大賢者様の聖図書館

櫻井綾

文字の大きさ
上 下
131 / 171
第2章 古き魔術と真夏の夜蝶

128.蝶の誘い

しおりを挟む

 急ぎ足で部屋へと戻り、荷物を掴んですぐに踵を返した。
 まっすぐに図書館の正面階段を降りて、玄関から外へと飛び出す。
 むわっとまだ暑い空気が纏わり付いてくるのを振り切るように。
 陽も落ちて、どんどん暗くなっていくあぜ道を、ずんずんと歩いていった。

「…………」

 後ろからトコトコと着いてきているアルトも、ずっと無言のままだ。
 やがて石畳の広場に差し掛かる頃には、村の家々に灯りが増えていた。
 すれ違った民家から子供の笑い声が聞こえてくると、何故か胸が痛む。
 逃げるみたいにさらに歩みを早めて、ほとんど駆け出すように村の入り口を走り抜けた。
 暗くなった森の道は、もう灯りなしで歩けるほどに行き慣れた道になっている。
 迷わず向かった道の先――ぽつんと佇む、リブラリカへと続く扉の前。
 軽く息を切らしながら、その前に立ち止まった。

「……はぁ……」

 足下ばかりが映る視界には、生い茂る緑の下草。
 帰りたくない、けど……帰らなくちゃいけない。
 焔さんに、ああ言われてしまったから。
 彼の部下でしかない私が、逆らうことなんてできない。
 のろのろとドアノブに手を掛ける背後から、アルトがぽつりと呟いた。

「リリー、あいつの言うことは気にすんなよ」
「え?」
「あれは、お前のことを心配しての言葉だ」
「……うん、わかってるよ」

 肩越しに振り返った私は、上手く笑えているだろうか。
 ――ちゃんと、わかっている。
 私が危険な目に合わないように……いつもいつも、彼は私を大切にしてくれる。
 ……わかっている、はずだ。
 本当なら、調査に一緒について行って……少しでも彼の役に立ちたかった。
 大切なときに傍に居られるような……彼にとっての私は、そんな立ち位置でいたいのに。
 悔しい。
 力のない自分が、とても悔しい。
 荷物を持つ手にぎゅっと力を込めて、そして力を抜いた。

「仕方ないよ。私、何も出来ないから」
「リリー……」
「私、帰るね。……ほら、アルトは焔さんの所に行かなくちゃ」
「ああ……」
「またね」

 紅い瞳を心配そうに揺らすアルト。
 本当に、いつも私を気遣ってくれて……まるで兄のようなアルトには、感謝している。
 アルトの視線を感じながら、私は扉を越えた。
 ぎいと、背後で扉が閉まれば、そこはもう、静寂に包まれたリブラリカの最奥禁書領域。
 すっかり染みついてしまった、慣れた匂いを胸いっぱいに吸い込んで、大きく息を吐き出した。
 傷ついた心にも、ちょっぴり沁みる……薬草と、古い紙、インクの匂いだ。

「はぁー……。ん?」

 そんなとき――ちら、と。
 視界の端にひらめいた翡翠色に、一瞬気を取られる。
 振り返った扉のドアノブに、蝶が1匹、とまっていた。
 驚くほど鮮やかに、淡く輝く翡翠色の羽をひらめかせる、優雅な姿。
 どこかで見覚えのあるそれに見とれていると――。

『本当に、帰ってしまうの?』
「え――」

 聞き覚えのある女性の声が、小さく聞こえた。

『あんなにヒントをあげたのに。このまま帰って、後悔しないのかしら?』

 声の主を探して辺りを見回すけれど、自分の他にはアルトさえいないのに。

「あの、その声……アイビーさん?」
『そう。ほら、ここよここ』
「まさか――」

 この場所で、アイビーの声が聞こえるとしたら、怪しいのはやっぱり……この蝶、だよね。
 身をかがめて蝶に顔を寄せると、まるで返事をするかのように蝶が大きく羽を揺らした。

『そうそう、あたり』

 ひらひらと、翡翠色の蝶が舞い上がる。
 ゆったりした動きで舞う蝶の周りには、翡翠色に輝くマナの粒子が煌めいていた。

『それで、本当にこのまま帰っちゃうの?リリーさん』
「……ええ。マスターに、そうしろと言われたので」
『まったく……あの頑固者ったら、本当に融通が利かなくて、臆病なんだから』

 心底呆れたような声がして、蝶は一度瞬くと次の瞬間――半透明の女性へと姿を変えた。

『貴女も貴女よ。言われたからって、本当に帰っちゃうなんて。このままじゃ、イグニスは魔術書の封印を解くことはできないわ』
「え?」

 腕を組んで、これ見よがしに困った表情をする彼女に、私は首を傾げた。

「だって、ほ……イグニス様は、封印を解く方法見つけたって……」
『ええ、確かに教えたわ。封印を解く方法。……でもね、封印は二重に鍵が掛かっているの。彼に教えた鍵だけじゃ、封印を解くことはできないの』
「そんな……じゃあ、もうひとつの鍵って――」

 伸ばされた彼女の白い指先が、とん、と私の胸を軽く突いた。

『教えたでしょう?――貴女に必要な鍵よ、って』
「あ……!」

 その一言で、彼女が何のことを言ってるのか、ぴんと来た。
 やはり、あの宝石池にある何かが――あの魔術書には必要なんだ。

『わかったみたいね。なら……ほら、行きましょ?』

 彼女が差し出してくる手に、反射的に手を重ねそうになって――寸前で、引き戻した。
 ――もう二度と、あの場所に近づかないで。
 そう言われたのは、つい数時間前のこと。
 アイビーにも、もう関わるなと言われていたのに……。
 そんな罪悪感に、どうしていいのか分からなくなる。
 しかし、引き戻した私の手を、アイビーの透けた手に握られた。

「――っ!」

 とんでもなく冷たい感触に、全身が総毛立つ。
 彼女がもう生きていないということを、こんなことで実感するなんて。
 びくりと身を引く私に、しかし彼女は一歩こちらへ踏み出してきた。

『ほら、早くしないと。イグニスたちは封印を解きに行ったんでしょう?今頃困ってるかもしれないわ』
「ちょ、ちょっと待って――」

 ――怖い。
 振り払おうとしても、掴まれた腕はびくともしない。
 何これ、ものすごい力……!
 それでも精一杯抵抗しようとしながら、必死にもがいた。

「だめです!イグニス様に、もうあの場所へは、行くなって言われて――」
『貴女……イグニスの言うことなら何でも聞くの?』

 ぐさり、と彼女の言葉が胸に突き刺さる。
 今の私は……そう言われても、仕方ないのかもしれない。
 頭ではわかっていても、思わず彼女から顔を背けてしまった。

「そういう、わけじゃ……」
『ならいいじゃない。封印を解くために、必要なものを取ってくるだけだもの。あの人の為に、何かしたいんでしょ』
「でも……」
『貴女にしか、できないことよ』
「…………」

 私にしかできないこと――。
 その言葉に、どくんと全身に鼓動が響いた。
 だめだ……焔さんには、ああ言われて――。
 俯いて黙った私の腕を、アイビーが放した。
 今度はひやり、と。
 両肩に彼女の手が掛かる。

『これは、イグニスのためにやらなくちゃだめなの。やらなくちゃいけないことだって――貴女も、わかってるはず』

 ――目が。
 至近距離で覗いた、彼女の瞳。
 色褪せた彼女の全身の中で、その瞳だけが、やけに鮮やかな翡翠色に見える。
 ――あ、あ。
 ――――わたし、は。
 にい、と。
 彼女の唇が、優しい曲線を描く。

『さあ――戻りましょう』
「うん……私、行かなくちゃ」

 私は、宝石池に行って――鍵を、取らなくちゃ。
 私、にしかできない――焔さんの、ため、の――。
 一歩前に出した足が、ふわりと雲を踏むような感触になる。





 ――その感触を、知っていたはずなのに。
 力を失った指先から荷物が落ちて、中身が床に散らばった。
 焔とお揃いにしたマナペンも、カラカラと音を立てて床を滑って……本棚にぶつかって止まった。
 影から出てきた妖精フィイが、ふわりとマナペンに近づくけれど、梨里はそれに見向きもせず、ふらふらと前へ進む。
 翡翠色の蝶に導かれて、再びその古い扉をくぐった。
 むわりと蒸し暑い、夏の夜の森。
 すっかり宵の帳が降りた森の中を、蝶の後をついて走り出す。
 頭の中は、一つのことでいっぱいになっていた。




しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

異世界バーテンダー。冒険者が副業で、バーテンダーが本業ですので、お間違いなく。

Gai
ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:6,336pt お気に入り:643

9番と呼ばれていた妻は執着してくる夫に別れを告げる

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:99,465pt お気に入り:3,185

婚約者の義妹に結婚を大反対されています

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:52,931pt お気に入り:5,008

処理中です...