にゃむらい菊千代

深水千世

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夫婦のそば猪口

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「あの父にして、この子あり」
 時雨と秋野が歩み寄る。彼らは光の壁を涼しい顔で通り抜け、ダイキの前に立った。
「この子の先祖は、徳の高い僧であった。彼の父親は自分の素質を知らぬが故に微力ではあるが、この家の者は代々悪しき者を寄せつけぬ力があるのだ。この結界は邪な者には灼熱であろう」
 菊千代は両手を打った。浄化されたミサヲが一転してカンさんの傍は心地いいと言っていたのを思い出したのだ。
「僕は父よりはそういうことに敏感らしいです。力の使い方を知っていますから」
 ダイキは可愛らしい声で言うと、菊千代たちにもっと寄るように手招きした。
「時間がない。今の僕にできることはこれくらいだ」
 紅葉のような手が、それぞれの得物をなぞる。見た目には変化がないが、ダイキが触れた途端、得物を持つ手に言い知れぬ力が伝わってきた。
「なんだか、刀が喜んでいるようでござる」
「僕の手は物に好かれる定めなんだ。少しだけ得物を勇気付けたんだよ。ありったけの想いをこめて打ち込んで」
 ダイキが話している間にも、きりゅうが何度も体当たりして光の壁を揺らし、その度に火傷でのたうちまわっていた。ダイキが小さなあくびをして尻餅をつく。
「守ってくれて、ありがとう。僕がもう少し大きくなって、君たちを抱きしめられるようになる頃には、もっと力をつけているから待っててね」
 ことん、と柔らかい髪の毛に包まれた頭が床に倒れる。
「若!」
 菊千代が慌てて覗き込むと、幼い主はスヤスヤと寝息を立てていた。それと同時に、結界が消え去る。
「おのれ、弁財天! おのれ、おのれ!」
 怒り狂うきりゅうがじたばたと火傷だらけの体で転げ回っていた。
 三匹は顔を見合わせ、頷き合った。手を通して伝わる得物の精気に昂揚した目には、かつてないほど強い光が宿っていた。
 真っ先にマリアがギターをかき鳴らすと、音が黄金色の光を帯びてきりゅうを覆った。旋律の中、悲鳴と怒号が空気を切り裂くように響く。菊千代とロッキーが一斉に駆け出した。
「……守り給え幸え給え!」
 きりゅうの鼻っ柱に刀とグローブがのめりこみ、大きな体がぐらりと揺れた。閃光が全てを呑み込む。
 菊千代は真っ白い景色の中、咆哮を聞きながら、ありったけの想いをこめて刀を振り切った。
「なんと、慈悲深い光であろうか」
 秋野が目を細め、思わず涙を流した。天から祓戸四柱大神が降りたち、きりゅうを優しく包み込んでいる。
 きりゅうの体から、あの老人の姿がむくりと湧き出した。彼は飄々とした声で「観念するか」と呟き、神々と共に天へ昇っていく。残された体はみるみるうちに干からび、ぬめぬめとしていた皮膚が固くなっていた。
「ああ!」
 不意に、菊千代が自分の体を見て悲鳴に近い声を上げる。
「猫に戻っているでござる!」
 持てる力を全て注ぎ込んだのだと気付くまで、そうはかからなかった。得物が精気を失い、鎮まっていたからだ。
「俺にはやっぱり猫の体のほうがしっくりくるな」
 苦笑するロッキーの隣でマリアが不機嫌そうに尻尾を大きく揺らした。
「なによ、きりゅうってば人騒がせなことしておいて、あっさり逝っちゃって」
 ロッキーも「そうだな」と肩をすくめた。
「おかげで奴の目的を聞きそびれた」
 それを聞いて、秋野がにやりとする。
「それなら、今からゆっくり聞けるぞ」
 猫たちがきょとんとした瞬間、きりゅうの体がピシッと音をたて始めた。鳥の雛が卵から孵るように、皮膚がめくれていく。その隙間から、黄金色の光が漏れていた。
 時雨が名を呼ぶ。
「やっと出てきたか、貴龍」
 きりゅうの体から這い出てきたのは、一匹の龍だった。黄金色の鱗で、その目は気高い光を湛えている。ゆらりと揺れるヒゲが、威厳を放っていた。
「やれやれ、面倒をかけたな」
 菊千代は「その声はきりゅう!」と、目を丸くする。龍は音もなく猫たちの前に進み出た。
「いかにも。お主たちには礼を言うぞ」
「どういうことだ、一体?」
 困惑するロッキーに、貴龍は豪快に笑い、こう続けた。
「儂は桐生天満宮の天井画『貴龍』を依代にするつくも神じゃ。だが、あの老人の姿をした『きりゅう』も儂であった」
 秋野が呆れたように言う。
「この貴龍は物憑きの霊を救いたい一心で、その邪念を体に取り込み続けていたのだ。それが、あの体を覆っていた無数の霊だ」
 これに相槌を打ったのは時雨であった。
「邪なものを体に宿し続けるには、己の精神力を餌にしなくてはならない。貴龍はあまりに多くの霊を宿したが故に、己を制御する力を失ったのだ。人間界をさまよいすぎたあまり、天満宮に縛られず己の欲のまま自由でありたいと願うもう一人の自分を生み出し、縛られてしまった」
 貴龍はヒゲを揺らし、頷いた。
「さよう。それが、あの『きりゅう』なのじゃ。儂の本来の姿は、奴によって封じ込められていたのじゃよ」
「まったく、浄化はお前の領分ではないのだからやめておけと再三忠告したものを」
「物憑きの霊を宥めるべき存在としてこの地に生まれ出でたのが、そこの赤ん坊。だが、儂は誕生まで待てなんだ。目の前で苦しむ物を放っておけぬわ」
「若が霊を宥めるとはどういうことでござる?」
「神の手を持つのじゃ。その手はいずれ、つくも神が宿るほどの逸品を生み出していく。そうでなければ修繕を専門にする職人になるかもしれぬが、どのみち物に好かれる定めじゃ」
 そう言って、彼は申し訳なさそうに首を垂れた。
「この体に取り込んだ邪霊をなんとか宥めてもらおうとしたのじゃが、まだ赤ん坊だということをすっかり失念しておった。だが、お主たちが弁財天様から力を得たゆえ、祓ってもらおうと目論んだのじゃ。ところが、祓われてはかなわんと足掻く『きりゅう』が悪戯をするので困っておった」
 マリアが口を挟む。
「道真公が時雨たちを遣わした理由は、あなたが天満宮にいるべき存在なのに、飛び出して戻らなかったからなのね」
「そうじゃ」
「じゃあ、どうして弁財天様が出てくるの?」
「その赤ん坊の母親の先祖は、弁財天様を祀っていた神社の巫女なのじゃ。生前、よく仕えた礼として、弁財天様は巫女の一族の末裔を見守っておられる。道真公は天満宮を出られぬ。それで、弁財天様にお頼みしたということじゃ」
 時雨が「それに、弁財天様といえば元々は河の神。神使は蛇や龍なのだ」と付け加える。
 貴龍は大きな欠伸をし、ぶるっと体を震わせた。
「さて、儂はしばらく天満宮の依代に戻って眠りにつくとする。失われた精神力を蓄えねば、また面倒なことになりかねん」
 菊千代が「待たれよ」と引き止める。
「若はいつ目覚めるでござるか? お主、変な呪いをしたであろう?」
「ああ、それなら大丈夫じゃ。弁財天様のお力で一時は目覚めたものの、儂がかけた呪いは、赤ん坊の母親が抱けば目を覚ますようにしてある」
 そこで三匹はハッとして顔を見合わせる。
「そうだ! エミさんはどうなった?」
「秋野、エミさんはどこ?」
「母上は無事でござるか?」
 一斉に喚きだした猫たちに秋野が微笑みかけた。
「案ずるな。もうそこまで来ている」
「俺は、エミさんを迎えにいくぞ!」
 ロッキーが駆け出した。窓ガラスにいつの間にか降り出した雨粒がびっしりついているのに気付き、マリアはぽかんとした顔になった。
「ロッキー! 外は雨よ!」
 かつての虐待以来、彼は濡れるのが大嫌いになっていた。水を飲むのですら恐る恐るであった。そのロッキーが霊体とはいえ、なんの躊躇いもなく、壁を通り抜けていった。
 しかし、ものの数分もすると、玄関の扉が勢いよく開いてエミさんが飛び込んできた。そのあとからロッキーが安堵の表情を浮かべてついてくる。
「ダイキ!」
 エミさんは靴のまま駆け寄り、寝ているダイキを抱き上げた。柔らかな頬に顔を寄せ、ぎゅうっと抱きしめる。
「ごめんね。ごめん。本当に、こんな弱いお母さんでごめんなさい」
 溢れ出る涙と共に、髪の毛先から雨の雫が零れ落ちた。
 そのとき、ダイキが目を覚まし、勢いよく泣き出した。エミさんはうずくまり、何度も何度も謝り通している。
 それを満足げに見つめるロッキーに、菊千代たちが駆け寄った。
「ロッキー、水は大丈夫でござるか?」
「水? ああ、うん」
 潰れた饅頭のような顔をくしゃくしゃにして、彼は小刻みに震えながら言った。
「エミさんのためなら、なんてことないさ。正直、『きりゅう』より怖いけどな」
 どっと笑いだした猫たちに、秋野が声をかけた。
「それでは、我らはこれにて」
 振り返ると、秋野と時雨に挟まれた貴龍が、にたりと笑った。
「あらためて、礼を言うぞ。儂が眠りから覚めたとき、その小さな主がどれだけの力の使い手になっているか楽しみじゃ。そのときまで邪な想いに囚われた物憑きの霊たちがいたら、助けになってくれ」
 菊千代たちが深く頷く。
「あいわかった」
「どうせ、物憑きの霊のほうからダイキの力を嗅ぎつけて寄ってくるでしょうしね」
「安心して眠ればいい」
 貴龍は目を細め「頼んだぞ」と、力強く言った。
「さらばじゃ」
 大きな風が起こり、彼らは天満宮のほうへ駆け出した。あっという間にその姿が見えなくなる。
「やれやれ」
 ロッキーがへたり込むと、つられるようにマリアと菊千代もその場にぺたんと尻をついた。エミさんの腕の中でやっと笑いだしたダイキを見つめる彼らは、言いようのない安堵に包まれ、一匹、また一匹と霊体のまま眠りに落ちてしまった。
 その寝顔は、この上なく清々しい顔だった。
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