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第二章

16.私と彼の未来

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 九月に入っても、私たち大学生はまだ夏休みだ。
 課題や部活、それにバイトもあるから暇ではないけれど、私はここ最近悶々とした日々を送っていた。
 というのも、平原さんがなかなか帰って来ないからだ。
 
 あの日、私だけ先にこの街に帰ってきたけれど、平原さんもすぐに来てくれるとばかり思っていた。
 前とは違って、毎日連絡を取れるようになったから心配はしていないが、私としては少しでも早く平原さんに会いたくなってしまう。
 
 平原さんは事情があったとはいえ一度バス会社を辞めているから、もう一度中途採用の試験と面接を受けなければならないらしい。一度辞めた職場に戻るのは気苦労もあるだろうけど、それでも彼はやっぱりあの会社で、バスの運転手さんに戻りたいのだと言う。その気持ちはよく分かるし、私もそんな彼を応援している。
 
 でも、その準備やら引っ越しの手続き、それに実家を出る関係とか何とかで平原さんも忙しいみたいだ。
 そんなこんなで、まだ彼はこの街に帰ってきていない。そして私は、やきもきしながら彼を待っているというわけである。
 
 バイトの休憩中、更衣室で座ってスマートフォンをいじっていると、ふいにメッセージが届く。送り主は平原さんだ。
 その名前を見ただけで心臓が跳ねて、早速送られてきたメッセージを読む。しかし、舞い上がったはずの私の気持ちはすぐに落ちて行った。
 
『ごめん。帰るまで、もう少しかかりそう』
 
 ふう、とため息をついてしまう。
 つい昨日は電話で「もうすぐ帰れると思う」なんて言っていたから期待していたのに。でも、私には分からない事情もあるだろうから文句も言えない。平原さんだって、私に意地悪をして帰って来ないわけではないのだから。
 
『分かりました。待ってますね』
 
 聞き分けの良い子を装って、それだけ返事をした。
 心の中では、「じゃあもうすぐ帰れるなんて言わないでよ!」と我が儘な私が文句を垂れ流している。
 目の前に彼がいたならその文句の欠片ぐらいは言えたかもしれないけれど、さすがに電話やメールのやり取りでそんなことを言うほど子どもでもない。でも、早く会いたいという気持ちは日に日に積もっていくばかりだ。
 
 ふと時計を見ると、もうすぐ休憩時間が終わる。気落ちしている場合じゃないな、と自分を奮い立たせて、スマートフォンを鞄に仕舞ってエプロンを着けなおした。
 







「ごちそう様。今日も美味しかったよ」
「ありがとうございました! また来てくださいね」
 
 午後三時前、よく喫茶店に来てくれる常連のおじいさんを出口まで見送った。
 今日は土曜日だから、普段よりもお客さんが多かった気がする。いつもより疲れたな、なんて思いながら少し外の空気を吸って伸びをしてから店内に戻る。これで今日の私の仕事は終わりだ。
 
「倫さん、お疲れ様。もう上がっていいよ」
「はい! お疲れ様です」
 
 店長に声をかけてもらって更衣室に向かうと、入れ替わりでシフトに入っている大学生とすれ違う。挨拶をして、「今日は忙しかったですよ」なんて他愛のない話をしてから帰る準備をした。
 
 今日は帰ったら何をしようか。
 課題はもう無いし、今日は好きなテレビ番組も特にない。まだ午後三時だからどこか買い物に出かけてもいいけれど、バイト代が出る前だからあまり無駄遣いもできない。
 今日は大人しく家に帰って夕飯の支度でも手伝おうかな、と思いながらバッグの口を閉じて更衣室を出た。
 
「店長、お疲れ様でした! お先に失礼し……」
「いらっしゃいませ、待ち合わせのお嬢さん。もういらしてますよ、こちらへどうぞ」
「はっ……?」
 
 挨拶をして帰ろうと思った私に、店長はなぜかお客様にするような態度をとって席に案内しようとする。しかも、いつもは「倫さん」と呼んでいるのに、お客として来ていた時のように「お嬢さん」と呼んだ。
 どういうことだろう、と店長に尋ねようとしたその瞬間、視線の先にずっと待ちわびていたあの人の姿が見えた。 

「平原、さん……!?」

 彼の姿を認識して、思わず一番奥のテーブル席に駆け寄った。
 
「待ってたよ、倫。……ああ、待たせたのは俺の方か」
「なっ、なんで……!? さっき、帰るのにもう少しかかるって……!」
「ああ、あれは嘘。倫をびっくりさせようと思って」
 
 ごめんね、と笑いながら謝る平原さん。
 悪いなんてちっとも思っていないときの顔をしている。
 
「よかったねえ、倫さん。ずっと待っていた甲斐があったね」
「店長……!」
 
 振り向くと、店長がにこにこしながらコーヒーとミルクティーを運んでくるところだった。
 平原さんの向かいの席に座るよう促され、そして目の前に温かいミルクティーが置かれる。
 
「これは私からの気持ちだよ。ゆっくりしていってくださいね」
「ありがとうございます。やっぱり、ここのコーヒーが一番美味しいんだよなぁ」
「それは光栄ですね。倫さんも上手にコーヒーを淹れられるようになったから、今度はぜひ彼女に淹れてもらってください」
「へえ、そうなんですね。楽しみにしておきます」
 
 まだ混乱気味の私を置いて、平原さんと店長は楽しげに話している。
 店長にも平原さんと再会できたことや、彼がこの街に帰ってくることはすでに伝えてあったけれど、こうして実際に会って彼が戻ってきたことを改めて喜んでいるようだ。
 
 少しの間話をしてから、あとはお二人で、と言って店長は下がって行ってしまった。
 
「それにしても、平原さんいつ戻って来てたんですか? 早く教えてくれればいいのに……」
「そんなに拗ねないでよ。ついさっきこっちに着いて、一番に倫に会いに来たんだから」
 
 そう言われると、文句の一つでも言ってやろうと思っていた気持ちはどこかへ飛んで行ってしまった。平原さんが帰って来てくれたんだったら、多少意地悪をされたところで痛くも痒くもない。
 
「実は、あさって面接なんだ。もう一度雇ってほしいって電話したら、社長直々に話聞いてくれたんだけど、こっぴどく怒られたよ」
「そ、そうなんですか?」
「うん。でも、今人手が足りないし仕方ないから面接ぐらいはしてやる、だってさ。それで健康診断もして、大丈夫だったら十月から勤務だって」
「え……それって、もう受かったようなもんじゃないですか」
「まだ分からないけどね。でも、普通なら面接もしてもらえないよ。だから社長にはすごく感謝してる」
 
 そう言って平原さんは、穏やかに笑ってコーヒーカップを傾けた。
 社長に怒られたと言っていたけれど、話の内容から察するに社長さんも本気で怒ってはいないのだろう。平原さんにもやむを得ない事情があったわけだし、何より今まで築いてきた信頼がある。きっと近いうちに、平原さんから「受かった」なんてメッセージが来ることが容易に想像できた。
 
「あっ、そういえば住む場所は決まったんですか?」
「うん。前住んでた部屋がまだ空いてたから、そこにしたよ。明日の午前中に引っ越し業者が来ることになってる」
「ええっ!? お、同じところにしたんですか?」
「うん、そうだよ。あそこならどこの部署に配属されても通えるし、何かと便利だし。……それに、あの部屋には倫との思い出が詰まってるから」
 
 その言葉に、意図せず胸が高鳴る。あの空っぽの部屋を見るたびに傷ついていた心が、彼のたった一言で癒されていくような気がした。
 
 何も言えなくなってしまった私を見て、平原さんが不思議そうに首を傾げる。はっとして、何でも無いです、と言ったけれど私の心臓はまだうるさく鳴ったままだった。
 
「あの……また、遊びに行ってもいいですか?」
「ふふっ、もちろん。またホラー映画でも一緒に観る?」
「そ、それは絶対に嫌ですっ!」
 
 私が全力で拒否すると、平原さんは楽しそうに笑う。完全に弱みを握られてしまったようだ。
 ホラー映画は勘弁してほしいけど、またこうして何気ない日常を平原さんと過ごしていけるのだと思うと、幸福感で胸がいっぱいになった。
 







「ありがとうございました、平原さん」
「どういたしまして。家まで気を付けるんだよ」
「はい。あ、明日部活が終わったら、すぐに引っ越しのお手伝いに行きますね!」
「ふふっ、ありがとう」
 
 喫茶店を出てから、平原さんの運転する車で私の家の近くまで送ってもらった。日が暮れかかって、オレンジ色の夕焼けが辺りを照らしている。
 明日引っ越しの手伝いをする約束をしてから車を降りたけれど、名残惜しくて私は彼の車から離れられずにいた。

「……倫ちゃん?」

 誰かに名前を呼ばれたのに気付いて、慌ててそちらを向く。
 そこには、スーパーの買い物袋を下げたお母さんと、制服姿の千尋が立っていた。
 
「あっ……お母さん! それに千尋も……!」
 
 私の声を聞き取ったのか、車のエンジンを切って平原さんも車から降りてきた。
 ちょうど夕飯の買い出しに出たお母さんと、学校帰りの千尋が帰る時間とぴったり重なってしまったみたいだ。
 
「あーっ!! お母さん、この人だよ!! 前話した姉ちゃんの彼氏!!」
 
 千尋が平原さんを見て、驚いたように大声を上げた。
 しかもその口ぶりからすると、どうやら千尋はお母さんに私に彼氏がいるということを話していたみたいだ。ちゃんと私の言いつけを守っていると思って、漫画も買ってきてあげていたというのに口の軽いことである。
 あとでとっちめてやろう、と思って千尋を睨み付けていると、車から降りた平原さんが私の隣に立って深々とお辞儀をした。
 
「突然すみません。倫さんとお付き合いさせて頂いている、平原大和と申します。一度お会いしたことがあるんですが……」
「あの時の、バスの運転手さんですよね? よく覚えています」
「え? お母さん、会ったことあんの? なんで!?」
「千尋くん、先にお家に帰っていてくれる? あとでちゃんと話すから」
 
 会話に口を挟んできた千尋に、お母さんがやんわり「口を出すな」と制止する。確かに、この場に千尋がいたらややこしいし、騒がしいことこの上ない。
 でも千尋は、なぜかキッと平原さんのことを睨み付けて噛みつくように反論した。
 
「嫌だよ! だってこの人、ずっと姉ちゃんのこと泣かしてたんだ! 今さら会いに来てどういうつもりだよ!」
「なっ……ち、千尋!」
「姉ちゃんずっと泣いてたじゃんか! 何も言わないで急にいなくなっちゃったんだって! 姉ちゃんは許してくれたかもしれないけど、オレは絶対許さないからな!!」
 
 そう叫んだ千尋が、庇うように私と平原さんの間に立ち塞がった。
 まだ小さいと思っていた千尋の背が、もう少しで私を越そうとしていることにこの時初めて気付く。それに、いつの間に自分のことを「ぼく」ではなく「オレ」と言い始めたのだろう。
 まだまだ子どもだと思っていたはずの弟が、一生懸命私を守ろうとしてくれていることが信じられなかった。
 
「……確かに俺は、君のお姉さんを悲しませた。本当に申し訳なかったと思ってる」
「そ、そんな謝ったってオレは……!」
「悲しませた分、これからは絶対に幸せにする。君が認めてくれるまで許さなくていい。ただ、俺には倫が……君のお姉さんが、どうしても必要なんだ。それだけは分かってほしい」
 
 中学生の千尋相手でも、平原さんはいつも通り誠実に言葉を返した。
 千尋もそんな風に返されるとは思っていなかったのか、それ以上何も言えずに私の背に隠れる。こういうところはやっぱりまだ幼いと思うけれど、私は弟の成長を目の当たりにして感動すら覚えていた。
 
「……平原さん。まずは、いつも娘がお世話になっております。それに、息子が失礼なことを言ってすみませんでした」
 
 千尋がすっかり黙ってしまったので、お母さんがようやく口を開いた。
 平原さんと同じように深々とお辞儀をして、それから私の方をちらりと見やる。
 
「娘から、少しだけ話は聞いていました。何か事情があって、この街から離れていたんですよね?」
「……はい」
「娘のこと、大事にしてくださってありがとうございます。ご存知かもしれませんが、この子は色々と考えすぎてしまう性格で、なかなか人に心を開けないんです。でもきっと、平原さんには甘えているんじゃないかしら」
「いえ、そんなことありません。倫さんはとてもしっかりしていますから、僕の方が助けられてばかりです」
「あら、本当ですか? うふふ、でもよかった。ずっと平原さんにもう一度会いたいと思っていたんですよ。バスの運転手さんじゃなくて、倫ちゃんの恋人としてね」
 
 何か含みのある笑みを零して、お母さんは私と平原さんを交互に見た。
 平原さんはそれだけで何かピンときたのか、少し恥ずかしそうに笑う。
 
「ご挨拶が遅くなって、申し訳ありませんでした。これからも娘さんのことは何よりも大切にします」
「こちらこそ、よろしくお願いしますね。また今度落ち着いたら家にも来てください。今日は千尋くんがご機嫌斜めだから、お呼びできませんが」
「なっ、なんだよそれ! 子ども扱いすんな!」
「はい、ありがとうございます。ご主人にもよろしくお伝えください」
「うふふ、お父さんには何て言おうかしらねえ? また相談しましょう」
 
 お母さんと平原さんの間だけで何だか話はまとまって、今度家に呼ぶ約束まで交わしていた。私と千尋はすっかり置いてけぼりである。
 
「じゃあね、倫。また連絡する」
「え……は、はい」
 
 それだけ言って、平原さんはもう一度頭を下げて行ってしまった。
 じゃあ帰りましょう、なんて言ってお母さんも歩き出す。
 
「……ねえ、お母さん」
「なーに?」
「もしかして、ずっと前から気付いてたの? 私に彼氏がいるって」
「うふふ、どうかしらね?」
 
 お母さんの持つ買い物袋を一つ預かって、三人で家路を辿る。
 私とお母さんの後ろから、少し不満気な顔をしながら千尋もついてくる。さっき見直したのに、まだ機嫌が悪い辺りはまだ子どもだ。
 
「それにしても、さすが倫ちゃんね。どうやってあんな素敵な人を捕まえたの? お母さんにも教えてほしいわぁ」
「つ、捕まえたって……」
「そろそろお父さんにも、いつか倫ちゃんもお嫁に行くんだってことを分かってもらわないと駄目ね。いきなり言ったらショックで倒れちゃうから、じっくり攻めていかないと」
「……お父さん、怒るかな?」
「どうかしら? 泣くとは思うけど」
 
 二人で、号泣するお父さんの姿を想像してぷっと笑ってしまう。きっと今ごろくしゃみでもしているだろう。
 そして、お母さんと一緒に笑いながら我が家に着く。こうしてお母さんと、明るい未来の話ができることが何よりも幸せだった。
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