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第四章 新たな一歩
第十話
しおりを挟む遮光カーテンの隙間から、か細い光が差している。
まぶしい――でも、あたたかい。光へ向かって手を伸ばそうとして、視界がおかしいことに気がついた。左半分ははっきり見えるのに、右端の方はほとんど見えない。そっと右目に触れようとすれば、かさついたガーゼの乾いた感触。
(そうだ。私の右目は、あのとき……)
徐々に意識が鮮明になり、私はゆっくりと身体を起こす。膝の上で両手を広げ、握って閉じてを繰り返してみる。
見慣れない部屋。
ドラマなんかで見る高級ホテルに似た内装だけど、ベッドの脇にある巨大なモニターだけが室内で異彩を放っている。そこから伸びるたくさんのコードは今は宙にぶら下がっているだけで、私にとってこのモニターは単なる不思議なインテリアだ。
ゆっくりと呼吸をしながら、少しずつ記憶をたどっていく。はじめての喧嘩。右目の痛み。動かなくなった卓弥の姿と、電話越しの優しい声。
遅い時間に電話をかけたのに、彼はすぐさまタクシーを呼んで、パジャマの上にコートを羽織って息を切らしながら駆けつけてくれた。
すぐに救急車が到着して、卓弥が担架で運ばれて行って、……それから、ええと、……それから?
「おはようございます」
思ったより近くから声が聞こえて、窓の方へ目を向ける。
街を見下ろせる大きな窓辺に浅く腰掛けた諏訪邉さんが、窓ガラスに額を当てながら横目で私を見つめていた。どこか気だるげな、脱力した表情。ボタンが二つほど外れたパジャマの襟元から覗く鎖骨が艶めかしい。
「体調はいかがですか」
「ええと、悪くないと……思います。目はまだ少し痛みますが」
「痛み止めを出せるか聞いておきます。他には?」
「他は、特に……」
ガーゼで覆われた右目といい、着替えた覚えのない病衣といい、たぶん私も病院に運ばれ相応の処置をしていただいたのだろう。でも、救急車を見送ってからの記憶がひどく曖昧でおぼつかない。思い出そうと考えるけど頭にもやがかかっているみたい。
「あの……本当にすみませんでした」
ただ、どのような形であったとしても、彼に迷惑をかけたことに違いはない。
ベッドの上で頭を下げる私に、諏訪邉さんは軽く肩をすくめると、
「謝罪ではなく、お礼を言っていただけると嬉しいのですが」
と、いつもの微笑みを浮かべてみせた。
「そ、そうですよね。すみません……あ」
「まあ、無理にとは言いませんよ。謝るのが癖になっているみたいですし、今は考えもまとまらないでしょうし」
諏訪邉さんはスリッパをぺたぺたさせながらベッドへ近づき、傍の丸椅子を引き寄せてやや疲れた風に腰かけた。
「ご主人はご無事です」
静かに息を吞んだ私を、諏訪邉さんの鋭い瞳が見つめる。
それはまるで、ほっと安堵した私の心をなじるみたいな鋭い瞳で……もちろんそんなことはないはずだけど、どうにも視線を受け止めきれず、私は唇を結んだままただ黙って目を逸らす。
「軽い脳震盪とのことで、今は別の病院に入院しています。早ければ明日にでも警察からの聴取があるでしょう」
「…………」
「榎本さんの方にも、話を聞きたいという連絡が来ています。日程を決めるため、目が覚めたら警察へ報告するよう言われていますが……」
うつむく私の引きつる顔を下から覗き込むみたいに、諏訪邉さんは小首を傾げ、探るような目つきで言った。
「――これから、どうしたいですか?」
どくん、心臓が強く跳ねる。
どうしたい? 今までそんなの、一度だって考えたことはなかった。
いや、正確に言えば、考えたとしても実現できる見込みが一度もなかったのだ。空想だけならいくらでもしてきた。でもそれは本当にただのイメージ。現実へ繋がる可能性のない、言ってしまえば無意味な妄想だ。
でも今、私は問いかけられている。私がこれからどうしたいのか――どんな未来を望んでいるのか。
右へ左へ泳いだ視線が、縋るように彼を見上げる。綺麗な顔に何かを隠した、意味深い微笑みを浮かべ、諏訪邉さんはその眼差しで私の心をそっと揺さぶる。
いいんだよ、と。
耐えることは、何もないのだと。
「わたし」
シーツを握る指先に、自然と力が籠もっていた。
「……今まで諦めてきたことをやりたい。自分で稼いだお金を使って、ご飯を食べて、洋服を買って、……化粧をしたい。髪だって切りたい。本当はずっとカラーもしてみたかった」
「…………」
「人の顔色ばかりを窺って、言いなりになって生きるのはもう嫌。私は自分の足で立って、自分の歩きたい方へ歩いて、自分のやりたいことをやって、それで、」
――自分自身の人生を、自分の手で創っていきたい。
そこまで一息で言い切ってから、私ははあっと息を吐いた。左のこめかみから頬にかけてを、一筋の汗がツと伝っていく。遅れて湧き上がる羞恥心に、みるみるうちに顔が熱くなる。
「よ……幼稚だと、笑われるかもしれませんが」
あははと乾いた笑みを浮かべて、私は自分の頬を掻く。全身の体温が一気に上がって、彼の瞳をまともに見られない。
「笑いませんよ」
うろたえる私とは対照的に、諏訪邉さんはいつもどおり冷静だった。長い足をゆっくりと組み替え、彼は少しだけ顎を引くと、
「素敵だと思います」
と言って、どこか恍惚と微笑んだ。
*
そこから先の数か月はもう、怒涛の勢いで過ぎ去っていった。
警察からの聴取、弁護士への相談、裁判所への申し立てと、ガチガチに緊張した口頭弁論。
目の回るような忙しさを経て、接見禁止命令……卓弥が私に近づくことを法的に禁止する命令が出された時、私はもう安心のあまりへなへなとその場に座り込んでしまった。
もちろんこれはまだまだ序の口。私はこれから卓弥に対し、離婚を認めさせるという大仕事を成し遂げなければならない。
当然だけど口頭弁論の日、卓弥が裁判所に現れることはなかった。押印して送り付けた離婚届は未だそのまま、少なくとも今の時点では、彼に離婚の意思はないようだ。
「大変なのはこれからですね」
裁判所からの通知を読みながら、諏訪邉さんは眉根を険しく寄せている。
「相手がこのまま応じないようでは、離婚調停、さらには離婚裁判になるかもしれません。あちらの出方にもよりますが、離婚まで年単位の時間がかかる可能性もあります」
「あの人のことですから、ただ私の言いなりになるのが嫌で離婚を渋っているのかもしれません。本当はきちんと説得して、離婚届を出せればよかったんですが……」
私がどれだけ言葉を尽くしても、思いが卓弥に届くことはないだろう。諏訪邉さんには申し訳ないけど、最初から私には争いの道しか残されていなかったように思う。
「どれだけ時間がかかったとしても、絶対に離婚するつもりです」
力強く言い切る私に、諏訪邉さんは何も言わず、ただ少し微笑んだだけだった。
ふいにインターホンの音が響き、スカイくんが顔を上げた。私と諏訪邉さんは時計を見上げ、どちらともなくうなずきあう。
約束の時間だ。今日はこの諏訪邉さんのお宅で、私たちは大事な契約の変更手続きを予定している。
今インターホンを鳴らしたのは、きっとその担当の方だろう。諏訪邉さんは立ち上がり、玄関の鍵を開錠するボタンを押してから、
「……ん?」
と、モニターを見て眉を軽く持ち上げた。
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