にゃむらい菊千代

深水千世

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夫婦のそば猪口

変化

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 その頃、菊千代たち三匹は肩で息をしながら、きりゅうと対峙していた。
 既に幾つもの霊を祓っていたが、まだきりゅうの体には苦痛に歪む物憑きの霊の顔が残っている。
「きりがないぞ」
 弾む息でロッキーが顔をしかめた。マリアと菊千代にも疲労の色が隠せない。
「もうおしまいか」
 きりゅうは醜く膨らんだ腕を振り回し、退屈そうに言った。
「そんなことでは儂を祓うのは無理そうじゃの。弁財天もたかが猫に力を託すなど、愚かしいことをしたものじゃ」
 その刹那、黙って見ていた時雨が牙をむいた。
「恐れ多いことを抜かすな!」
「なんじゃ、時雨。お前さんもかかってこんか。こいつらは所詮、猫。こんなものでは儂を鎮めることはできぬぞ」
 悔しさのあまり、菊千代が唸り声を上げた。そんな彼を見て、時雨が言う。
「たかが猫、されど猫。猫は愛情深い生き物だ。お前を祓えるのは、我ではなく、この者たちだと知っている。だからこうして待っているのだ」
「待つだと? 何を待っているのだ? このままでは挑発が過ぎて殺してしまうぞ」
「足音がするのだ。お前には聞こえぬだろうがな。なぁに、もうすぐだ」
「ふん、地獄耳だけが取り柄の神使が偉そうに。それではこの猫たちが倒れるのが先か、その足音とやらが届くのが先か、そこで見ておれ」
 きりゅうが猫たちに言い放つ。
「ほれ、その得物は飾りか? なんのために力を得た? かかってこんか。でなければ、お前たちの主は儂がいただいていこうか」
「させぬ!」
 菊千代が飛びかかると同時に、マリアとロッキーも後に続いた。
 きりゅうは突かれた刀を避け、マリアを腕で押し飛ばした。そこに襲いかかるロッキーの腕を掴み、ひょいと放り投げる。
「まだまだじゃの。そんなことでは主は守れんぞ」
 菊千代は自らの膝を強か打ち付けた。
「くそ! なんとかならぬのか」
「私たちの力がもっと強ければ」
「俺たちの体がもっと大きければ」
 猫はしなやかで俊敏ではあった。だが、きりゅうの前では小さく無力であった。
「こいつらを殺してしまえば、弁財天はもっと強い者を連れてくるかの」
 そう言って笑うきりゅうの目はぞっとするほど冷たく、濁っている。
 敵わぬ。菊千代は悟った。この化け物は息ひとつ乱れてはいない。それほどに力の差があった。
「若をお守りできぬのか」
 菊千代を絶望が包み込む。子猫の頃に死を意識したときにすらなかった無念の情に、涙が出そうになった。
 その隙をつき、きりゅうが菊千代に飛びかかった。小さな胸ぐらを掴んで高く掲げる。菊千代は必死に刀を振り回すが、きりゅうの腕に当たっても傷ひとつつけられなかった。
「やれやれ、時期尚早であったかの」
 きりゅうが肩をすくめたときだった。時雨がぽつりと呟いた。
「遅いぞ、秋野」
 旋風が巻き起こり、時雨の前に秋野の姿が現れた。彼女はただ耳をぴくりと動かす。その口には透明な玉を咥えていたため、答えることができなかったのだ。
「なんじゃ、それは」
 きりゅうが訝しげに目を細めたときだった。秋野が玉を空中に放り投げた。そして猛然と遠吠えを上げた。
 玉は一瞬にして三つに割れる。それぞれの欠片は三匹の猫たちの首輪につけられた銅板に吸い込まれ消えていった。菊千代が呆気にとられた瞬間、銅板から光が溢れ、周囲を真っ白に変えた。
「何事でござるか?」
 眩さになかなか目が開けられずにいる彼に、目の前で話しかける者がいる。
「久しいですね」
 両目をこじ開けると、そこに立っていたのは弁財天だった。
 ロッキーとマリアも、ぽかんと口を開けて弁財天を凝視していた。だが、きりゅうや狛犬たちの姿は見えない。
「弁財天様!」
 我にかえったロッキーが駆け寄り、ひれ伏した。
「お願いです。俺にもっと力をください。エミさんにこれ以上、悲しい顔をさせたくないんだ!」
 後に続くように、マリアが懇願する。
「私にもお願いします。カンさんの家族がめちゃくちゃになっちゃう! 私、もう自分の飼い主が寂しい想いをするのは嫌!」
 弁財天は菊千代を見た。
「菊千代、そなたはどうなのですか?」
「もちろん、拙者も若をお守りしたいでござる!」
 菊千代の脳裏に、ダイキとの日々が蘇る。ありふれた、しかし幸せで温もりに満ちた日常が失われると思うと、震えがくるほど怖かった。
 だが、弁財天は静かに首を横に振った。
「妾がそなたたちに託した物には祓戸四柱大神の力がこめられています。これ以上の力を下界の者に授けることはできません」
「そんな!」と、悲鳴にも似たマリアの声が上がった。
「それでは、このままきりゅうに好きなようにさせると仰るんですか? お願いします、ダイキを助けて!」
「マリア、時雨の言うことを聞いていなかったのですか? この家の赤ん坊を助けることができるのはそなたたちですよ」
「でも、このままじゃ歯が立たない!」
「では問います。力とは何か?」
 ロッキーが迷わず口を開く。
「きりゅうを倒せるものだ」
 マリアは少し考えてから、答えた。
「守りたい人を守れるものだわ」
「菊千代はどう考えるのです?」
「拙者にはわかりません」
 おずおずと、だが正直に彼は言った。
「けれど、一番わからないのは、弁財天様が何を仰ろうとしているかです。教えてくださいませ。こうしている間にも若は不安な想いをしているのでござる」
 弁財天はまるで歌うような笑い声を漏らした。
「そなたは素直ですね。それに、せっかちです。案ずることはありませんよ。今、下界の時間は止まっているでしょうから」
 そう言って、菊千代に音もなく歩み寄る。
「そなたは力が欲しいと言ったにもかかわらず、それが何かわからないと言う。仮に妾から新しい力を得たとして、そなたはそれを我が物にできますか? 硝子の器に灼熱の溶岩を注いでも割れてしまうように、あまりに強い力は身を滅ぼすのですよ」
 菊千代はハッと胸をつかれた。そして、大きなため息を漏らした。
「お恥ずかしい。焦っていたとはいえ、弁財天様に不躾なことを。拙者に必要なのは、勇気でござった」
「そなたの言う勇気とは?」
「持てる力を出しきり、若をお守りする覚悟を決める勇気でござる」
 そう言うと、菊千代は身を縮めた。そのヒゲがひゅんと垂れ下がり、耳は伏せられた。
「拙者は侍として未熟でござる。あわよくば生きながらえてもっと若と過ごしたい欲にかられ、弁財天様のお力添えを安易に願ってしまったでござる。でも、その前にこの命を賭して渾身の力をぶつける覚悟がもっともっと必要であった」
 弁財天は静かに頷く。
「今一度問います。何故そこまでして、何のために彼らを守りたいのですか?」
 三匹は顔を見合わせ、思わず笑みをこぼした。
「理由なんてないわよね」
「そうだ。だって、家族だからな。家族を守りたいと思うのは当然だ」
「滝沢家は拙者たちがこの手でお守りせねばならぬ。たとえ刺し違えようとも」
 弁財天は毅然とした顔の猫たちに諭すように語った。
「それでは力を従える覚悟をなさい。既にそなたたちはきりゅうを祓えるだけの力を持っているのです。祓戸四柱大神の浄化の光は持ち主の精神が成長すればするほど、大きくなります」
「家族だと言い切れる存在がある拙者たちは三国一の果報者でござる。あの団欒を守れるためならば、この命を賭しても悔いはござらぬ」
 深々と頭を垂れる菊千代の隣で、マリアが目をらんらんとさせた。
「刺し違えたらさ、私たちの寿命を分けてあげると思えばいいのよね」
「やれやれ。マリアは楽観的なのか無鉄砲なのかわからんな」と、ロッキーが肩をすくめる。
「俺の名前の元になったボクサーの言葉をちょいと借りて言うなら、俺たちはきりゅうが倒れたあとに立っていられたとき、家族だって証明できるんだ。だから俺たちは守りきって、生きるんだ。いいな?」
 そして、きっぱりとこう言い切った。
「生きようともがく者が、きっと一番強い」
 菊千代はハッと顔を上げた。
「そうでござるよ。拙者としたことがどうして忘れていたのやら。段ボールから逃げ出した日、拙者は生きることに必死でござった。時雨たちが拙者に力を託そうと決めたのは、その時でござる。きっと、彼らにはわかっていたでござるな」
 全身全霊で生きようと願いながら、愛する者のために戦うことを、時雨は期待したのだ。
 ふと、マリアが口を開いた。
「あのね、時雨が『猫は愛情深い』って言ってくれたじゃない? 私、最初はきりゅうを祓うつもりだったのに、ダイキを守りたいあまりに、いつの間にか『倒さなきゃ』って殺気立ってた。でも、それじゃあ、この力はうまく使えないって教えようとしてくれたんじゃないかしら?」
「そういえば、初めて刀をくれたとき、切るためのものではないと言っていたでござるな」
「ああ」と、ロッキーが頷く。
「俺も弁財天様に『力とは何か』と尋ねられて『きりゅうを倒せるもの』って答えたな。そうか、そうだよな。俺たちは傷つけるために立ち向かうんじゃない。猫が愛情深い生き物だっていうんなら、きりゅうも救ってやろうじゃないか」
 弁財天が、口元を柔らかく綻ばせた。
「よい顔つきになりましたね。健気な小さき者たちに、祝福を」
 胸元の銅板が再び輝きに満ちた。神々しい光は瞬く間に三匹を飲み込んでいく。
 眩しさに目がくらんだ三匹が瞼をこじ開けてみると、そこに立っていたのは三人の人間だった。
「菊千代! あんた、人間になってる!」
 そう叫ぶマリアは透き通るような肌をした修道女の姿だ。
「マリアもでござる!」
 若く凛々しい侍姿となった菊千代は歓喜に震え、潤んだ瞳で両手を見つめた。
「拙者、とうとう侍になれたでござるか?」
 すると隆々とした筋肉のボクサー姿になったロッキーが顔をしかめる。その薮睨みの顔つきは、猫だったときと変わらない。
「残念ながらなりきれたわけじゃないな。だって、耳と尻尾は猫のままだぞ!」
 三匹とも、顔や足、手など体は人間のものだった。だが、目の色と耳、そして尻尾は猫だったときと同じままである。
 ロッキーが思い切り拳を宙に打つ。
「人間の拳は重みが違うな。少しはきりゅうに対抗できるかもしれん」
 弁財天は厳かな口調で猫たちに語りかけた。
「互いの首元をご覧なさい。銅板の色が銀色となっているのが見えますか? それはそなたたちの有り様とともに姿を変え、ふさわしい形で力になってくれることでしょう。浄化の力と共に、精進なさい」
 そう言い終えると、弁財天の姿が無数の蓮の花びらになり、風に散った。吹雪のように花びらは猫たちを包み込み、周囲の光が眩さを増していく。
「お行きなさい」
 猫たちは弁財天の声を聞いた。首元から三つに割れた玉が浮かび上がり、乾いた音をたてて砕け散る。光が弾けた。
 気がつくと、彼らは母屋に舞い戻っていた。目の前ではきりゅうが眩しそうに顔を歪めていたが、菊千代たちの姿を見て目を見開いた。
「今の光は? お前たちのその姿は……そうか、お前たち、弁財天から力を得たな!」
 菊千代が刀を突きつけて静かに答える。
「否。拙者たちが得たのは力ではござらん」
 ロッキーがグローブを構える。
「俺たちが得たのは、家族の絆だ」
「罪という罪は在らじと、祓え給い清め給う」と声をそろえたとき、菊千代の刀は身の丈にあった長さに伸び、ぎらりと輝いた。ロッキーのグローブは重さを増し、ギターの弦は七色に染まる。マリアがギターを鳴らし、きりゅうを射抜くように見た。
 猫たちが一斉に駆け出す。きりゅうは武者震いをし、雄叫びをあげて迎え撃ったのだった。
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