にゃむらい菊千代

深水千世

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片翼の香水瓶

異変

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 一方、エミさんは脇道を進み、再び本殿の前に戻ってきた。これで骨董市はひととおり見て回ったことになる。
『さて、どうしようかな』
 鳥居に向かいながら店に目を走らせるが、めぼしいものはない。というより、さきほどの香水瓶が気になって、集中できないのだ。
 バッグの中を覗き見ると、香水瓶が日差しを受けて鈍く輝いていた。
『どうしてかしら。落ち着かない』
 妙に胸騒ぎがした。言いようもない、焦りにも似た苛立ちに襲われる。さっきまでゆっくりランチでもしようと考えていたのに、そんな気分はどこかへ吹き飛んでしまっていた。
 恋しい。ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。まるで頭の中にもう一人自分がいるように、声が聞こえた。
 恋しい? 誰が恋しいの? 
 自分自身に問いかけると、今度は無意識のうちにこう呟いた。
「そばにいなきゃ」
 誰のそばにいるべきなのか、どうしてそんな風に思ったのかわからないまま、心が急いて歩調も早くなる。
 いつしか、エミさんはランチのことなど綺麗さっぱり忘れ、まっすぐ駅に向かっていた。電車が来るまでの十五分が何時間にも思え、歯がゆい思いで何度も時計を見た。やっと着いた電車の座席に座ると、どっと重い疲れが頭にのしかかった。
『なんだろう、すごく会いたい』
 ダイキの顔が一瞬よぎったが、すぐに首を横に振った。確かに息子がどうしているか心配ではあった。出産して以来、片時も離れたことがないのだ。しかし、ミヨさんは三人もの子どもを立派に育て上げた人だ。安心して任せていられた。それに、育児からいっときでも解放された快さは否めなかった。
 それではカンさんだろうか。そう考えたものの、やはり違う気がする。夜になれば必ず家に帰ってくるのだ。今すぐに会わなければ、とは思わない。
 そこでエミさんは携帯電話を取り出した。ロック画面にはロッキーの画像が設定してある。そのグリーンの瞳を見つめ、きつく唇を噛み締めた。
 ロッキーは香川県にいたときからずっと一緒にいる猫だ。そして、ある男との過去を共有する存在でもある。愛おしい反面、この緑の目には自分はどう映っていたのかと怖くなる。
『今になって、どうしてかしら』
 心の中で一人の男の名を呼んだ。懐かしく、そして切なさを感じる名前だ。
『どこで何をしているのやら』
 エミさんは座席の背もたれに身を預け、再び大きなため息を漏らした。
 エミさんが家に戻ったとき、ダイキはすやすやと寝息をたてていた。玄関に出迎えたミヨさんが目を丸くする。
「もう帰ってきたの? まだお昼にもなってないのに」
 時計の針は十一時を過ぎたばかりだった。
「なんだか落ち着かなくって」
「そうか、やっぱり今までずっと一緒にいたんだもんねぇ。掘り出し物はあった? 何か買ってきたの?」
「あぁ、これを」
 エミさんが香水瓶を取り出した瞬間だった。寝ていたはずのダイキが、わっと泣き出した。
「まぁ、すごい泣き声だこと」
 ミヨさんが目を見張った。
「今の今までずっとおとなしかったんだけど、どうしたのかしら。ママが戻ってきたってわかるのかな」
 ダイキの泣き声は、エミさんですら今まで聞いたことのないものだった。空腹を訴える声よりも荒々しく、あっという間に顔が真っ赤になった。身をよじって泣き喚く彼を抱こうとするミヨさんに、「あとは私が」と慌てて制する。
「それじゃ、私は店に行くわね」
「はい。ありがとうございました。マチさんによろしく」
 ドアの向こうにミヨさんが消えると、「よしよし」と抱き上げてあやしにかかる。しかし、彼の泣き声は一向に止む気配がなかった。
 オムツは綺麗なままで、ミルクを飲ませようとしても哺乳瓶をくわえない。手の施しようもなく、次第にエミさん顔に焦りの影が見え始めた。
 ロッキーとマリア、そして菊千代も呆気にとられてその様子を見ていた。
「若は一体、どうしたでござるか」
 そう呟いた菊千代だったが、すぐに微かな違和感にヒゲをピンと張った。
「むむ。異様な臭いがするでござる」
 鼻をひくひくさせる菊千代に、ロッキーが首をかしげる。
「臭い?」
「ふむ、なにやら鼻につくでござる」
 そう言うと、彼は辺りを見回し、「あれだ」と小さな声を漏らした。駆け寄ったのは床に置かれたままのエミさんのバッグだ。
「これが怪しいでござる」
 もぞもぞとバッグに顔をつっこむと、バッグが倒れて香水瓶が転がり出た。
「これは何だ?」
 ロッキーが顔をしかめた瞬間だった。床に倒れていた香水瓶がひとりでにコトコトと小刻みに揺れだした。
「離れろ!」
 咄嗟にロッキーが叫ぶ。三匹が慌てて飛び退くと、香水瓶の蓋が微かに外れ、中から何かが漏れ出した。
「なんでござるか、これは!」
 香水瓶から噴き出したものは噴煙のようにあっという間に部屋に充満し、辺りを白く染める。
「殿中でござる! 殿中でござる!」
 パニックになった菊千代が叫ぶのを、ロッキーがたしなめた。
「落ち着け。それからお前、その台詞の意味、ちゃんとわかってないだろ」
「若は無事でござるか?」
「無事だ。見ろ」
 ロッキーがエミさんを顎で指し示す。
「よしよし、お願いだから泣かないで」
 彼女は相変わらず泣き喚くダイキを必死にあやし続けている。しかし、白く漂う煙を見たダイキはもっと激しく泣き出していた。
「母上にはこの煙が見えていないようでござるな」
「そのようだな」
 マリアがぼやいた。
「なによこれ、エミさんってば、何を持ち込んできたのよ?」
 エミさんはそんな猫たちの様子にも気付かず、ダイキの背中をさすりながら、懇願するように囁くばかりだ。
「お願い、泣きたいのはこっちなの」
 エミさんの顔が歪んだ。止まない泣き声に焦りと苛立ちの入り混じった重苦しい感情がこみ上げる。
 骨董市で久しぶりに息抜きできたはずだった。それなのにもう途方に暮れて行き詰まっている自分がいる。エミさんは奥歯を噛み締め、喚きたいのを必死にこらえていた。
 子どもは愛おしい。けれど、同時に投げ出したくなるときがある。今まで普通にこなせていた家事や食事はおろか、トイレに行くことすらままならなくなった。何もかも忘れて好きなだけ貪るように眠れたらどんなにいいだろう。今日のように誰かに数時間でもいいからダイキを預けられたらどんなにいいだろう。
 しかし、香川県から嫁いできたエミさんには、群馬県に親戚も友人もいなかった。姑は高齢で膝が悪く、赤ん坊の世話を頼むのは躊躇われる。彼女にとって、頼れる存在はカンさんだけなのだ。しかしその夫にも『仕事で疲れているだろう』と遠慮している。
 エミさんの胸を閉塞感が押しつぶす。その唇から「帰りたい」という言葉がぽつりと漏れた。両親も友人もいる香川県にいれば、少なくとも孤独感から逃れられるような気がした。
 そのときだ。噴煙が生き物のようにうねり、エミさんの背後に一斉に集まってきた。
 三匹の被毛が逆立った。煙はあっという間に一人の男の姿になった。何も知らずダイキを抱くエミさんの後ろにぴたりと寄り添い、その耳元に顔を寄せ、囁く。
「一人でいるのが辛いか?」
 菊千代の背筋に冷たいものが走る。それは低く、くぐもった声で、感情が読み取れないほど生気がない。
 男がそろりとエミさんの前に回り込む。その顔が見えたとき、ロッキーが「どうして、あいつが」と、目をむいた。
「ロッキー、あの男に見覚えがあるでござるか?」
「残念ながら、ある」
 憎々しげに呟くと、ロッキーが耳を垂らした。
「なんであいつがここにいる?」
「一体誰なのよ?」
「あれは……」
 ロッキーが言いかけたとき、煙の男が虚ろな目で口を開いた。
「なぁ、俺にはわかるんだ。あんたにも会いたい人がいるだろう?」
 男がふっと息を噴きかけると、一筋の煙がエミさんの鼻に吸い込まれていった。すると、エミさんが顔を上げる。泣き喚くダイキを見下ろし、男がなおも囁いた。
「そう、俺にはわかるとも。どうしてこんなところにいるんだって思ったことがあるはずだよ」
 エミさんの目から涙がこぼれ落ちた。かすれた声で「帰らなきゃ」と呟く。
 エミさんは涙で滲んだ視界の向こうに懐かしい影を見た気がしていた。次第に心がざわつき、揺らいでいく。頭に血が昇り、瞬きを繰り返す。
 男はそんな様子ににたりと口元を吊り上げた。エミさんが呟く。
「あの人と会える気がする」
 してやったりという顔で男が頷く。
「そうとも、会えるさ。あんたは会いに行くべきなんだよ。だって、そうやって思い出した人がいるんだから」
 エミさんがそっとダイキを横たえた。
「会わなきゃいけない」
 ダイキの泣き声がますます大きくなる。しかし、エミさんはバッグを鷲掴みにし、玄関へ走り出した。
「母上! どこへ行くでござるか!」
 慌てて後を追った菊千代にも構わず、彼女は家を飛び出してしまった。
 煙の男が高笑いをする。
「それでこそ人間だよ。欲深くて愚かな生き物だ」
 そして、顔を真っ赤にしているダイキに歩み寄り、白い歯を見せた。
「さて、話があるんだよ、赤ちゃん」
 ロッキーが鋭く叫んだ。
「霊体になるぞ!」
 三匹が一斉に「解!」と唱える。彼らの肉体が床に転がると同時に、侍姿の菊千代が颯爽と男の前に立ち塞がり、破邪の刀を向けた。
「おのれ、怪しい輩め! 拙者が相手でござる!」
 煙の男が「おや」と目を丸くした。
「妙な気配のする猫だと思ったら、生身じゃないのか」
「今はな」
 ボクシンググローブを構えたロッキーがにじり寄った。
「マリア、時雨と秋野を呼んでエミさんを追わせてくれ。ダイキを置いていくなんて、正気の沙汰じゃない!」
「わかったわ」
「それから骨董市へ行って、怪しい奴がいないか探るんだ。菊千代はダイキのそばを離れるな」
「あとは頼んだわよ!」
 すぐさまマリアが風のように壁をすり抜けて消えていった。菊千代が男から目を離さずに言う。
「ロッキーはどうするでござる」
 ロッキーは険しい顔で「俺はこいつと話さなければならん」と吐き捨てるように言う。
「罪という罪は在らじと、祓え給い清め給う」
 そう唱えた途端、彼のボクシンググローブは真紅の光を放った。それを見た煙の男が鼻を鳴らす。
「猫の分際で鬱陶しいものを持っているようだ。邪魔をするな」
「ぬかせ。今更のこのこと何の用だ。エミさんにちょっかいを出すな!」
「そうか、お前はこの男を知っているのか」
 煙の男がケタケタ笑う。
「残念ながら、俺は好きでこの姿になったんじゃない。あの女が心に残しているものが形になっただけなんだから」
「それでも、その姿を俺の前に見せるな」
 苛立たしげにロッキーが吠えた。
「ロッキー、この男は?」
 彼は吐き捨てるように言った。
「エミさんが香川で同棲していた男だ。そして、エミさんと俺を捨てたろくでなしのクソ野郎さ」
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