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第4章
1.燻る恋のその行方
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『ねぇ、どうしたの? 大丈夫……?』
全身が冷たい。足も腕も、動かそうと思ってもままならない。
わずかに動く瞼を開くと、一人の少女が俺の顔を心配そうに覗き込んでいた。
『父様ー! ここに男の子が倒れてるの! 来てー!!』
震える声で少女がそう叫ぶと、しばらくして大人たちがぞろぞろと駆けつけてきた。そして少女に父様と呼ばれた男が、俺の体を抱き起こす。
戦争に巻き込まれて両親が死んでから、ろくに物も食べていない。身に付ける衣服もぼろぼろで貧相に痩せ細った俺の身体を、その男は何の躊躇もなく抱き上げた。
『父様、その子、死んじゃう……?』
『……大丈夫だ、ユキ。とにかく医者に見せなければ』
薄く開いた瞳で少女の目を見つめると、ぎゅっと手を握られる。それから、大丈夫よ、と泣きそうな声で呟くのが分かった。力を振り絞ってその手を握り返すと、その少女は少しだけ笑う。
朦朧とする意識の中、その笑顔だけがやけに眩しく見えたのだった。
*
「ちょっと、トーヤ! 聞いてるの?」
「……あ?」
肩を揺さぶられて、頬杖をついて居眠りをしていた俺は目を覚ました。
瞬きを数回繰り返すと、向かい合ったソファに座るユキが頬を膨らませている。
「……わり、寝てた。何の話してたっけ?」
「もう! だから、ソウってばひどいのよ。わたしが貰ってきたお菓子とかね、部屋に置いておくと全部食べちゃうの! しかもお菓子が食べたいんじゃなくて、わたしが怒るのを見たいから食べるんだって! ひどいでしょ?」
「あー、ひでーなー。はあ……」
いつもこんな調子で、週に一回ほどユキはトーヤの部屋にやってきて、昔の思い出話やら最近の出来事やらを話しに来る。
最初のうちは、いきなり慣れない土地に来ることになってしまった俺を気遣って、わざわざ部屋を訪ねてきてくれていたのだと思う。今まで敵国として見ていたサウスの城に勤めることになって、確かに俺はどこかやりきれない思いを抱えていたから、ユキと話すことでそんな複雑な思いを忘れることができた。
しかし今となっては、ユキが話すのはソウへの愚痴という名の惚気話がほとんどだ。ユキからしてみれば、惚気話をしているつもりは一片もないのだろうが、端から見れば立派な惚気である。
呆れながらそれを聞いている自分と、少しだけ胸を痛めている自分がいることには気付いていた。
「あ、ごめん、もうこんな時間だったんだ……今日は帰るね!」
「おう。部屋まで送ってく」
「いいよ、一人で帰れるから」
「駄目だ。お前は良くても、俺が後でソウに色々言われるんだよ」
「そ、そんなの……」
ユキがほんのりと頬を赤らめるのを見て、またちくりと胸が痛んだ。ユキと出会って、同じ時を過ごしている今日までの間に、何度この痛みを味わっただろう。
最初は認めたくなかった。既に結果は分かりきっている恋だった。
ユキに命を拾われ、トウジに温かい生活を与えられ、それだけで十分だったはずなのに、もっともっとと欲深くなる自分に嫌気が差した。
いつだったか、リサに言われた言葉が脳裏をよぎる。いつまでユキへの思いを持ち続けるつもりか、と。
このままでいいと、いつか自然と忘れられればそれでいいと思う自分がいる反面、そんなことはできるはずがないのだと、頭のどこかでは分かっている。
この気持ちは結局、一つの方法でしか解決できないのだ。そして、その方法で救われるのは自分だけで、ユキを傷つけることになるのだということもちゃんと分かっている。
「トーヤ、わざわざありがとね。おやすみ!」
「おう、おやすみ」
ユキを部屋まで無事送り届けてから、以前ソウに釘を刺されたことを思い出した。
あれは確か、二人が新婚旅行から帰ってきたあと。いつものように俺の部屋にやってきたユキが話をしているうちに眠ってしまったので、抱きかかえて部屋まで連れて行ったのだ。
『あらら、ユキちゃん寝てもうたん? ほんま手ぇのかかる子やなぁ。おおきに、トーヤくん』
『……別に。じゃあな』
『あ、ちょっと待って。キミに一つ言いたいことあってん』
『なんだよ?』
『ユキちゃんがキミの部屋に行くん、ボクが喜んで許可してるわけやないって、分かってるやろ?』
『……それがなんだよ。言っとくけどな、俺が来いって言ってるわけじゃねえぞ』
『うん、それは分かってんで。ユキちゃんにとってはキミとの時間も必要で、それを止める権利はボクかてあらへん。けどそれは、ユキちゃんがキミのこと家族やと思うてるからや』
ソウの言いたいことはなんとなく分かった。
けれどその続きを聞くのが怖くて、俺は一刻も早くその場を立ち去りたい気分だった。
『もしこの先、ユキちゃんがキミのことを、家族や友達やのうて男として見るようなったら……悪いけど、キミのとこにはもう行かされへん』
『……そんなこと、あるわけねぇだろ』
『あるかもしれへんから言うてるんや。正直ボクな、出会う順番が違たらユキちゃんはキミのもんやったと思うてる』
『なっ……!』
『キミとボクの差は、たったそれだけや。せやから、ボクがこない大人気ない牽制したなる気持ちも理解してほしい。他の男には勝てる自信あるけど、キミにだけはない、いうことも』
茫然と立ち尽くす俺に、ソウはそれ以上何も言わなかった。
それから、自室にどうやって帰ったのかすら覚えていないほど俺は動揺していた。心のどこかで思っていたことを、ぴたりとソウに言い当てられたようだった。
もっと早く、ソウよりも早く、ユキと出会っていればよかった、と。
ユキとソウが結婚して、ユキはもう手の届かないところに行ってしまった。それならば、俺が告白したところで何も変わらない。ユキには悪いが、自分の気持ちを整理するためだけに、今すぐにでも告白しようかと考えていた。
しかし、ソウの言葉を聞いて胸の中で沸き起こってきたのは、絶望ではなく、希望だったのだ。
順番が違っただけならば、今からでも遅くないのではないか。俺はソウと違って、ユキに一度だって悲しい思いをさせたりしない。共に過ごした時間を考えれば、圧倒的に俺の方が長く傍にいた。
そんなことを考えて、その日は結局朝まで眠れなかったのだ。
「あー、くそっ……嫌なこと思い出しちまった……」
一度思い出してしまうと止まらない。今日もきっと眠れないことを覚悟しながら、ベッドに潜り込んだ。
全身が冷たい。足も腕も、動かそうと思ってもままならない。
わずかに動く瞼を開くと、一人の少女が俺の顔を心配そうに覗き込んでいた。
『父様ー! ここに男の子が倒れてるの! 来てー!!』
震える声で少女がそう叫ぶと、しばらくして大人たちがぞろぞろと駆けつけてきた。そして少女に父様と呼ばれた男が、俺の体を抱き起こす。
戦争に巻き込まれて両親が死んでから、ろくに物も食べていない。身に付ける衣服もぼろぼろで貧相に痩せ細った俺の身体を、その男は何の躊躇もなく抱き上げた。
『父様、その子、死んじゃう……?』
『……大丈夫だ、ユキ。とにかく医者に見せなければ』
薄く開いた瞳で少女の目を見つめると、ぎゅっと手を握られる。それから、大丈夫よ、と泣きそうな声で呟くのが分かった。力を振り絞ってその手を握り返すと、その少女は少しだけ笑う。
朦朧とする意識の中、その笑顔だけがやけに眩しく見えたのだった。
*
「ちょっと、トーヤ! 聞いてるの?」
「……あ?」
肩を揺さぶられて、頬杖をついて居眠りをしていた俺は目を覚ました。
瞬きを数回繰り返すと、向かい合ったソファに座るユキが頬を膨らませている。
「……わり、寝てた。何の話してたっけ?」
「もう! だから、ソウってばひどいのよ。わたしが貰ってきたお菓子とかね、部屋に置いておくと全部食べちゃうの! しかもお菓子が食べたいんじゃなくて、わたしが怒るのを見たいから食べるんだって! ひどいでしょ?」
「あー、ひでーなー。はあ……」
いつもこんな調子で、週に一回ほどユキはトーヤの部屋にやってきて、昔の思い出話やら最近の出来事やらを話しに来る。
最初のうちは、いきなり慣れない土地に来ることになってしまった俺を気遣って、わざわざ部屋を訪ねてきてくれていたのだと思う。今まで敵国として見ていたサウスの城に勤めることになって、確かに俺はどこかやりきれない思いを抱えていたから、ユキと話すことでそんな複雑な思いを忘れることができた。
しかし今となっては、ユキが話すのはソウへの愚痴という名の惚気話がほとんどだ。ユキからしてみれば、惚気話をしているつもりは一片もないのだろうが、端から見れば立派な惚気である。
呆れながらそれを聞いている自分と、少しだけ胸を痛めている自分がいることには気付いていた。
「あ、ごめん、もうこんな時間だったんだ……今日は帰るね!」
「おう。部屋まで送ってく」
「いいよ、一人で帰れるから」
「駄目だ。お前は良くても、俺が後でソウに色々言われるんだよ」
「そ、そんなの……」
ユキがほんのりと頬を赤らめるのを見て、またちくりと胸が痛んだ。ユキと出会って、同じ時を過ごしている今日までの間に、何度この痛みを味わっただろう。
最初は認めたくなかった。既に結果は分かりきっている恋だった。
ユキに命を拾われ、トウジに温かい生活を与えられ、それだけで十分だったはずなのに、もっともっとと欲深くなる自分に嫌気が差した。
いつだったか、リサに言われた言葉が脳裏をよぎる。いつまでユキへの思いを持ち続けるつもりか、と。
このままでいいと、いつか自然と忘れられればそれでいいと思う自分がいる反面、そんなことはできるはずがないのだと、頭のどこかでは分かっている。
この気持ちは結局、一つの方法でしか解決できないのだ。そして、その方法で救われるのは自分だけで、ユキを傷つけることになるのだということもちゃんと分かっている。
「トーヤ、わざわざありがとね。おやすみ!」
「おう、おやすみ」
ユキを部屋まで無事送り届けてから、以前ソウに釘を刺されたことを思い出した。
あれは確か、二人が新婚旅行から帰ってきたあと。いつものように俺の部屋にやってきたユキが話をしているうちに眠ってしまったので、抱きかかえて部屋まで連れて行ったのだ。
『あらら、ユキちゃん寝てもうたん? ほんま手ぇのかかる子やなぁ。おおきに、トーヤくん』
『……別に。じゃあな』
『あ、ちょっと待って。キミに一つ言いたいことあってん』
『なんだよ?』
『ユキちゃんがキミの部屋に行くん、ボクが喜んで許可してるわけやないって、分かってるやろ?』
『……それがなんだよ。言っとくけどな、俺が来いって言ってるわけじゃねえぞ』
『うん、それは分かってんで。ユキちゃんにとってはキミとの時間も必要で、それを止める権利はボクかてあらへん。けどそれは、ユキちゃんがキミのこと家族やと思うてるからや』
ソウの言いたいことはなんとなく分かった。
けれどその続きを聞くのが怖くて、俺は一刻も早くその場を立ち去りたい気分だった。
『もしこの先、ユキちゃんがキミのことを、家族や友達やのうて男として見るようなったら……悪いけど、キミのとこにはもう行かされへん』
『……そんなこと、あるわけねぇだろ』
『あるかもしれへんから言うてるんや。正直ボクな、出会う順番が違たらユキちゃんはキミのもんやったと思うてる』
『なっ……!』
『キミとボクの差は、たったそれだけや。せやから、ボクがこない大人気ない牽制したなる気持ちも理解してほしい。他の男には勝てる自信あるけど、キミにだけはない、いうことも』
茫然と立ち尽くす俺に、ソウはそれ以上何も言わなかった。
それから、自室にどうやって帰ったのかすら覚えていないほど俺は動揺していた。心のどこかで思っていたことを、ぴたりとソウに言い当てられたようだった。
もっと早く、ソウよりも早く、ユキと出会っていればよかった、と。
ユキとソウが結婚して、ユキはもう手の届かないところに行ってしまった。それならば、俺が告白したところで何も変わらない。ユキには悪いが、自分の気持ちを整理するためだけに、今すぐにでも告白しようかと考えていた。
しかし、ソウの言葉を聞いて胸の中で沸き起こってきたのは、絶望ではなく、希望だったのだ。
順番が違っただけならば、今からでも遅くないのではないか。俺はソウと違って、ユキに一度だって悲しい思いをさせたりしない。共に過ごした時間を考えれば、圧倒的に俺の方が長く傍にいた。
そんなことを考えて、その日は結局朝まで眠れなかったのだ。
「あー、くそっ……嫌なこと思い出しちまった……」
一度思い出してしまうと止まらない。今日もきっと眠れないことを覚悟しながら、ベッドに潜り込んだ。
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