戦闘機乗りの劣情

ナムラケイ

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番外編

2004: An Eternal Gift for Her

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 アンドリューが朝のコーヒーを楽しんでいると、スマホが震えた。妹からだ。

 アンドリュー兄さん、元気?
 朗報よ!
 私が翻訳を担当してる日本の作家の本が、ハリウッドで映画化されることになったわ!
 私にまでインタビューの依頼が殺到して、嬉しい忙しさよ。


「あなた」
 妻がじろりと睨んでくる。
 視線曰く、食卓でスマホを触らないで頂戴。
 アンドリューは席を立って、テラスへ出た。
 今日はロンドンにしては珍しく、突き抜けるような青空だ。
 アンドリューはスマホに懐かしい名前を表示させ、ティーンエイジャーの頃に想いを馳せた。



✳︎✳︎✳︎

 アンドリューが通った寄宿舎学校(ボーディングスクール)はロンドン郊外にあった。
 クラス委員長だったアンドリューは2人部屋を独占していたが、ある日、転校生がやってきて、ルームメイトになった。
 しかも日本人。
 正直、うんざりした。
 アジア人の英語は聞き取りづらいし、チャイニもジャップもコリアンも区別がつかない。

 新しいルームメイト、ナオキは大人しい奴だった。
 害がないのはいいが、いかんせん暗い。
 部屋ではずっと勉強するか本を読んでいて、話しかけても梨の礫だった。

「おまえんち、父親何やってんの?  なんで寄宿舎学校なんか入ってんだ?  ロンドンには日本人学校もあるんだろ?」

「なあなあ、ジョージの奴がさ、キーランとモニカが2人で空き教室に入っていくの見たらしいんだけど、あの2人ってやっぱデキてんのかな?」

「ヨーロッパ史の課題、もうやったか?  分かんねーとこあったら、教えるからさ。俺、数学とかさっぱりだけど、歴史は得意なんだ」

 生来の世話焼き気質もあって、こまめに話しかけていたが、ナオキは何か言いたそうにして言葉を探した後、やがて諦めたように、「Yes.」か「No.」、「Thank you.」か「I don’t know.」を言うだけだ。
 コミュニケーションが成り立たない。


 その日は、友達とちょっと揉めて、むしゃくしゃしていた。

 どうでもいい雑談に、やはりナオキが「そうなんだ」とだけ返してきて、それで話が終わってしまったので、アンドリューは吐き出した。
「だからチャイニは嫌なんだ」
 その瞬間、ナオキは読んでいた本から顔を上げ、きっとアンドリューを睨んだ。
 意志のある、強い眼差しだった。
「言いたいことがあるなら言えよ」
 煽ると、やはり黙る。

 しばらく黙って、それから、珍しく喋った。
「僕は日本人だ。中国人じゃない」
「だから何だよ。言いたいことがあるなら、はっきり言え。言わないと、分かんないだろ」
 根気よく待っていると、ナオキはようやく話し始めた。

 言いたいことは沢山ある。
 けれど、英語でどう言おうか考えてるうちに話題は変わって行って、喋るタイミングを失ってしまう。
 間違った言い回しをして笑われるのは嫌だ。
 考えるのが面倒になって、黙ってる方が楽だ。

 たどたどしい英語で、要領を得ない部分もあったが、まとめると大体こんなところだと思う。
 我慢強く聞き取った俺を褒めてくれ。

「じゃあ、俺とは喋れよ。ゆっくりでも、ちゃんと待つし、聞くから」
 アンドリューがそう言うと、ナオキは首を振った。
「最初はみんなそう言う。でも、そのうち苛々されるんだ」
 実際そうなのかもしれないが、煮え切らない奴だ。
 先生が、ナオキの編入試験は数学と化学はほぼ満点だったと言っていた。
 頭は良いはずなのだ。英語が話せないだけで。
 アンドリューは言った。
「おまえ、週末暇?  俺ん家、遊びに来いよ」


 アンドリューの生家、モース家は典型的な英国のアッパーミドルだ。

 ナオキを連れていくと、母親は嫌がりこそしなかったが、微妙な顔付きでお茶とスコーンを出してくれた。
 アジア人に慣れていないのだ。

 アンドリューはスコーンを平らげてから、妹の部屋にナオキを連れて行った。
 年子の妹であるリズは、兄のアンドリューが言うのもなんだが、天然の美しい金髪を持つ可愛らしい少女だ。

「リズ、友達のナオキ」
 紹介すると、リズはにっこり笑った。
 フリルとレースとピンクな世界のリズの部屋に、ナオキは目を白黒させていたが、ぺこりとお辞儀をした。
「カジ・ナオキです」
 妹はポケットから携帯端末を取り出し、ささっと指を動かした。
「エリザベス・モーム。よろしく」
 ナオキは助けを求めるようにアンドリューを見た。
「リズは、事故で口がきけなくなった。聴くのは出来るから」
 ナオキは同情するように、辛そうな顔でリズを見た。
 途端に、リズは美少女らしくない仕草で舌打ちし、端末をいじった。
「Bullshit(ざけんな)! 不便だけど、あたし、別に可哀想じゃないから」
 リズは見かけを裏切る気性の激しさだ。
 乱暴な言葉にナオキは驚いたようで、咄嗟に日本語で何か言った。
 それが、謝罪の言葉であることは流石に分かる。

「あんたのことはアンドリューから聞いてる。喋んないんだって?」

「なんで喋んないの? 英語出来ないなら、努力してできるようになりなよ」

「あたしは喋れないけど、スペイン語もフランス語も読み書きできるようになった」

「あたしはもう、喋りたくても喋れない。あんたの声は神様からのギフトだ。あんたはそれをきちんと使う義務がある」

 リズは白く細い指を素早く動かし、次々に思いを吐き出していく。
 その顔は怒りに染まっている。

 それはそうだろう。
 リズは元々話せなかったわけではない。4年前、10歳の時に交通事故による頭部障害で失語症となったのだ。
 奪われた声。
 悔しいことに、アンドリューはもう、リズの声を正確に思い出すことができない。
 リズは長い時間をかけて自分の境遇を受け入れたが、それは完全なものではない。
 時々、発作的に癇癪を起こす。

 怒涛の文字にナオキは唇を噛みしめている。見ると、握った拳が震えていた。
 リズは最後の一文を打ち込むと、ナオキに端末を向けた。

「使わないなら、あんたのその声、あたしに頂戴よ」

 それを読んだナオキは一歩前に出ると、リズの手を両手で掴んだ。
 驚いたリズの手元から端末が滑り落ちる。
「ナオキ?」
 伏せられたナオキの顔を横から覗き込むと、ナオキは泣いていた。
 ぼたぼたと大粒の涙が、二人の手と絨毯に落ちていく。
「あたし、言い過ぎた?」
 リズが視線で聞いてくるので、アンドリューは首を横に振った。

 言いすぎてなんかいない。
 全部、本当のことだ。

 ナオキは鼻をすすりあげると、顔を上げてリズを見た。
 頬は涙でぐしょぐしょだが、その双眸には力がある。
 リズの真っ青な目の中に、ナオキの真っ黒な目が映り込んでいる。
 ナオキは言った。
「もし将来、医療が発展して、声帯の移植が出来るようになったら、僕の声を君にあげる。約束する」

 これにはアンドリューの方が狼狽えた。
 ナオキがもっと喋るようにけしかけたかっただけで、こんなことを言わせたかったわけじゃない。
「おい、ナオキ。なんでそこまで」
「だって、友達の妹だから」
 ナオキは何でもないことのように言った。胸がじんとなった。
 こいつ、俺のこと友達とか思ってくれてたのか。
「馬鹿かよ、おまえ。大体、そんな手術できるんなら、俺の声を真っ先にやるっつーの」
「え。でも、リズは僕の声をくれって」
 二人の掛け合いを見ていたリズが、ぶはっと噴き出した。
 お腹を抱えて声なき爆笑をしながら、リズは端末を拾い上げた。
「二人とも馬鹿よ。あたし、もっと可愛い声だったもの。男の子の低い声なんていらないわ」
 ま、そりゃそうか。
 アンドリューとナオキは顔を見合わせて苦笑する。
「でも、ありがとうね」
 リズは口の動きで感謝を示して、にっこりと笑った。
 それは、アンドリューが初めて見た、事故前と変わらぬ可憐な微笑みだった。


 それから、ナオキは毎週モーム家に遊びに来るようになった。
 アンドリューとリズがイギリス英語を教える代わりに、ナオキは日本語を教えてくれた。
 アンドリューはそう熱心でもなかったが-だって、文字を見るだけで目眩がしそうな言語だ、日本に生まれなくて良かったと本気で思った-、ナオキはリズに真剣に日本語を叩き込んでいた。
 
 2人は当然のように付き合い始めた。
 英語を自由に操れるようになったナオキは、途端に学校の人気者になった。
 クラスの女子が言うには、クールだとかエキゾチックだとか。
 まあ、どうでもいい。
 その頃のナオキは、リズ以外見えていなかったから。
 ナオキの誕生日に日本食を振る舞いたいとリズが言い張り、醤油くさい試作品の毒味を辟易するほどさせられたのも、今となっては懐かしい思い出だ。

 モーム家が父親の都合でスコットランドに引っ越すまでの2年間。
 ナオキは、時には嫌がって癇癪を起こすリズに、根気強く日本語を教え続けた。
 おかげでリズは、不自由なく日本語の読み書きが出来るようになった。
 何か、一生残るギフトを贈りたかったのだと、後にナオキは述べたものだ。
 言葉通り、それは口のきけない妹の生涯の宝物となった。


 ✳︎✳︎✳︎

 ベッドサイドの固定電話が鳴り続けている。

「直樹、電話鳴ってる」
 組み敷かれて貫かれながら、近間が電話の方を見る。
 露わになった首筋あんまり白いので、そこに噛み付くようにキスをした。
「……っ、跡つけんなよ」
「見えない場所ですよ」
「おまえ、そうやっていつも際どいところに…………あっ、そこ、いいっ……じゃなくて、電話!」
 文句言ったり、喘いだり、忙しい人だ。
「後でいいです。今、止まれません」
 直樹はキスと律動を続けながら、既に濡れそぼっている近間の性器を強く擦りあげた。
「……んっ、やあっ…だって、長い間鳴ってる…んっ」
 確かに、コールは長いし、正直うるさい。
「じゃあ近間さんが取ってください」
 下半身を攻め続けながらけしかけると、近間は直樹を軽く睨んでから、受話器に手を伸ばす。

「……あんっ」
 体勢を変えたことでいい所に当たったのだろう。近間は甘い声を漏らした。
 そんな声で、もしもしなんて言われたら、電話の相手が興奮すること必至だ。
 直樹は近間の手から受話器を奪った。
「もしもし」
 応じると、遠くから、とても懐かしい声が流れてきた。

「やあ、ナオキ? ロンドンのアンドリューだ。元気か? リズのことで良いニュースがあってさ……」
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