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プロイデンの燕

揚羽蝶

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 揚羽蝶は誘うように羽ばたきを繰り返し、私は操られるように起き上がった。

 二三度強く羽を動かして振り撒いた鱗粉を浴びた私は揚羽蝶が浮かんでいたオレンジ色の光に包まれ、導くように移動する揚羽蝶の後を追った。

 途方に暮れて泣いているリリアもそれを慰める他の侍女達も誰も私を見ていない。そればかりか王太子妃の間の出入口にいる二人の護衛騎士までもが出ていく私に気が付かなかずにいる。

 ひらひら飛んでいく揚羽蝶を追って私は薄暗い城の廊下を進み、辿り着いたのは王太子の間の入口だった。

 私の姿は歩哨に当たる二人の騎士の目にも映らないみたいだ。二人は通り過ぎようとする私に反応することなく話し込んでいる。

 「妃殿下も残念なことになったもんだ」
 「本当になぁ。あんな子どもがと気の毒にすら思ったものだったが、王太子妃としての成長は眼を見張るばかりだったのに……」
 「やっと殿下が戻られてこれからって時にこんな事になるなんて。殿下もすっかり気落ちして窶れてしまわれて、ファルシアはこれからどうなってしまうのやら」

 深い溜息をつく騎士の前を通り私は揚羽蝶を追って王太子の間に入って行った。

 何人もの侍従やメイドとすれ違ったがやはり誰一人私に反応する者はおらず、揚羽蝶を追って奥へ奥へと進んでいく。揚羽蝶は暗い廊下の突き当りまで飛ぶとオレンジ色の光の中に吸い込まれて消えていった。そしてその光に照らされて一人の女性が蹲っているのが見えた。

 「来たのね……」

 顔を上げ私を見上げたのはエレナ様だった。けれどもそれは私の知っているエレナ様ではない。艶を失くした髪、目の下や頬がたるみぽつりぽつりとシミが浮かびくっきりとほうれい線が刻まれている顔。ふたまわりほど太りでっぷりして三十年の時を経たかのように老けてしまったエレナ様だ。

 「最後の望みに賭けたのよ。ジークの心を手に入れる為に……牢を抜け出し魔法でジークを惑わせて媚薬を飲ませた。それでもジークは私を拒み誘惑の魔法すらも弾き返されてしまったわ。もう私には手段がない。愛し合う私達の前に引きずり出して貴女の心に止めを刺してやろうと、強引に揚羽蝶を潜り込ませて呼び寄せたのに、それも無駄になってしまった。それに……」

 エレナ様はボロボロ涙を溢しぐしゃぐしゃに顔を歪めながら髪を掻き乱した。

 「無理して使った魔法のせいでこんな姿に……」

 エレナ様は声を上げて泣いている。

 魔法には等価交換が必要なのだとジェローデル侯爵は教えてくれた。魔法使いは自分の持つ魔力と引き換えに魔法をかける。技を極めた魔法使いは無駄なくより少ない魔力で的確な魔法をかけられるが、若いアルブレヒト様は技術よりも魔力に頼りがちでまだまだ半人前だなのだとこぼしていた。

 侯爵はエレナ様のように潜在的な魔力に頼り魔法を使ってしまうと、自分の限界を見極められず非常に危険なのだとも言っていた。恐れを知らぬまま強力な魔法を使える一方で、知らず知らずに足りなくなった分の魔力は等価になるように生命で補われる。即ち自分の寿命を削るのだって。

 きっとエレナ様は持っている魔力を使い果たし、その上寿命をも差し出してしまったのだ。

 「いっそよぼよぼの老婆になってしまえば良かったのに……こんな、こんなくたびれた中年女になるなんて。私はこの先さらに老いを重ねながら何十年も生きていかなくちゃいけない……」

 拳を床に叩きつけながら泣き叫ぶエレナ様を黙って見下ろしていた私を、突然泣くのを止めたエレナ様が見上げにかりと笑いかけてきた。

 「手に入らないのならジークなんて死んでしまえばいい」

 私の瞳を捉えたエレナ様の瞳には怪しげな陰がうごめいている。エレナ様はナイフを取り出し私に差し出した。
 
 「眠っているジークの胸を一突きにして殺してしまうのよ。ジークは死にあなたは夫を殺した王太子妃として捕らえられる。今のあなたなら死罪は免れるかもしれないけれど、それでも一生自由にはなれないわ。私はこんなになってしまったのだもの、あなた達もどこまでも落ちて行くのよ……良いわね」

 私の手にナイフを握らせたエレナ様が醜い仕草で立ち上がると、身体が霞のように透き通りシャボン玉みたいな小さな泡になって立ち上り始めた。元居た牢に入ろうとしたのかそれとも外に逃げ出すつもりだったのか。

 どちらにせよそれは魔力が枯渇したエレナ様の能力を超えていたらしく、廊下の向こうで護衛騎士達が騒ぐ声が聞こえてきた。移動できたのは王太子の間の入口まで、そこで彼女は捕らえられたのだろう。

 エレナ様が連行され泣き叫ぶ声が遠のいて静寂が戻り、私は手に持ったナイフに目をやった。いつの間にかまたあの揚羽蝶がナイフの切っ先に留まりふわふわと羽を動かしている。

 『さあ行きなさい。そしてジークを殺すのよ』

 頭の中で聞こえたエレナ様の声に、私はこくんと頷いてドアを開けリードの寝室へと足を踏み入れた。

 そこは一面に雪が積もったようで私が歩くたびに何かがふわふわと舞い上がる。死んだようにベッドに横たわるリードの横に立ち、私はそれが何なのかに気が付いた。媚薬に苦しんだリードがもがき引き千切った枕の羽毛が部屋中に散らばっていたのだ。

 媚薬とは淫靡な気持ちを高まらせるものではなく全身の皮膚の薄皮一枚下を虫が蠢くような耐え難い感覚を与え、その苦痛から逃れるために行為に及ばずにはいられなくするものだ……お妃教育の中で私はそう学んだ。だから媚薬を盛られないように常に注意を怠らず、不幸にも避けられずにそうなってしまった時は、王太子妃の、そしてファルシアの誇りを護るために舌を噛み切って命を断てと命じられた。媚薬だけではなく魔法までもを使われたリードの苦しみは想像を絶するものだったに違いない。

 リードの両手の包帯は血が滲んでどす黒くなっている。きっと悶えてのたうち回るうちに拳を握りしめ傷が開いてしまったのだろう。ベッドの柱にはそれを証明するように血痕の手形がべっとりと付いていた。

 それでも私の胸にこみ上げてくる感情は何もなく、冷ややかに空っぽになった目で気を失ったリードを見下ろした。ロボットみたいに機械的に両手で握ったナイフを頭上まで上げ、掻き毟って引っ掻き傷だらけになっている左胸に向けて振り下ろそうとしたその時……

 「リセ…………アイシテル……」

 寝言のようなリードの呟きが聞こえた。
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