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第8部

幕間二 彼女は想う

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 細波が聞こえる。
 決して上等ではない帆船。
 彼女は甲板に出て、波の音に耳を澄ませていた。
 歳の頃は十六、七か。
 背中や半袖の縁に炎の華の紋が刺繍された白いタイトワンピースを纏い、美しい脚線には黒いストッキングと、茶色の長いブーツを身につけていた。
 瞳は漆黒。海風に揺れる長い髪も同じ色だ。
 彼女は両肘を甲板の手摺りに。その上に豊満な胸を乗せていた。
 あまりにも絵になる美しい少女に、甲板にいる他の客も彼女に見惚れていた。
 数人の若い男が、「お、おい。声をかけろよ」「い、いや、あれは無理だろ。レベルが高すぎだ」と騒いでいる。
 ――と。


「姫さま」


 彼女に対し、不意に一人の女性が声をかけた。
 彼女――サクヤ=コノハナは、振り向く。
 そこにいたのは、サクヤに近付いてくる従者兼友人だった。
 歳の頃は二十代前半。
 腰には短剣。服装は動きやすそうな冒険服だ。
 毛先が、やや乱雑な黄色い短髪が印象的な女性である。
 無骨な雰囲気ではあるが、顔立ちは美麗だ。プロポーションも中々のものである。彼女の歩く姿には艶やかさもあった。
 サクヤには流石に劣るかも知れないが、充分な美女である。
 若い男衆から「……おお」「あっちもレベル高けえ……」と呟きが零れる。
 しかし、黄色い髪の女性――ジェシカは気にもかけずに、


「もうじきアティスに到着するそうです」


 と、主君であるサクヤに報告した。
「……そう」とサクヤは答えた。
 その表情は、少しだけ憂いを宿していた。


「いよいよなのね」

「……はい」


 ジェシカは、海に目をやった。
 まだ影も形も見えないが、アティス王国がある方向だ。


「コウタさんは」


 ジェシカは、愛しい人を思い浮かべる。


「もうアティスに着いておられるのでしょうか?」

「多分、そうでしょうね」


 サクヤも、アティスの方角に目をやって呟いた。


「コウちゃん達の後ろ盾にはハウル公爵家があるもの。あの家って鉄甲船まで所有しているって話だし。私達より出航が遅くても、きっと到着しているわ」


 風任せの帆船と、恒力で進む鉄甲船では速度がまるで違う。
 ましてや、ハウル家所有の船ともなれば、性能は折り紙付きだ。
 少々の悪天候もモノともせずに進めるだろう。


「きっと、コウちゃんは……」


 サクヤは目を細めた。


「すでにトウヤと再会しているでしょうね」

「……『アッシュ=クライン』ですか」


 ジェシカは神妙な顔で、その名を呟いた。
 かの《七星》において最強と謳われる人物。
 ジェシカにしてみれば、対峙するのも恐ろしい怪物だ。


「もう。そんな顔をしないで」


 サクヤは苦笑した。


「トウヤは、意味もなく力を振るう人じゃないわよ。出会うなり、取って食われたりしないからね。まあ、私としては、以前までは、ジェシカを連れて行くのは別の意味での『食べられる』で不安だったんだけど……」


 そこであごに指を当てる。


「もう大丈夫よね。結局、ジェシカはコウちゃんの方に食べられたし」

「……姫さま」ジェシカはわずかに渋面を浮かべた。「何を仰いますか」


 サクヤは気まずそうに頬をかいた。


「あはは、ごめん、ごめん。冗談――」

「残念ながら、私はまだそこまで至っておりません」

「……え? あ、はい」

「ま、まあ、コウタさんが望まれるのでしたら、すぐにでも召し上がって頂きますが」

「…………」


 頬を染めてそう呟くジェシカに、サクヤは無言になった。
 相変わらず、ジェシカには恥じらいはあっても迷いはない。
 サクヤは悪戯を思いつき、両手を広げた。


「ふふっ、なら来なさい。我が義妹。お義姉ちゃんが抱きしめてあげましょう」

「……姫さま」


 ジェシカは嘆息した。


「以前も言いましたが、私はコウタさんの刃であり、所有物です。妻になろうとは考えておりません。それよりも」


 ジェシカは、少し意地悪げに主君を見つめた。


「姫さまこそ、かの王国は敵の巣窟なのではないのですか?」

「……うん、そうよねえ」


 サクヤは手を下ろすと、溜息をついた。


「正直言って、オトハさん辺りはまずいかなと思っているわ。だから彼女は特に気に入らないのよ。トウヤにとってのあの人って、コウちゃんにとってのメルちゃん的な立ち位置にいるからね。容姿も性格もトウヤの好みだし、トウヤは私が死んでいるって思っているはずだから、下手をすると、冗談抜きでもう『食べられている』かも」


 もし、そうだとしたら不満はある。
 まさに恐れていた事態だ。
 今は少しだけ考えも改めてはいるが、それでも不満であることに違いない。
 ただ、少しだけ……。
 同じ体験をした者として、ほんの少しだけ共感もした。


「………ふう」


 サクヤは額に手を当て、微かに頬を染めた。
 そして遠い目をする。


「……オトハさん。さぞかし翌朝はしんどかったことでしょうね。名うての傭兵である彼女であっても」

「……姫さま?」


 ジェシカが、不思議そうに眉根を寄せた。
 サクヤの独白は続く。


「トウヤの相手って、なんて言うか、心が溺れるって感じなのよね。凄く優しくて同時に激しくて、最初は痛かったけど、だんだん夢中になって、体力の限界も、呼吸さえ忘れることまでままあって……」


 サクヤは、自分の唇に指を当て、とても甘い溜息をついた。


「……とうやぁ」


 と、トロンとした眼差しで愛しい人の名を呟く。


「けど、結局、最後はいつも私が気絶しちゃって、翌朝はもうガクガクで……」

「あの、姫さま? 先程から何を仰って?」


 何気に無垢なジェシカに疑問の声をかけられ、サクヤはハッとした。


「と、ともかく!」


 サクヤは頬を赤く染めながら叫んだ。


「いよいよアティス王国なのよ!」

「……そうですね」


 ジェシカは訝しげな様子だったが、そう返した。
 そして、「あ、あの、お嬢さん達――」と蛮勇をふるって声をかけてきた男の一人を、「失せろ」と言葉一つで黙らさせて。


「ともあれ、私は部屋に戻って身支度をしておきます」


 そう言って、ジェシカは船室へと戻っていった。
 残されたサクヤは、再び海を眺めた。
 その先にあるアティス王国を。
 波音だけが聞こえる。
 サクヤの長い髪が風に揺れた。
 そんな髪を片手で押さえて――。


「……多分、コウちゃんはもう逢えた頃ね。そして私も……」


 彼女は想う。


「ようやく逢えるんだね。トウヤ」
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