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事例2 美食家の悪食【解決篇】

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 そのまま、もう片方の手でメスを叩き落とそうとするが、しかし華奢な体からは想像もできないような力で払いのけられる。それこそ、掴んでいる尾崎の腕ごと振り払うかのような豪腕。これには尾崎のほうが一瞬だけひるんでしまった。その隙を突くかのごとく、拘束から逃れた先生の腕が、勢いに任せてメスを振り下ろす。

 とっさに上体を横に逸らした尾崎は、耳元でメスが空を切る音を聞いた。反応が遅れていたら、あわや直撃となっていたことだろう。それだけ、先生は確実に狙ってきているということである。やはり、尾崎の直感は間違っていなかった。その細身の体からは想像できないような動きを、先生は見せている。一種のトランス状態へと入った人間の動きというか、リミッターが外れてしまった状態と例えるべきか。

 ――このままではまずい。続けざまに、しかも縦横無尽に動き回るメスの動きに、尾崎はそれをかわすことで精一杯。いっそのこと刃の部分を掴んでやろうかと思ったが、しかしメスが意思を持っているかのごとく動くために、それさえもできない。これが人殺しの……三人もの人間を殺害した殺人鬼の本領か。その動きは、人間のそれを超えているようにすら感じた。防戦一方。尾崎は先生を取り押さえるタイミングを完全に見失ってしまっていた。

「尾崎さん! 伏せてっ!」

 声のしたほうへと視線をやると、恐らく安野に渡していた拳銃を受け取ったのであろう。腰をやや落として、銃口をこちらに向ける縁の姿があった。しかしながら日本の警察は、よほどのことがない限り発砲できない。あくまでも牽制力としての武器であるし、万が一にも当たりどころが悪くて容疑者を死なせてしまったら大問題にもなりかねない。それどころか刑事告訴さえされてしまう恐れがある。それなのに――縁は正に引き金を引こうとしていた。

 次の瞬間、尾崎はなかば反射的に床へと伏せた。縁の指が引き金を絞ったのが見えたからだった。ズドンと、やけに重たい銃声が響き、そして凶暴化した獣は床へと崩れ落ちた。撃った――撃ってしまった。顔を上げた尾崎の視線の先には、硝煙の立ち上る銃口をこちらに向けたまま、大きく溜め息を落とした縁の姿があった。

「こんなこともあろうかと、準備しておいて正解でした――」

 縁がぽつりと呟き落とした後、撃たれたはずの悪しき獣が、小さく呻き声を漏らした。どうやら、死んではいないらしい。

「安心してください。――模擬弾ですから」
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