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第八章 玲一の過去
第二十六話
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「最近、誘ってこなくなったね」
社長室で二人きりになったとき、正直嫌な予感はした。
大きな植木鉢に水を注ぐ私の背後にゆらりと立って、玲一さんは囁くように低い声を耳元へ吹きかける。
「何かあった?」
「……いえ……」
玲一さんの指摘は事実だ。確かにここ最近、私の側から彼に誘いの言葉をかけることはなくなった。
ひとりで家に帰りたくないなと思う夜はたくさんある。今夜はめちゃくちゃになりたいと思ったことも何度もある。
でも、彼へのメッセージを送ろうとする度、あの夕方の後姿が焼き印みたいに脳に浮かんで離れなくなってしまうんだ。こんな関係は無意味だと、どれだけ続けても幸せになれないと、心の中のもう一人の私が目尻を吊り上げて叱咤する。
じょうろをきつく握りしめたまま黙りこくった私を見て、玲一さんはもう一歩静かに距離を縮めてきた。私の肩に頬が載る。首筋に唇が吸いつく。彼の指が私の下腹部を、トントンと優しく叩き出す。
「社長代理」
「嫌なら振り払って」
これは彼の魔法なのだと思う。私の身体をどう作り替えたかは知らないけれど、彼にここを叩かれるだけで私は一気にスイッチが入ってしまう。膝が笑い、腰が跳ね、あやうく取り落としそうになったじょうろを、玲一さんは静かに取り上げて自分のデスクへと遠ざける。
「れいいち、さん……」
今はまだ昼休み。午後の仕事が残っている。
泣きそうな顔で見上げる私に、玲一さんは私の手をそっと自分の手へ重ねると、
「嫌なら、ちゃんと振り払って」
と、言い聞かせるように繰り返した。
リズミカルな動きは続いている。彼の手を掴んで押さえようとして、でも、うまく力が入らずやわく爪を立てるだけになる。
耳元にかかるかすかな笑い声。弄ばれているという事実に、怒りより先にせり上がるものが私の息を荒くしていく。
「ぅ、ぁ、……っ」
喉を軽くのけぞらせて、もうだめ、と思った刹那、突然指の動きが止まった。
昇り詰める直前まで煽り立てられた私の身体は、最後のあと一押しを求めて揺らいだ瞳を彼へ向けさせる。
「言葉にしなきゃわかんないよ」
熱っぽい――でも明らかに、私の様子を愉しむ眼差し。
私は熱い吐息を小刻みに漏らしながら、彼のワイシャツをそっと掴むと、
「最後まで……」
と、消え入りそうな声で懇願した。
くつくつ、喉がかすかに笑い、待ち望んでいたところへ再び指が伸びていく。トントン、トントン。この優しい動きが何を呼び覚ましているのだろう。
やがて、私の身体は与えられた刺激を余すことなくすべて受け入れ、瞼の向こうで淡い光がちかちかと明滅した。
「っは、はぁっ、……はぁっ……」
ぐったりともたれかかった私の身体を後ろから支え、玲一さんはわざと耳元で「職場なんだけど」と愉快そうに言う。
私は何を言う気力もなくて、ただ彼に寄りかかりながら、汗ばむ額を軽くぬぐって自分の呼吸を整える。
「まだ欲しいでしょ」
……どうしてわかるの? 無言の中に戸惑いを秘めて、私はじろりと彼を睨みつける。
そんな反応すら面白がるみたいに、玲一さんは肩で笑うと、
「じゃあ夜にね」
と言ってようやく私を解放した。
*
真新しいスポーツクラブのピカピカの建物へ足を踏み入れる。
柔らかなペールブルーで統一された壁紙や調度品は、ここのマネージャーがこだわりにこだわりを重ねて選び抜いたものだという。キラキラと目を輝かせながら紹介を続ける男性マネージャーを、玲一さんは微笑ましそうに目を細めて眺めている。
カートライト社の依頼を受けて、女性向けファッション誌にインタビュー記事を載せることになった玲一さん。
インタビューはすでに済ませてあるけど、記事用の写真の撮影だけがずっと延び延びになっていて、今日ようやく撮影を開始できる運びとなった。
「ご無沙汰しています、椎名社長代理。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。格好良く撮ってくださいね」
前回もいたインタビュアーの記者さんと、今日が初対面のカメラマンさん。どちらも華やかな若い女性で、いかにも女性向けファッション誌といった感じだ。
「はい、そこで止まっていただいて……目線だけこちらへください、少し笑って、……そうです!」
パリッとしたスーツ姿で立つ玲一さんの姿を、カメラマンが右から左から大量に撮って回っている。そして玲一さんも彼女の指示を受けながら、モデル顔負けの決め顔でたくさんのフラッシュを浴びている。
玲一さんは自分のビジュアルが優れているという自覚がある。だから嫌だ嫌だと言いながらも、会社の利益につながるのならと、自分の顔すら武器に使ってこうして仕事をこなしているのだろう。
「さて、次はどちらで撮影しましょうか」
トレーニングルームにヨガスタジオ、大浴場に更衣室。新装のにおいのするクラブの中を所狭しと歩き回りながら、玲一さんは常にカメラに晒され続けている。
さすがにそろそろお疲れかと思ったけど、その表情は未だに明るい。撮影用の笑顔をばっちりキープして……本当、すごい人。
「お次は是非、私の一番のおすすめで撮影していただけないでしょうか!」
そう言って意気揚々と進むマネージャーの後ろについて、更衣室のさらに奥へと進む……そのとき、私の前を歩いていた玲一さんの足が唐突に止まった。
「社長代理?」
「…………」
立ちすくむ社長代理の表情は私の位置からは見えない。
そして、私たちの数歩先でくるりと振り返ったマネージャーは、
「こちらが我が施設の目玉! 巨大温水プールです!」
と、両開きの扉を派手に開け放って見せた。
ガラス張りの天井から柔らかな光が差し込むプールは、四方からの明かりを取り込んできらきら淡く輝いている。
立ち込める熱気と塩素のにおい。天井に揺れるカラフルな旗。パステルカラーで彩られた、見ているだけでわくわくするほど綺麗でおしゃれな温水プールだ。
「実は、こちらの準備が遅くなったせいで、撮影のスケジュールも少し延びてしまいまして……。でもその分、どこに出しても恥ずかしくない最高の温水プールに仕上げましたよ。さあ、社長代理もご覧になってください!」
ご機嫌で促すマネージャーに、玲一さんは無言のまま。先にプールへと入った記者たちが「わあ綺麗」とか「写真映えしそう」とか明るい声を上げている。
「社長代理……?」
私が声をかけてようやく、社長代理はハッと我に返ると、戸惑いの表情で私の方を振り返った。額に滲んだ汗の粒が吐息とともにぽたりと落ちる。ゆっくりと肩を上下させて、必死に酸素を取り込んでいるみたいだ。
社長室で二人きりになったとき、正直嫌な予感はした。
大きな植木鉢に水を注ぐ私の背後にゆらりと立って、玲一さんは囁くように低い声を耳元へ吹きかける。
「何かあった?」
「……いえ……」
玲一さんの指摘は事実だ。確かにここ最近、私の側から彼に誘いの言葉をかけることはなくなった。
ひとりで家に帰りたくないなと思う夜はたくさんある。今夜はめちゃくちゃになりたいと思ったことも何度もある。
でも、彼へのメッセージを送ろうとする度、あの夕方の後姿が焼き印みたいに脳に浮かんで離れなくなってしまうんだ。こんな関係は無意味だと、どれだけ続けても幸せになれないと、心の中のもう一人の私が目尻を吊り上げて叱咤する。
じょうろをきつく握りしめたまま黙りこくった私を見て、玲一さんはもう一歩静かに距離を縮めてきた。私の肩に頬が載る。首筋に唇が吸いつく。彼の指が私の下腹部を、トントンと優しく叩き出す。
「社長代理」
「嫌なら振り払って」
これは彼の魔法なのだと思う。私の身体をどう作り替えたかは知らないけれど、彼にここを叩かれるだけで私は一気にスイッチが入ってしまう。膝が笑い、腰が跳ね、あやうく取り落としそうになったじょうろを、玲一さんは静かに取り上げて自分のデスクへと遠ざける。
「れいいち、さん……」
今はまだ昼休み。午後の仕事が残っている。
泣きそうな顔で見上げる私に、玲一さんは私の手をそっと自分の手へ重ねると、
「嫌なら、ちゃんと振り払って」
と、言い聞かせるように繰り返した。
リズミカルな動きは続いている。彼の手を掴んで押さえようとして、でも、うまく力が入らずやわく爪を立てるだけになる。
耳元にかかるかすかな笑い声。弄ばれているという事実に、怒りより先にせり上がるものが私の息を荒くしていく。
「ぅ、ぁ、……っ」
喉を軽くのけぞらせて、もうだめ、と思った刹那、突然指の動きが止まった。
昇り詰める直前まで煽り立てられた私の身体は、最後のあと一押しを求めて揺らいだ瞳を彼へ向けさせる。
「言葉にしなきゃわかんないよ」
熱っぽい――でも明らかに、私の様子を愉しむ眼差し。
私は熱い吐息を小刻みに漏らしながら、彼のワイシャツをそっと掴むと、
「最後まで……」
と、消え入りそうな声で懇願した。
くつくつ、喉がかすかに笑い、待ち望んでいたところへ再び指が伸びていく。トントン、トントン。この優しい動きが何を呼び覚ましているのだろう。
やがて、私の身体は与えられた刺激を余すことなくすべて受け入れ、瞼の向こうで淡い光がちかちかと明滅した。
「っは、はぁっ、……はぁっ……」
ぐったりともたれかかった私の身体を後ろから支え、玲一さんはわざと耳元で「職場なんだけど」と愉快そうに言う。
私は何を言う気力もなくて、ただ彼に寄りかかりながら、汗ばむ額を軽くぬぐって自分の呼吸を整える。
「まだ欲しいでしょ」
……どうしてわかるの? 無言の中に戸惑いを秘めて、私はじろりと彼を睨みつける。
そんな反応すら面白がるみたいに、玲一さんは肩で笑うと、
「じゃあ夜にね」
と言ってようやく私を解放した。
*
真新しいスポーツクラブのピカピカの建物へ足を踏み入れる。
柔らかなペールブルーで統一された壁紙や調度品は、ここのマネージャーがこだわりにこだわりを重ねて選び抜いたものだという。キラキラと目を輝かせながら紹介を続ける男性マネージャーを、玲一さんは微笑ましそうに目を細めて眺めている。
カートライト社の依頼を受けて、女性向けファッション誌にインタビュー記事を載せることになった玲一さん。
インタビューはすでに済ませてあるけど、記事用の写真の撮影だけがずっと延び延びになっていて、今日ようやく撮影を開始できる運びとなった。
「ご無沙汰しています、椎名社長代理。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。格好良く撮ってくださいね」
前回もいたインタビュアーの記者さんと、今日が初対面のカメラマンさん。どちらも華やかな若い女性で、いかにも女性向けファッション誌といった感じだ。
「はい、そこで止まっていただいて……目線だけこちらへください、少し笑って、……そうです!」
パリッとしたスーツ姿で立つ玲一さんの姿を、カメラマンが右から左から大量に撮って回っている。そして玲一さんも彼女の指示を受けながら、モデル顔負けの決め顔でたくさんのフラッシュを浴びている。
玲一さんは自分のビジュアルが優れているという自覚がある。だから嫌だ嫌だと言いながらも、会社の利益につながるのならと、自分の顔すら武器に使ってこうして仕事をこなしているのだろう。
「さて、次はどちらで撮影しましょうか」
トレーニングルームにヨガスタジオ、大浴場に更衣室。新装のにおいのするクラブの中を所狭しと歩き回りながら、玲一さんは常にカメラに晒され続けている。
さすがにそろそろお疲れかと思ったけど、その表情は未だに明るい。撮影用の笑顔をばっちりキープして……本当、すごい人。
「お次は是非、私の一番のおすすめで撮影していただけないでしょうか!」
そう言って意気揚々と進むマネージャーの後ろについて、更衣室のさらに奥へと進む……そのとき、私の前を歩いていた玲一さんの足が唐突に止まった。
「社長代理?」
「…………」
立ちすくむ社長代理の表情は私の位置からは見えない。
そして、私たちの数歩先でくるりと振り返ったマネージャーは、
「こちらが我が施設の目玉! 巨大温水プールです!」
と、両開きの扉を派手に開け放って見せた。
ガラス張りの天井から柔らかな光が差し込むプールは、四方からの明かりを取り込んできらきら淡く輝いている。
立ち込める熱気と塩素のにおい。天井に揺れるカラフルな旗。パステルカラーで彩られた、見ているだけでわくわくするほど綺麗でおしゃれな温水プールだ。
「実は、こちらの準備が遅くなったせいで、撮影のスケジュールも少し延びてしまいまして……。でもその分、どこに出しても恥ずかしくない最高の温水プールに仕上げましたよ。さあ、社長代理もご覧になってください!」
ご機嫌で促すマネージャーに、玲一さんは無言のまま。先にプールへと入った記者たちが「わあ綺麗」とか「写真映えしそう」とか明るい声を上げている。
「社長代理……?」
私が声をかけてようやく、社長代理はハッと我に返ると、戸惑いの表情で私の方を振り返った。額に滲んだ汗の粒が吐息とともにぽたりと落ちる。ゆっくりと肩を上下させて、必死に酸素を取り込んでいるみたいだ。
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