり返った別棟では、すれ違った侍女もひとりだけだった。
「…………」
その侍女も、焔とすれ違い様には、音もなく廊下の端に寄り、無言のまま頭を下げてくる。
徹底して静かなこの屋敷の雰囲気に、ふ、と乾いた笑みを漏らした。
――本当に変わらないな、この場所は。
突き当たりの角を曲がって、階段を上って二階へ、また廊下を少し行く。
その先で、廊下の5番目の扉をノックもせずに開いた。
きい、と小さな音がして、扉が開く。
その先にあるのは、両側をガラス窓が続く、下へと下る階段の道だ。
木造の階段は、思いのほか、埃が積もっているようなことはないようだ。
ぎい、ぎいと耳障りな音を立てる階段を、ゆっくり降りていく。
両面窓からは、鮮やかな緑の木の葉がトンネルのように輝いていた。
先ほど登ったより数倍長い下り階段を降りきって、その先にある扉をくぐる。
小さな書斎が現われたら、そこを横切って別の扉へ。
そこからさらに、付き人用の小さな部屋と、いくつかの倉庫のような部屋を通って――。
最後の扉をくぐれば、そこは敷地内にある森の中だ。
むわ、と暑い空気に一瞬顔をしかめて、小さく手を振った。
自分の周りとローブの中のみ、適温に保つようにした魔術のお陰で、この真夏の炎天下でも汗一つ掻くことはない。
足下から続く、砂利道で整備された散歩道――ではなく、別の獣道に入って少し進むと……その先に姿を見せるのは、苔むして蔦の絡まる、小さな石の噴水だ。
ちょろちょろと、耳に心地良い音がする。
本当に小さな空間になっているそこは、背の高い木と背の低い植物でできた自然の壁に守られて、まるでこの場所だけ時間が止まっているかのような世界を作り出していた。
……本当に、変わらないな。
いや、実を言えば大分、時間が経っているけれど。
最後に見た時は、こんなにも苔も蔦も溢れてはいなかったはずだ。
みれば、下草はある程度踏み固められている。
誰かが、定期的にここを訪れている証拠だ。
恐らく――梨里が仲良くしているという、領主一族の少女、かな。
再び踏み出した足は、噴水の傍へと向かい、その縁にそっと腰を下ろした。
苔むしてはいるものの、水盆に溜まる水はとても清らかで透明だ。
真夏だというのに、ひんやりと冷たい水。
ローブの袂を押さえて、自らの白い指先を水盆へと浸した。
懐かしい感覚のする水のマナの感触に、目を閉じて、ふうと長く息を吐く。
「――久しぶりだね。アイビー」
呟きに、返ってくる声はない。
それでも焔は、ちゃぷちゃぷと水盆の水をもてあそびながら言葉を続けた。
「君の葬儀以来かな、ここへ来たのは……。もう、500年くらいは経ったっけ?」
ぱしゃ、ぱしゃ。
「俺のことを、『あの頑固者』だなんて呼ぶのは、君くらいのものだ」
ちゃぷ。
水盆から上げた、水滴がきらきらと光を集めて落ちる手の平を、小さく切り取られた青い空へ広げる。
ぱた、と頬に零れた水のしずくに、焔はすっと目を細めた。
「いるんだろう?折角会いに来たんだから、顔くらい見せたら?」
さああああ、と、風が木の葉を揺らす音が、思いのほか大きく聞こえた。
続いて、肌に直に届く――ざわりと、マナが揺らめく感触。
『……いやよ。だって貴方、怒ってるじゃない』
突然。
木の葉のざわめきに隠れてしまいそうな、女性の小さな声がした。
その返事に、焔はくすりと笑みを漏らす。
鬱陶しげに払ったフードが、ぱさりと背中に落ちた。
「よくわかったね、俺が怒ってるって」
『わかるわよ。貴方のマナが痛いんだもの』
「じゃあ、理由もわかってる?」
『そう、ね。たぶん』
ゆらりと、大気に満ちるマナの流れが大きく乱れる。
居るのだ。
姿は見えるようにしてくれないけれど、……この懐かしいマナの感じ。
確実に、彼女がいる。
『でも、謝らないわ。私は、あの人と約束した。唯、約束した通りにしているだけだもの』
ちょっと拗ねたような声音に、記憶の深いところにあった、在りし日のアイビーの姿が思い出された。
ザフィアと一緒会いに来る度、嬉しそうにしていた彼女。
ザフィアの奴、アイビーと一緒に居るときだけは、本当に楽しそうな表情を見せていたっけ。
猪王子の話から、ほぼ確実にアイビーが幽霊の正体だとは確信していたけれど……。
実際にゴーストになった彼女とこうして話をしてみると、いつだったか読んだ本に書いてあった通り、なんとも変な感覚がする。
自分は確かに、この女性の死を悼んだのに。
……とまあ、感傷に浸るのは、今は後回しだ。
今さっき、彼女の口から聞き捨てならない言葉が出た気がする。
「ザフィアとの、約束?」
『ええ。どうしてもって、頼まれちゃったの。そうしたら、断ることなんて……私にはできないじゃない』
「一体何を約束したっていうんだ?リリーまで巻き込んで」
『リリーさん、可愛いわよね。でも、約束が何だったのかは、言えないわ。まぁ、私が何を言っても言わなくても、答えはもうわかってるんでしょうけど。ねぇ、大賢者様?』
「鍵、だな?」
そう。
きっと、ゴーストとして存在しているアイビーこそが、あのザフィアの魔術書に関連することの、何かしらの鍵であるはずだ。
ザフィアに近しく、ザフィアから信頼されていて、かつ、自らの生が終わっている――どれだけ時が経とうとも不変のゴースト、という存在。
封印の鍵となるには、最適だ。
それに、魔術書の表紙に描かれた、図書館の景色。
あの景色を、たまに3人で眺めた記憶がある。
それはありふれた出来事だったけれど、きっと3人の、大切な思い出だ。
鍵だと即答した焔の周囲で、ふるふると空気が揺れた。
『ふふ、正解』
次の瞬間、彼女の嬉しそうな笑い声と共に、ふわりと周囲の空気が渦巻いて、風が視界を遮った。
『あの人の言った通りね。そう――私が、鍵なの』
絡み合う風が、ゆるりと解ける。
『本当に、久しぶりね――イグニス』
記憶にある通り、肩上に揺れる髪がふわりと広がって。
ほんの少しだけ透き通り、向こう側を映す肌には、シンプルなワンピースを翻して。
数百年ぶりに目にした懐かしい姿に、無意識に目を細めた。
「ああ、――本当に、久しぶり。アイビー」
かつての友人のゴーストが、鮮やかな緑の中、ふわりと変わらぬ笑みを浮かべてそこに居た。
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