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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶
131.向こう側
しおりを挟む濃いマナというのは、重く感じるものだ。
多少なりとも魔力のある人ならば、息苦しさも感じるかもしれない。
だがこれは……この、ザフィアの気配がするマナが満ちた空間は、規格外だ。
魔力のない人でも、この場に留まれば体調に異変をきたすだろう。
そのくらいとんでもない濃度のマナが満ちている道を、さらに先へと歩いて行く。
やがて、後ろからついてくる王子の足音が、ひたひたと水気を帯びて聞こえ始める頃。
通路両側の壁はいつのまにか土がむき出しになっていて、空気も壁も、床まで湿り気を帯び始めていた。
「……なんだか、湿気がひどいな」
ライオット王子の声がする。
確かにこれは、水場でも近くにあるのか、ものすごく蒸し暑くなってきている。
背中にじとっとシャツが張り付いて、とても不快だ。
彼の言葉に内心同意しながらも、俺はその声に返事をしないままに歩き続けた。
そうして足を動かし続けた先、耳に届いたのはさああ、というノイズのような音。
――これは。
むん、と一際湿度が上がる道を進むにつれ、その音はどんどん大きくなっていき……やがて轟音になった。
やはり、間違いない。
これは水の音だ。
大量の水が流れている音……例えば、大きな川や、滝のような……。
「……っ、大賢者、あれ……っ!」
轟音にかき消されそうになりながら、ライオット王子が行く先を指差した。
真っ暗な道の先、ふわりと淡く光を放つのは、こんな穴蔵に似つかわしくない、紺色の豪奢なカーテンだった。
分厚く、年月にむしばまれてもなお、高級なものだと分かるそのカーテンは、こちらの行く手を阻むように道を塞いでいる。
上品な紺色の地に、銀色の刺繍と房飾り……。
懐かしい。かつて、ザフィアが王太子時代から使っていた配色だ。
そっと手を伸ばして布地に触れようとすると、あと少しというところで透明な壁に阻まれるように、手が進まなくなった。
「……ん?」
「どうした?……え?あれ?」
背後に追いついたライオット王子も、同じように手を伸ばすが――やはり何か、壁に阻まれるようにして、布に触れることができない。
「どうやらこれは……もう一つ、封印のような何かがあるみたいだね」
「え?封印?ってことは、ここも何処かに台座が……」
「……ない、な」
「…………」
そう、ここには先ほどのような台座はない。
ただこのカーテンが道を阻んでいるだけで、飾り紐が垂らされていることもなければ、何かの鍵穴になりそうなものもない。
カーテンまわりにかじりつくようにして探している王子に構わず、目に見えぬものを探ろうと目を閉じるけれど――。
魔力を感じるのは、この目の前にあるカーテンだけ。
それ以外には、本当に何もないようだ。
その上、どうやらこの場所は、とてもやっかいな場所らしい。
いつも感じることのできるリブラリカの気配が、まったくわからない。
あそこは自分の魔力で作った空間――最奥禁書領域を含んだ、いわば自分のテリトリーだ。
別の世界に居たって集中すれば感じられるはずの、あの場所の気配がまったく探れない。
……なるほど、これはもう、何かの結界の中にいるようなもの、なのだろう。
おそらく、ザフィアの作った彼自身のテリトリーで、外とは色々なものを遮断する結界のようなものが張られている……と考えるのが妥当そうだ。
――困ったな。これじゃ、梨里の居場所も感じ取れない。
無事にリブラリカに帰ったはずだけど……妙に胸の奥がむずむずする感じの理由が、悪いことでないことを祈るばかりだ。
「…………はぁ」
「ん?何か言ったか?」
「何も」
思わずついた溜息を拾って、王子が轟音に負けじと大声で話し掛けてくる。
不快な湿気に、轟音に、面倒な封印。
いや、なんだかもう……古い友人を一発殴ってやりたくなってきた。
わざわざこんな,面倒くさいことしやがって……。
「なぁ、これ、どうするんだ?」
「何だって?」
「どうするんだ、って!……ああもう、水の音がすごいな!」
王子が叫ぶように話しながら、肩を竦めて耳を塞ぐ。
確かに、これほど近くに居ても会話するのには大声を出さないといけないほどだ。
きっともう、音の元はすぐ近くにある。
だが――。
もう一度、カーテンへと伸ばした手は、やはり阻まれた。
先ほど地上の封印を解くために傷つけた指先を押しつけてもだめ、となると、こちらの封印にはさらに別の鍵が必要になるようだ。
これだけ探しても何もないのだ。
恐らく、もうひとつの鍵は、ここではない別の場所に保管されているのだろう。
魔術書の封印を解くための鍵は、彼女が教えてくれたものの他に、もうひとつあったということだ。
――アイビーのやつ、中途半端な教え方を。
無意識に舌打ちをしてしまったけれどまぁ、この轟音なら王子には聞こえなかったろう。
肩の上に乗る使い魔が、半眼でこちらを見ている気がしたので、手で払い落としておいた。
とにかく、このままでは先に進めない。
王子に一旦戻ると伝えなければ――。
そう思って、口を開きかけた瞬間だった。
――かしゃん、と。
轟音の中だというのに、何処かで何かが噛み合うような音が耳に届いて、カーテンがその微かな輝きを少し強めた。
「!」
風もないのに、カーテンがふわりと軽く揺れる。
ぱっと王子と顔を見合わせて――そのまま、流れる動作で王子を突き飛ばした。
カーテンの向こう側に。
「わあああっ?!」
轟音の中でも聞き取れるような、盛大な声を上げて王子が転がっていく。
その身体は無事にカーテンの向こう側へと消えた。
よく聞こえないが、向こう側から何やら文句を言っているような声も聞こえてくる。
……よし、何ともなさそうだな。
「……お前……」
足下から何か言いたげな視線を感じたけれど、それにはにっこりと貼り付けた笑みを返しておいた。
「だって、罠とかあったら危ないだろ?」
「お前らしいよ、まったく」
「使い魔のくせに偉そうにいうな」
手をひらひらと振ってみせて、カーテンへと向かう。
今度は先ほどのように阻まれることはなく、さらりと上質で滑らかな手触りが指先に触れた。
重たいカーテンの隙間から、向こう側へするりと身体を滑り込ませる。
水の膜を通り抜けたような、結界を越えた感覚があってすぐ、あれほどまでに響き渡っていた轟音が、ぴたりとやんだ。
「――っ」
暗闇に慣れた目に、柔らかな光が眩しい。
「おいっ!見ろよ大賢者……!」
興奮気味の王子の声に、何とか細く視界を開ける。
不思議と轟音はもう聞こえないのに、目の前に広がるのは流れる水のカーテン。
緑の蔦と長く続く水のカーテンに囲まれた、そこは小さな洞になっていた。
懐かしい、800年前の意匠のランプが洞の天井から吊され、壁にはザフィアの色の布が掛けられている。
壁際には本棚が並び、机や椅子、長椅子やローテーブル、ベッドまで調度品が揃っている。
かつての友人の匂いまでするような気がして、胸がぎゅっと締め付けられた。
魔術がかけられているのか、大きな滝の裏だというのに、湿気や水しぶきは一切ない。
埃も全然積もっておらず、つい先日まで誰かが使っていたかのような生活感までそのままだった。
おそらくここは、ザフィアの隠れ家のひとつ。
濃い友の気配に圧倒されている自分がいた。
呆然と辺りを見回す王子と自分の隣で、アルトがはっと何かを見つけたようだった。
「イグニス!」
その声に我に返る。
アルトが示した視線の先――。
整えられたベッドの中央に、薄紫の輝きを放ち、この空間で一番強いマナを放つ『煌めく何か』が置かれていた。
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