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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶
139.ロランディアの夜に<2>
しおりを挟む「ここに来てから、どれくらい経ったっけ?俺たち」
ぽつり、と零された声に振り向けば、王子は一般書架を眺めながら、穏やかな表情をしていた。
「そう、ですね……そろそろ1ヶ月くらい、だったかな?」
彼の横顔から視線を逸らして、同じように書架を眺めながらそう答えた。
あっという間だったような気もするけれど……多分、それくらいは経っている。
1ヶ月、と言葉にすると、短かったように感じた出張の時間が、随分と濃いものだったように感じた。
「ああ……うん、そうだな。それくらいだ」
ふう、と大きめの溜息の後に、彼が肩に掛けていた上着が、さらりと揺れた。
「どうしても、直接君に、礼が言いたかったんだ」
「私に……?」
思いがけない王子の言葉に、首を傾げる。
特に何も、お礼を言われるようなことをした覚えはないのだけど……。
「ここにいた間、ずっと一緒に調査してただろ?……リリーと過ごした時間、本当に楽しかったから」
「殿下……」
「王子として城にいては、絶対に経験することのできない日常だった。調査は……なかなか成果がでなかったりもしたけど、子供たちと過ごす時間も、村を歩いてる時間も、どの瞬間も楽しくて仕方がなかった。そんな毎日を、一緒に過ごしてくれた君に……友人として、一緒にいてくれた君に、心から感謝している」
優しい声から伝わってくるのは、王子自身の温かい気持ち。
王子という生まれながらの枷が、ほんの少しでも外れたここでの日常は、どれだけ開放的だっただろうか。
彼の細められた薄紫の瞳を見つめて、私も笑顔を返した。
「私の方こそ、毎日楽しかったよ。迷惑を掛けてしまったこともあったけれど……いつも、殿下から元気を貰ってた」
「それなら良かった。……今度王都に帰ればもう、こんな時間は二度と過ごせないだろうから」
「…………」
語尾に滲んだ寂しそうな色に、上手く返す言葉が見つからない。
こんなに近くにいるのに、自分を友人と言ってくれるこの人を、勇気づけてあげることもできないなんて……。
そんな自分は嫌だ、と、膝の上で拳を握りしめる。
何とか、彼に言葉を掛けたい。
上手じゃなくても、下手でもいいから……私が友人でいるってことを、伝えたい。
「確かに、お城に戻ってしまったら、ここにいた間のように過ごすことは難しいかもしれないけど……。でも、私もマスターも、会おうと思えばいつでも会えるじゃないですか!」
ライオット王子の目を見て、必死で絞り出した言葉を口にする。
「あ、えっと……王子様のお仕事してたら、そんな簡単ではないかもしれない、ですけど……っ。でもほら、お城とリブラリカって結構近いじゃないですか!こう、ちょこっと抜け出してくるとか……それも難しかったら、呼んで頂けたら私、お城まで会いに行きますし……!」
クス、と小さく笑みを零して、王子が自身の膝の上に頬杖をつきながら微笑んだ。
「それは、あの頑固な大賢者が許してくれそうにないけどな」
「あー、確かに……って、いやいや!その時はその時ですよ!私、ちゃんと説得するから……!」
「それよりは、俺がリブラリカに忍び込むほうが、簡単な気がするけど」
「なら、お待ちしてます!美味しいお菓子食べながら、お茶でもしましょう!」
「お茶か。うん、いいね」
何を言っても、彼の表情から寂しそうな色が消えない。
そんなに、城に戻るのが嫌なのだろうか……と、心配したのが顔に出ていたのだろうか。
私の肩をぽん、と叩いて、ライオット王子がこちらの心を読んだように言った。
「そんな顔するな。元から分かっていたことだからな……。俺はこのオルフィードの王子だ。それ以外の何者でもない。それは、納得していることだから」
「そう……ですか」
初めて会った時に聞いた、寂しげな声を思い出す。
あの出会いから時間が経って、彼も多少は窮屈な日常を抜け出したのかと思っていたのだけど……。
「……何か、悩みごと……、ですか?」
何となくだけれどそんな気がして、躊躇いがちに声を掛けてみる。
その勘は、当たっていたようだ。
「あー……まぁ、悩み、というか。うーん」
私の問いかけに一瞬、目を丸くした彼だったけれど、すぐに苦笑してまたひとつ、大きな溜息を空に吐き出した。
「よかったら、聞いてくれるか?」
「うん。私で良ければ」
「友人である君にこそ、聞いてもらえたら嬉しい。……まだ、公にはなっていない話なんだけどね……。王都に帰ったら、婚約することになったんだ」
「……えっ」
こんやく……って、婚約?!
まぁ、王子様といえば……そういうのって、物語には良くある、けど。
何だか久しぶりに、現実感の薄い、ファンタジー系の物語でよく見るようなことを聞いて、ここが異世界なんだってことを改めて実感する。
元の世界ではそんなの、身近にあることではないけど……ここは元の世界とはまったく違う世界にある――貴族がいて、魔法もある、そんな王国。
そういえば、オリバーだって。
同じ貴族同士だというのに、シャーロットとの家の格差で、彼女への恋心を我慢しようとしていた。
上流階級の貴族社会ではきっと、婚約話なんて珍しいことではないのだろう。
王子様ともなれば、婚約をして、お妃様になる人とと結婚して……そんなのが、当たり前なんだ。
「婚約……。その、お相手は恋人さんとか……?」
せめてそうあってほしい、と願いを込めて尋ねたけれど、王子はふるふると頭を振った。
「いや。父上が決めた相手だ。まったく知らない人でもないし、相手に不満があるわけでもない。が……ついに、この時が来たか、という感じでさ」
ついに、か。
その言葉が何となく辛そうに聞こえるのは、どうしてだろう。
「いずれ王になる身として、いつかは婚約者を迎えなければならないことはわかっていたんだ。立場上、自由に相手を選べるとも思っていないし。国のために、一番利益となる相手を迎える。ただそれだけ、なんだけどね……」
言いながら、ライオット王子が立ち上がる。
すらりとした高身長で、うーんと上に伸びをすると、両手が天井に届きそうに見えた。
彼の形の良い唇から、はは、と乾いた笑いが零れる。
「なんて言ったらいいんだろう……少し、複雑なんだ。国のため、必要なことだって理解はしている。だが……そのために婚約をした相手と、俺は上手くやれるだろうか、とか……。相手は、国のためにと俺と婚約をして、悲しんだりしないだろうか、とか、考えてしまって。だめだな、俺」
「そんなこと……ないです」
思わず、そう呟いていた。
「ん?」
聞き返される声に、ぎゅっと唇を噛み締める。
役目と立場と……理屈だけでは、感情がついて行かないこともあるだろう。
それは、目の前にいるこの人が――。
「……殿下は、優しい人だから」
「…………」
「だから、そういうの……気になっちゃうんですよね」
初対面の時は――従者たちに、偉そうに勝手なことばかり言っている姿を見たときは、あまり良い印象は受けなかったけれど。
一緒にいれば分かる。
ライオット王子は、とても優しい人だ。
王子という立場があって、その振る舞いから、分かりづらい時もあるけれど。
心根はとても優しい人なのだ。
「……そんなこと、ない。俺が優しい人間だったなら、相手のことを考えて、この婚約だって受けなかったはずだから」
「そうなんですか?お相手の方は、殿下と婚約したら何か、問題が?」
彼の顔は見えないけれど、声のトーンがほんの少し落ちたことに、首を傾げる。
ライオット王子は、再び私の隣に腰を下ろすと、長い足を組んで天井を仰ぎながら、目線だけこちらへと向けた。
「リリーは、彼女の友人だったよな?シャーロット・ロイアー。リブラリカの副館長」
「…………え?」
さらりと告げられた名に、一瞬頭が真っ白になる。
「彼女がリブラリカの仕事を頑張っているのは知っている。だが、正式に婚約するならば仕事を辞めて貰うことになってしまうから、なんというか……俺も、心苦しくて」
え、待って。
シャーロットが、殿下と婚約……?
リブラリカを、辞める?
……そんな、嘘でしょ。
「だがな……条件が良すぎたんだ。名門ロイアー家の才女。当主代理として、リブラリカの副館長を務めてきた手腕……家柄に年の頃、今王国にいる年頃の貴族令嬢の中で、一番王子妃にふさわしいとされる令嬢だったから……」
その後、殿下とどんな話をしたのか、あまりはっきり覚えていない。
ただ、どうしても冷静になれなくて……眠くなってしまったと嘘をついて、早めに部屋へと送ってもらった。
帰ってきた自室では、アルトが既に、ベッドの上で丸くなって眠っている。
羽織っていたカーディガンを脱いで、もぞもぞとベッドに潜り込んだ後も、私はずっとなにもない場所を見つめてぼーっとしていた。
ふと思い出したのは、みんなで下町に買い物に行った時、オリバーが、シャーロットを見つめていたあの表情。
ぎゅ、と、シーツを握りしめる。
今夜はどうしても、眠れそうになかった。
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