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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶
130.翡翠色の水底
しおりを挟むがさがさと、耳障りなほど大きな音を立てながら、ただひたすらに夜の森を駆けていく。
視界には、目の前を飛ぶ翡翠色の蝶しか映らない。
「はぁっ……はっ」
息を切らして走る身体は、思ったよりも軽く感じる。
一歩、また一歩と地を蹴る足が軽すぎて、ふわふわと浮いているような気さえした。
真っ暗な森の中、道なんてない場所を茂みをかき分け進めば、頬や手足に切り傷が増えていく。
どれだけ走ったのかもわからない程に走って、走って……。
その茂みを飛び越えた先は、月の光が眩しい程に感じる、開けた場所だった。
目を細めた先に、きらきらと輝く光の波。
淡い月光を吸い込んで、水底から美しい光を放つ宝石池が、眼前に広がっていた。
どこをどう走ってきたのかなんてわからないけれど、どうやら村を避けて、森の中だけを走ってここまでたどり着いたらしい。
村の外からここまで、どれだけの距離があるというのか。
ぼんやりと意識した瞬間、肺が焼けるような息苦しさを感じて、その場にしゃがみ込んだ。
「……っ、はっ……ひっ」
喉の奥が、痛い。
首元を掻きむしるようにぐしゃりと握りしめ、がくがくと震える足は地面に投げ出す。
……苦しい。息が、吸えない。
翡翠色の蝶は、ひらりと大きく翅を翻して、また一瞬でアイビーの姿へと変わる。
しゃがみ込む梨里の傍らに立った彼女は、気遣わしげにその背に手を添えた。
『……ごめんなさい。でも時間がないの』
「……?」
『封印はね、本当はもう限界なのよ。でも、正しい方法で解除されなきゃ、あの人の願いは叶わない……。全部無駄になってしまう』
……何を、言ってるんだろう。
未だ息が整わず、咳き込むだけの私はまだ話せない。
『貴女にしかできないことなの。辛いだろうけど、ほら、立って』
「……うっ」
まただ。
あの冷たい手に上腕を掴まれ、全身に震えが走る。
そのまま無理に立ち上がらせようとするアイビーの手を、突然横合いから伸びてきた手がばしりとはねのけた。
「っ!」
支えを失った私は、そのまま派手に尻餅をつく。
『……っ、邪魔しないで!ヴィオラ!』
アイビーの険のある声に、つられてはっと顔を上げた。
「まったく……昔と変わらないなぁ。大人しいのは見た目だけか?アイビー」
私とアイビーの間に、すうっと現われたのはアイスブルーの綺麗な髪。
不機嫌そうな顔をした女賢者――ヴィオラが、水色のローブを翻していた。
呆然とした私の前、2人は険しい表情で睨み合う。
『時間がないの!今にも、イグニスが奥に行ってしまう!』
「そんなの知ったことじゃないな。先に進めなきゃ帰ってくるだろうよ」
『それじゃ困るのよ!もう封印は保たない……!』
「お前とザフィア坊の勝手に、イグニスを巻き込むな。ゴーストだなんて、そんな中途半端な存在になってまで、お前もどうかしてる」
『これは私が引き受けたことよ。そもそも、イグニスのせいでザフィアはずっと心を痛めていたんだから!』
「そうだとしても、イグニスとこの小娘を巻き込む正当な理由になぞ、ならんだろうよ」
『正当な理由……?そんなもの、なくったっていい。私は、ザフィアのしたいことを叶えてあげるの!』
アイビーの手が、私へと伸びてくる。
それを再び、ヴィオラの華奢な腕が払った。
苛立つように叫び声を上げたアイビーの周囲に、青い炎がめらりと揺らめく。
布を引き裂くようなその声に、氷水を全身に被ったみたいに肌が粟立った。
「――っ!なんだお前、もう理性が限界なんじゃないか」
にやりとヴィオラが言った言葉。
対峙する2人の姿を余所に、私はようやっと整ってきた呼吸と共に、意識も取り戻し始めていた。
――……どうして、地面に手をついているのだろう。
全身がものすごく痛いのは――そうだ、走ってきたんだ。
どこから……そう、リブラリカからまたこっちへ戻ってきて……まっすぐ、ここへ。
少しだけ顔を上げれば、夜闇の中、美しく幻想的に煌めく宝石池。
それを認識して、私は目を見張った。
――どうして。
焔さんに、もう近寄るなと言われていたのに……私は……。
そうだ、アイビーに会って。
私……また、操られたんだ!
ぎゅっと歯を食いしばって、未だ言い合いを続ける2人の様子を窺う。
『邪魔しないで!私の……っザフィアの邪魔を、しないで――っ!』
「うるさい……!ちっ、ゴーストになった分、もっとやっかいになったな!」
――どうしよう。
危ない目に合わないように……こういう目に合わないようにと、焔さんは遠ざけてくれたのに。
結局こんなふうに、危ない目にあってしまって。
……でも。
今更後悔したって、焔さんが助けてくれるわけじゃない。
毎回……守ってもらえるなんて、思ってばかりじゃだめだ。
そうだ、だから私は、自分の力でここにあるという鍵を、手に入れなきゃって。
じり、とふたりから後ずさりをすると、手が冷たいものに触れた。
いつの間にか、すぐ背後には宝石池があったようだ。
「――おい、小娘!」
突然呼ばれて、びくりと身を竦める。
こちらへ声を張り上げたのは、両手に白く煌めく氷の粒子を纏わせたヴィオラだ。
「お前、いつまでもそんなとこにいないで、さっさとどっか行け……!」
『リリー!貴女は早く、池の中へ!イグニスへ鍵を!』
すかさず、アイビーからも声が上がる。
「わ……私」
「何してる!早く行けって……!」
苛立ったように手を振ったヴィオラから、小さな氷の粒が飛んできて、頬を掠めた。
一瞬ちり、と熱が走るけれど、そんなものに構っていられない。
どきどきと、心臓は早鐘を打って。
足下はがくがくして頼りない。
それでも、それでも私は。
――いつまでも、何も出来ない小娘でなんて、いたくない……!
「――っ私、は!鍵を……っ」
「はぁ?!」
「鍵を、取ってきます……っ!」
震えてひっくり返って、みっともない声で叫ぶように言った。
目の前では、よく分からないままに氷と風の魔術がぶつかり合い、周囲はとんでもなく激しい風が吹き荒れている。
対峙するアイビーとヴィオラ。
喜んだような声を上げたのは、もう女性の姿を保てていないような状態のアイビーか。
吹雪の中心から、盛大な舌打ちが聞こえた。
「馬鹿らしい……っ!そんなに死にたいなら、いってくればいい!!」
すかさずこちらに走ってくるアイスブルーの美少女の姿。
それが目の前まで来たと思ったら――。
ドン。
走ってくる勢いをそのままに、ヴィオラの細い身体に思い切り突き飛ばされる。
視界がぐるりと回って、一瞬見えた綺麗な夜空。
次の瞬間には、全身が冷たい水に包まれていた。
ボコボコと、空気の音が鼓膜に響く。
驚いたのは一瞬。
――鍵は、どこ?!
必死に周囲を見渡せば、目当てのモノはすぐにわかった。
「――っ!!」
宝石池を満たす、輝きの源。
水底の中央に、光を放つ大きな石の像があるのが見えた。
思っていたよりだいぶ広くて、深い池だ。
クリアな視界に、見たこともないような植物や魚が映り込むけれど、私はただ必死に、ソレを目指して水底へと泳いでいく。
――息が、続くだろうか。
いや、続かせるんだ。
何が何でも、鍵を手に入れるんだ――っ。
先ほどまでの全力疾走で疲れ果てていた身体は、わずかもしないうちに悲鳴を上げ始める。
それに耐えて、ひたすらに潜っていって……。
水底に静かに佇む、女性の石像。
それは両手の平を、胸元の辺りで揃えて上に向けている。
祈るように、何か大切なものを抱きしめるように。
目を閉じる女性の像は、アイビーの姿そっくりだ。
――う。
息が苦しい。
意識が遠のくけれど、ここまで苦しければ……多分、ここから水面に戻るまで間に合わない。
後戻りなんて、できない。
――しない。
最後の力を振り絞るようにして、その石像へ手を伸ばす。
どんどん見えなくなる視界。
もう、息が続かない。
ごぼ、と音を立てて、耐えきれなくなった私は大量に水を飲み込んだ。
伸ばした手から力が抜ける――直前に。
指先が温かい何かに触れた気がして……。
――私の意識は、完全に暗転した。
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