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2巻
2-1
しおりを挟むプロローグ
ある昼下がりのことだった。リズは眼前の敵を鋭く見据え、さっと腕を横に伸ばすと、背後にいる風見に控えているよう指示を出す。
彼女は風見付きの隷属騎士だ。脅威が目の前にあるとき、彼女は騎士の名に恥じない姿勢と働きを見せてくれる。顔は凛として、真剣そのものだった。
「シンゴ、下がっていろ。これは私が片付ける」
「いや、片付けるって言われてもだな……」
ぴりりと緊張が走り、芯が入った犬耳と、毛が少し膨らんだ尾。それを見れば本気度が窺える。
彼女は癖でサーベルの柄を撫でようとしたが、生憎とそこに得物はなかった。普段は肌身離さないのだが、こんなときに限って手元にない。
眼前で大きく口を開け、威嚇をしてくる魔物は、サーベルがない以上、無手あるいは律法によって倒さねばいけない。前衛がいない状況で集中力と精神力を必要とする律法を扱うのは戦術の基本からは外れているのだが、これも仕方ない。彼女は詠唱を始めようとした。
「Eu escrevo isto Ele――」
けれどそんな彼女に反し、風見には緊張感の欠片もない。
背中に匿われている彼は、呪文が一つ二つと紡がれるところを呆れ混じりに見つめると――目の前にあったリズの尾をむんずと掴んだ。
「室内でそれはやめい」
「ひゃっ!?」
集中を乱すには抜群の効果があったらしく、彼女は過剰に背を跳ねさせた。
それどころか、ぶんと空気が鳴る勢いで振り返ると、お尻を撫でられた女性のように風見の手を払いのけ、文句ありげな視線で刺してくる。
そういえば犬猫は尻尾の付け根が性感帯という話だ。
何でも生殖器に繋がる神経が通っており、とても敏感だという。気を許していない相手や触り方が下手な人だと怒り出すこともあるらしい。今がまさにそうだったようだ。
しかし彼女はしばらく赤い顔のままジト目を続けると、はあと、ため息の一つで許してくれる。予想外に大きなリアクションをしてしまった自分自身が恥ずかしいのもあったのだろう。
それを見計らい、風見は言葉を返した。
「あのな、グリとグラは子供なんだから。律法をぶちかまそうとするとか大人げないだろ?」
「大人げなんて何の役に立つ? そんなもの、犬にでも食わせてしまえ」
「お前がその犬だけどなっ!」
そう言ってみたものの、リズは犬耳をパタパタさせてスルーを決め込んでくれる。
「そもそもなんで私が獣なんぞに寝床を譲らなければいけない? 躾だよ、躾。わかりやすく上下関係を教えてやる」
「そこはそもそも俺の寝床だったりするんだけどな」
「使っていいと言ったのはシンゴだよ。私は間違っていない」
「そうなんだけど、頼むから仲良く、そんでもって大人しく使ってくれ。俺たちの状況はわかってるだろ?」
そう、大切なのは現在の状況だ。
彼女は一つのベッドを巡ってグリとグラ――グリフォンと毛玉ウサギという二匹の魔物と争いを始めようとしていた。
この二匹は子供といえど、律法を操ることのできる魔物である。特にグリフォンは熟練の戦士でも手こずる相手であり、そもそも室内で争える相手ではない。普段なら表でやれと言えば済むのだが、とある事情につき、それはできなかった。
そんな状況をちゃんと理解しているリズは、急に静かになる。
「……命令?」
すでに風見の答えを読んでいるのだろう、ふて腐れた声だ。
「そうだな。そういうのは嫌いだけどこればかりは命令だ」
きっぱりと返してみれば、「ちっ」と露骨な舌打ちが聞こえた。
だが手荒なことはやめてくれるらしく、ふーっ! と毛を逆立てている二匹に対して、リズも牙を剥いて威嚇を返すだけという、微笑ましいケンカに落ち着く。
そんな彼女らをやれやれと見やり、風見は机に戻った。
彼が今おこなっている仕事は、先日のグール事件の全容とその対策をまとめた報告書作りである。
ハイドラの街にグールが出没しているという噂は真実だった。
原因はこの土地に古くから棲んでいたヒュドラである。グールとはヒュドラの体液を介して体がヒュドラ化してしまった生物で、発症前ならワクチンや抗体で防ぐことができる。
その証明はヒュドラの血液が体に付いてしまった自分やスラムの住人――と、そんな報告書を現在ハイドラに駐留している帝国お抱えの軍に渡すために作っているのだった。
ゾンビ映画のように街の全てを焼き払うことしか解決法を知らなかった国軍は、この報告書をもって焼き払うのを取りやめてくれるという話になっている。
まとめればたった十数枚の報告書だが、これで数万の命が左右されるのだから恐ろしい。
「ドラゴンの息子という意味でドラキュラ。ドラキュラに血を吸われたなりそこないがグール。けどこっちの世界では、ヒュドラのなりそこないがグールってことになるのかなぁ?」
現代日本からこの世界に召喚されてしまった風見は、向こうの知識と比較して嘆息する。
寄生されるどころか、その生物に変化させられるなんて地球では考えられない。だが、こうして存在してしまったのだから仕方がない。ヒュドラは数百年前に討伐されたはずだが、しぶとく生きていた。他種をのっとることについても、その恐るべき生命力によるものだと理解するしかないのだろう。
生物学的な機能を分析できるような精密機器もないのだから、顕微鏡レベルでわかる事実だけが真実だ。
……と、そうこうしているうちに、縄張り争いの声が静かになっていたことに気が付いた。
どのように決着がついたのだろうと目を向けると、いつの間に来たのか机の脇に顎を乗せているリズを発見した。散歩や遊びを無言で催促する犬のようである。
「……飽きた。それにああだこうだと長引くから眠気も収まってしまった」
彼女は八つ当たりじみた低い声を出し、じろりと見上げてくる。
ベッドでは陣地を勝ち取った二匹が誇らしそうに足でシーツを掻き、気の向くままにベッドメイキングをしていた。まさかあの二匹に追いやられたのだろうか?
いや、それはないだろう。彼女は幼いものには優しいので、きっと譲ってやったに違いない。
……多分。恐らく。
「シンゴ、暇だよ。私を構え」
「今はお仕事中だから陽が暮れてからにしてくれ。蛍雪じゃあるまいし、明るいうちじゃないと文字が書けないんだよ」
「そんなことを言ってシンゴはいつも机じゃないか。椅子に根が張るよ? いや、それ以前に体が腐ってしまうね」
「大丈夫だ。抗体はもう打ったし、グールみたく腐ることなんてない」
「いーや、腐る」
すげなくしてどこかに行くのを待ったのだが、リズはこっちを見ろと言わんばかりに机をだんだんと叩く。振動で倒れそうになったインク壺を、慌てて押さえ、抗議の視線を向けると、彼女はにんまりとした笑顔でピタリと手を止めた。否が応でも相手をさせたいらしい。
その理由を、彼女はことさらに強調して言う。
「だって、こんな塔の中だよ? ドニの城がいくら広いといってもここは大股十歩の直径もなくて、そのうえ無駄に装飾の付いたベッドや家財、本棚に壺が占拠している。そんな部屋が二階分あるだけで、あとは屋上のみ! ……死んでしまうよ」
「たった十日ばかり我慢すればいいんだって。それで皮膚に何の変異もないなら晴れて自由だ。俺たちは健康なんだから、そのくらいの期間、寝て過ごしたって死にはしないって」
風見はこれでも獣医だ。こういうとき、医学に精通した者の言葉は説得力がある。
リズはまともな言葉が返せなくてより一層、不機嫌そうに顔をしかめていた。
この流れでは上手くいかない。そう判断した彼女は少しばかりプライドを捨て、攻め方を変えてきた。
「いや、死んでしまうかもね。私たちはどうせ奴隷だし、道具だし。いざというときに動けん道具なら捨てられるよ。それは死ぬと同義だ。衰えない程度に動ければいいんじゃない。いつだって最高の戦果を用意しないとダメなんだよ?」
「あのなぁ。そんな極論は……」
「第一、私は用済みだろう? 役目が果たせず、役割を与えられない道具なんてゴミだ」
「……」
その言葉は風見の心に、痛いほど響いた。
彼がこんな場所に隔離されているのは、グールの感染源であり、猛毒でもあるヒュドラの体液に触れてしまったからである。
けれどリズは接触していない。
彼女がこの隔離病棟にいる理由は、メイド代わりとして――なんてつまらない理由ではなかった。それくらいなら本職のメイドやクロエが宛てがわれるはずである。
「今はシンゴと一緒にいるが、外に出ればドニの腹いせとして処分待ちだよ。まあ、護衛として付いていたにもかかわらずシンゴがこんなところに入る原因を見過ごしてしまったし、当然かな」
「それはさせないって言った。俺が今やっているのはグールの報告書だけじゃない。稼ぎを作るための方法だって探しているんだ。お前は俺が買う。処分させないし、捨てさせもしない」
「ふーん? だったらなおのこと、新しいご主人様のために働ける体を残しておかないとね。ほらほらシンゴ、私を腐らせるな。死なせるな?」
彼女は我が意を得たりと笑みを作った。にひりと悪い子の顔である。
立ち上がった彼女は、「お、おいっ」と未だに仕事を気にする風見の手を強引に引く。そして、壁に飾ってあった模造刀を二つ取ると、一つを彼の手に預け、屋上へ向かおうとする。
「ま、待てってば。俺にはまだ仕事がっ……!」
「知らんよ。ケーセツとやらで頑張れ」
「だあぁっ! グリ、グラ、助けてくれっ!?」
尻尾を振るほどご機嫌なリズだが、彼女の自分勝手に付き合わされては堪らない。風見はお昼寝に入ろうとしていた二匹に呼びかけた。
すると二匹は、おう、なんだいご主人? という感じで顔を上げる。
さっきのようにリズと威嚇を交えるなりして、ご主人愛を見せてくれと風見は期待を込めた視線を向ける。それが伝わったのだろうか。二匹はベッドから降りると、こちらへやってきた。
――そしてそのまま通り過ぎた。
どこへ行くかと見ていると棚へ一直線。そこにしまっていたカゴを漁るとすっかり使い古されたお手玉や猫じゃらしといった自分好みのおもちゃを咥えて戻ってくる。
これの時間だな!? と輝く瞳が眩しすぎて辛い。
「……違う、そうじゃない」
「くはははっ! そうそう。昼間は体を動かすべき時間だものね。ほら、行くよ」
項垂れる風見とは対照的に、ひとしきり笑ったリズは彼を屋上へと連行する。
彼らがこのような日を過ごすようになってから、すでに三日が経過している。
そもそもどうしてこのようなことになっているのか。それを語るには、風見たちがヒュドラを討伐して戻ってきたときまで遡る必要がある。
第一章 犬を買います。
現在風見たちが滞在するアウストラ帝国のラヴァン領は、東国のエンルスと接する帝国の東端にある。そこを治めるのが辺境伯のドニだ。
彼本人は否定するところだが、領主というものは俗に放蕩貴族と呼ばれる者でも務められる。
辺境伯に求められる要素は二つ。
敵国に領土を取られないこと。
国への税と貢ぎ物の基準値を満たすこと。
これだけだ。それ故に施政が滞っていようと問題はないし、敵国に攻められようとも領土さえ堅持すれば問題はない。下手に頭が回る領主よりも、それくらいのほうが国としても扱いやすいのだ。
実際、東の国がちょくちょく仕掛けてきてはいるが、ドニはそれを防いでいる。領内でグールが発生していたことを隠していた彼が、実権を剥奪されないのはこれを評価されているためだろう。
帝国の求める最低限の基準を満たせば、領地で何をしてもいいのが彼の特権である。
「なあ、おい。領主とはいい身分だとは思わんかね、んー?」
「ひぅっ。……ぁ、うぅっ」
領内で適当に見繕った少女を無理やり連れ帰るのも、領主に許された横暴の一つだ。相手が嫌がろうが、婚約者がいようが、何歳だろうが関係ない。ラヴァン領ではドニがルールである。
だがそれでも彼が危うい立場にいるのは確かだった。
領主の座を狙う者は多々いる。その者たちはまず役人をたぶらかし、不正を横行させた。役人の横領が増えたことで領内の財源が減る。足りない分を農民から搾り取ってなんとかしようとすれば、農民たちはばたばたと死んでいった。
それを憂いて不正を正そうとする良心的な官吏がいても、その上の官吏が自己の利益のために改革の芽を摘んでしまうのが現状だ。すでにこのラヴァン領は底に穴が開きかけた船なのである。
そんな状態では今後東からの攻撃を防ぎきるのも容易ではない。このままでは、いずれ船は沈んでしまうと誰もがわかっている。
「どいつもこいつもこの座が欲しくて堪らんらしい。まったく、嘆かわしいことだ。真に相応しいのが誰かわかっていない」
甘い蜜を吸った今、ドニは地位を失うのが惜しかった。女も酒も自由にできる王様のような特権。誰が手放すものだろう。
ここで地道に役人の不正を暴き、自らの生活も質素にして領地の力を取り戻すのがまともな立て直し方に違いない。けれど欲に溺れたドニの頭には、もう質素や堅実という言葉はなかった。
だから、〝まともでない手段〟を選んだ。それが〝猊下〟だ。
「どうして誰もこの美味しい話が見えないのか。私や皇太子以外の権力者は無能か。それとも私が聡いから見えているだけなのか。どちらにせよ、格が知れる話だ」
「う、うぅっ……」
「反応しろ」
「は、はいっ……! りょ、領主さまが仰せの……、仰るとおりです」
マレビト――猊下は異世界から召喚された人間だ。過去に何度か召喚され、その異邦の知識で困窮した民や国が救われたという昔話は誰でも一度は聞く。そんな存在の手綱を握ることができれば何もかもが思いのままだ。たかが辺境の領地の存続なんて危ぶむ必要もない。
かつて猊下の力で小国が大国へとのし上がったという伝説もあるのだ。もしかすると今よりもずっと高い地位を得られる可能性だってあった。
皇太子がマレビトを召喚するという情報を手にしたとき、ドニはこれだと思い至った。いざ場を整えて呼び込んでみればどうだ。猊下はドニの思惑すら超え、長年の悩みだったグールを即座に退治して民衆の人気をかっさらった。表向きには猊下が召喚されたという話はまだ出回っていないが、民衆はすでに真実味を込めて猊下の存在を囁き始めている。
あとはこの猊下を皇太子からどうやって掠め取るかだ。これからを考えるとドニの欲望はふつふつと沸く湯のように煮えたぎって止まない。
(このままいけば本当に何でも思うとおりではないか……!)
堪えようとしても口から漏れ出る笑みのままブドウ酒を傾け、朗報を待っていた。すると、猊下に付かせていた元隷属騎士団長と副団長が間もなく部屋にやってきた。
「来たか」
片膝をつき、頭を垂れる二人に「よい」と許しの声を与える。
今回の成果を酒のつまみにするのも、また一興だった。
「グールの件は猊下が目されていたとおりヒュドラが原因でございました。初代領主様が相手になされたヒュドラが未だ地下に潜んでいたようです」
「うむ……、それで?」
「洞窟の最深部にてスケルトンと共にヒュドラを確認、猊下は勇ましく戦われた末、見事にヒュドラを討伐されました。損害は猊下付きの隷属騎士一名のみです。すでにグール対策の指示も受けております。地下への入り口さえ封じてしまえば問題ないとおっしゃっていました」
「まさか、まさか……。ふはははっ! なんと猊下はもう竜種まで討たれたか! なんという吉報か!」
リズの抑揚のない声に最悪の結果を予想しドニは肝を冷やしかけたが、意地の悪い前振りであったようだ。小憎らしいやつだが物語はハラハラしてこそである。見事な演出に何かしらの報償でも与えてやろうかとドニは大いに笑った。
こんなに上機嫌となったのは久方ぶりであった。この気分のまま、ベッドで小動物のように震えている娘にもう一度情けをくれてやろうかと舌なめずりをする。
途端、娘は「ひっ」とびくついた。
普段ならそんな無礼な反応をしたら打ちのめしているところだが、それも許してやろうとにたにたして酒をあおる。
「ではそのようにしておけ。ただしヒュドラの死体は運び出して大衆の面前に晒すがいい。〝またもこの街に出現したヒュドラ、だがそれはドニが呼んだ猊下が討伐した〟――と。無知な民にもわかるよう盛大に流布してやるのだ」
「御意に。それからもう一つ、お伝えしなければならないことが」
「……? まだ何かあるのか」
グール退治という朗報、さらにヒュドラ退治に至っては僥倖である。ドニもこれ以上を望めばさすがに罰が当たりそうだという気持ちだった。
だが吉報にしては、副官のグレンがやけに重苦しい面持ちをしているのが妙である。
「猊下がヒュドラの血を浴びられました」
「……なに?」
ヒュドラの血。それは猛毒だった。口に入れば死ぬのはもちろんのこと、皮膚に触れても同様と聞く。運よく生き延びても、ときが経てばグールとなってしまうらしい。それを浴びたとなれば、生き延びられる人間なんているはずがない。
「どういうことだ、もう一度説明しろ」
「猊下がヒュドラの血を浴びられました。ご自身と医者の診断を伺ったところ、現在は特に症状もなく――」
「貴様は何をしていたのかと聞いておるのだっ!」
リズは先程までと変わらない淡々とした声だった。
激昂のあまり、酒瓶を手に取ったドニはひざまずくリズの頭に叩きつけた。寸胴のボトルで強度もあったため、リズは堪らず床に崩れる。
ブドウ色の酒が髪を濡らす中、つうっと赤い液体が彼女の額から流れ落ちた。
「私は貴様に何を命じた!?」
「猊、下の護衛……です」
普段は薄っぺらい笑み以外は表情に出さないないリズも、さすがに苦悶の表情を浮かべていた。片膝をつき直そうとしているが、ふらふらとして力が入りにくい様子だ。流れ出る血は顎を伝い、ぽたぽたと垂れて床を染める。
けれどもリズに反省や後悔という色はない。人形のような顔にうっすらと痛みを乗せたのみである。それが余計にドニの神経を逆なでした。
「そう、護衛だ。だが貴様は何を護衛した? 奴隷の分際で我が身か!? 何人死のうが猊下には傷一つ付けるなと言いつけたはずであろうが!」
ドニはリズの腹を爪先で蹴り上げた。
彼女の細い体は鞠のように弾み、床を転がる。止まったところへずかずかと歩み寄ったドニは内臓を蹴り潰すように、容赦なく蹴り続けた。何度も何度も。それはドニの息が荒れ、疲れ果てるまで続いた。
ひたすらに蹴り回されたリズだが、彼女に大した反応はなかった。普通の女ならやめてくださいと懇願するか、身をよじるくらいはするものだ。
鳩尾や腹、下腹部にも深く爪先が刺さっている。大の男だって声を上げる痛みであろうに、リズは生理的な呻きを漏らすだけだ。まるで呻く水袋を蹴っているかのようである。
ドニは言い知れない不気味さを覚えた。
「クズめっ。言ったことすら守れんか……!」
あれだけ苦労し、大枚をはたいて一枚噛んだ伝説の猊下なのに、グール退治をさせて終わり? そんなバカな話があるものか。騎士団に命じて街を焼き払ったほうがまだ安くついた。奴隷の不手際に何故この自分の輝かしい未来が左右されねばいけないのかと、ドニは腹立たしくて堪らない。
「なんとか言ったらどうだ、この口でっ!」
ドニは肩で息をしつつもリズの顔を蹴った。
グレンはひざまずいたまま、口を真一文字に結んでそれを見ている。
グレンには、ここでドニを諌める権限なんて与えられていない。女子が蹴られる様を我慢して見続けるしかないのだった。彼は絨毯の上に置いた拳を震わせながら、石像のようになって耐える。いかに副団長といっても奴隷とはそういうものだ。
「……くっ、げほっ。特に申し上げることは、何も……ありません」
リズはドニが息を上げた隙に、報告は以上だという旨を伝えた。
確かに報告は完璧にこなしているが、グレンには彼女の行動が理解できなかった。普通なら言い訳の一つもするところだ。リズだけの過失でこうなったわけではない。
こんな答え方をしては、ぜひ殺してくださいと言っているようなものである。今はドニの命によって皇太子のユーリスに仕えているが、書類上は現在もドニが主だ。派遣した先の役に立たない奴隷の入れ替えは、彼の義務である。
ドニは口元を歪め、「この無能めが」と唾を吐いた。そして踵を返して壁に立てかけてあった剣を取ると、床に転がるリズを蔑んだ目で見下ろす。
ドニのことだ。良心の呵責なんて一握りもなく斬り捨てることだろう。
「領主殿っ、お待ちください」
ついに見かね、グレンは間に入った。
けれどもドニは構わず剣を振り上げる。阻むなら一緒に斬るまでという、奴隷持ちのわかりやすい考え方だった。
つっとこめかみを冷や汗が伝うのを感じながらグレンは申し開きをする。
「猊下殿が彼女をお呼びなのです。ここで殺されては機嫌を損ねることになりかねません」
「構わん。どうせ死ぬ者のことであろうが!」
「それはありません。ヒュドラの血を浴びたのならとうに昏倒してもおかしくないのに、猊下はお変わりない様子なのです。我々にとっては確かに猛毒。しかしながら異世界の住人である猊下が我々と同じでありましょうか?」
「奴隷ごときの話を聞き入れろと?」
「全て猊下殿のお言葉です。グール対策や治療についても明確に指針を出されたお方。このようなときにも対処する術をお持ちなのでは?」
グレンは嘘を吐いた。
本当はそんなことは聞いていない。風見は城の中央塔に隔離されただけで、リズを呼んでもいなければ、ヒュドラの血は自分には効かないとも言っていなかった。これはこの光景を正視できなかったグレンの甘さからきた嘘である。
だが、この場でそれがわかるのはリズだけだ。彼女は打ちのめされて床に転がったまま、彼の大きな背を見ていた。
「……連れ出せ」
ほとんど聞こえない声でドニが言う。
それを聞き直す愚行は冒さない。グレンは深々と礼をするとリズを抱きかかえ、すぐさま部屋をあとにしようとした。
が、ドアに手をかけたところで、「待て」とドニが告げる。
心臓を掴まれた心地でグレンは振り返った。
「用が済めば、それの首をはねる。猊下が助からねば貴様の首もはねる。それと、明日までにヒュドラの死骸を運び出して衆目に晒せ。最後に、猊下の知識は万一のためにできる限り絞り出しておけ。仕事のできぬ奴隷なぞ飼う気はないぞ」
「かしこまりました」
重く受け止めたグレンは頭を下げて部屋を出た。
残されたドニは、矛先をなくしたままの凶器を手にベッドのほうを振り返る。身の危険を敏感に察した少女は、顔を真っ青にさせた。
「ひっ。りょ、領主さまっ……。お、おやめください……!」
シーツにくるまっていた少女は慌ててドニの足下にひざまずくと、恥も外聞も投げ捨てて犬のように振る舞った。
まだ十代の半ばも過ぎない身で死にたくなんかない。ましてや領主の機嫌を損ねたのは自分ではないのだから、とばっちりなんて御免だ。少女は恐怖に引きつった顔で精一杯にこびていた。
「きゃっ……!」
少女がドニの足に顔を近づけると、拒むように蹴り飛ばされた。
落とされる視線は冷たく、暗く、少女は起き上がることも忘れて縮み上がる。ドニの手にある凶器の鈍い輝きがそんな彼女を笑っている。
さあ、宥めてみせろ。慰めてみせろ。それができなければ――
そんな声なき声が聞こえてしまった少女は嗚咽を噛み締めながら、何が正解なのかと必死に答えを探すのであった。
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