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2巻

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 一瞬ぼけっとしていたが、風見は我に返ると青筋を浮かべた。

「リィーズーっ……、お前なぁ!」
「うん、何か?」

 リズは向けられる怒声にも何故か心地よさそうに耳を傾けてくる。
 それをしらばっくれていると取った風見は、声を一層低くした。

「何かってお前、……それはさすがに怒るぞ?」
「何を?」

 リズは白々しくも疑問顔だ。
 安否を気遣って精根使い果たさんばかりに看病をしたのに、こんな態度を取られては堪忍袋の緒も切れかねない。風見は何故こうなったのか、詰問せずにはいられなかった。

「なんで。なんで、か」

 リズは言葉を舌の上で転がし、何かを面白がっていた。
 風見は「騎士なら報告も義務だろ」と返事を催促する。

「いや、私はもうその隷属騎士でもないんだろうがね」

 薄っぺらい笑みを浮かべた彼女は続ける。

「まあ、しいて言うなら理由はないかな。一つもない。だからこうなった」
「お前、ふざけてるのか?」
「ふざけてないさ。至って真面目に言っているよ」

 リズの表情は軽薄だが、それでも嘘が混じっているようには見えなかった。だから風見は言い分だけでも聞いてやろうと口を閉じる。すると彼女は逆に問いかけてきた。

「私からも質問させてほしい」
「なんだよ」
「シンゴはどうしてここに、この世界にいる?」
「どうしてって……なりゆきだろ。しょうがないじゃないか」

 逡巡しゅんじゅんしたが、思い浮かんだ答えはそんなところだった。
 けれどもリズはその答えが気に入らないらしく、首を振って返してくる。

「じゃあ別の質問にしよう。シンゴはどうして生きてる?」
「なんだよそれ、誤魔化ごまかそうとしてるのか?」
滅相めっそうもない。私は本気で聞いている。シンゴは私より長く生きているだろう? だから教えてほしい」
「理由なんてないだろ、そういうのには」
「理由がない、ね。それはきっと私のとは違っていると思うよ」
「いや、よくわからんって」

 変に真面目な答えを用意するのに疲れた風見は、呆れまじりに返した。
 しかし、リズの瞳はじっと注がれたままだ。半ば投げ出していた態度を見咎みとがめられた気分である。どうしていつの間にか攻守が逆転しているのだろうか。

「シンゴは家族とか仕事とか、そういうものがあるから生きている。しなければならないことがある。大勢に何かを望まれ、明日にも、ずっと先にも何かがある。だから生きなきゃいけないとか、そういう強迫観念に生かされているんだろう?」
「極論を言ったらそうなるんだろうけど……お前、どうした?」
「どうしたもこうしたもない。そういう理屈がないから私はこうなんだ。今この瞬間に死んでも何の不都合もない。死ぬ理由がないから生きているだけ。命令があるから生きているだけ。グレンから聞いているだろう? シンゴにヒュドラの血を浴びせたおとがめで私は殺される予定だ。だが領主の鬱憤うっぷん晴らしの方法はなかなかえげつなくてね。それに比べればうっかりとこごえ死ぬのも悪くない。ほら、酔っぱらいがどうでもいいから寝たいといって凍死するのと同じだよ。それで惜しまれる命でもないしね。――ああ、そういえば飛び降りと凍死は気持ちいいと聞くけれど、存外悪くなかったね。今はとても気分がいい」
「死ぬとか死なないとか、そんなに軽く言うな。その命一つのために努力する医者がバカみたいだ」
「いや、尊敬はするよ。殺すしか能のない私と違って生かせるんだからシンゴは凄い。だがね、私からすればそうして一生懸命に生きられるほうが不思議だよ。どうしてそう生きられる?」

 彼女は無感動そうに呟く。
 それは悟りきった人の答えのようでもあり、何も知らない赤ん坊の考えのような気もした。

「俺はそういう哲学じみた難しいことを言うタイプでもないんだけど。まあ、そうだな。人生の先輩として一つ言うなら――」
「いや、いい。特にシンゴのは面倒臭そうだし聞きたくない」

 ふうむと考えたところ、目の前にノーを示す手のひらを突きつけられた。本当に嫌そうに眉を寄せた顔といったらどうだろう。さっきまでの機械じみた物言いはどこに行ったのかと物申したくなる。

「待てぇい! 自分で聞いておいてそれはないだろっ」
「聞いてもあまり意味がない気がしてね。それにきっと頭が痛くなる。私はバカなんだよ」
「頭が痛くなるのが嫌なら、その怪我もどうにか手段を考えて回避しろよっ!?」
「私だって痛いのは嫌さ。けれど奴隷がそれをどうにかするなんて無理に決まっている。それに、あの面倒くさい領主相手にそういう試行錯誤しこうさくごをする気力は浮かばんね。私の命の価値はそれくらいだよ」
「お前なぁ……」

 あとは察しろと言いたいのか、リズはベッドに沈んで目をつむってしまった。ついでに犬耳をぺたりと倒し、外界からの音も完全にシャットアウトしている。
 いつもの気まぐれでしゃべることに飽きたのだろうか。完全に寝る態勢である。
 しかしこの狼娘おおかみむすめは、隣に男がいることを気にしないのだろうか。自分が薄着姿なのも全く頓着せずにベッドに体を預けている。普通ならもう少し異性との距離を考えてしかるべきであろうに。

(まったく、こいつは……)

 風に身を任せる草を相手にしている気分だ。
 どうやら話はここで終了らしい。
 彼女と同衾どうきんする気もない風見はソファーで寝ようかと考える。

「む、そうだ忘れていた。そういえば助けてもらったお礼がまだだった」

 リズはそんな柄にもないことを呟くと、むくりと再起動した。
 風見はもう抗議をしない。言っても疲れるだけと悟り、苦虫をみ潰したような顔で彼女を見る。

「死ぬのも死なないのも、どうでも良かったんじゃないのか?」
「いやいや。生かされた命をもう一度捨てにいくほどやる気のある人間ではないよ、私は。少なくとも、こんな風に手を握られたままだと死ぬに死ねないしね」

 彼女はくつくつと笑いながら、先程ノーを示したのとは逆の手を動かす。それが動く感触は風見にも伝わった。
 ――動いたのが見えたのではない。感触が、わかったのだ。その差が重要である。
 そういえば看病をしているとき、手を握って体温を確かめていたのだが、まさか今の今まで握っていたなんて風見としても予想外で、手とリズを交互に見返してしまった。
 そんな彼に、リズは珍しくはにかんだ表情を返す。

「犬畜生でも、こういう恩くらいは返せるよ?」
「お前のことだから体で払うとか言うんじゃないよな?」

 そういう悪戯いたずらで惑わされるものかと身構えると、彼女はけたけたと笑った。

「ふうむ、シンゴが望むならそれでも構わんよ。お前が拾ったんだから好きにしてくれればいい。生憎あいにくと奴隷身分の私は財産なんて持っていなくてね、残っているのは家名とこの体くらいさ。あとは全部借り物だ。さて、品数が薄いのは心苦しいが何がほしいかな?」
「大人をからかうな。そういうのはあんまり嬉しくない。お前はそうやって命令されるのが好きな人か」
「あはっ、それはいいね。首輪をつけて命令してもらえるなら楽だよ? あとのご褒美ほうびよだれを垂らせるような命令がほしいかな」

 冗談をたしなめるつもりで言ったのだが、リズは満更でもなさそうである。
 風見はすっかりと忘れていた。彼女は狼の亜人種だ。
 群れのリーダーに従うほうが落ち着くという根っこの部分は狼と同じなのかもしれない。
 その証拠に彼女はこう言った。

「ま、所詮しょせんは犬だからね、私は」
「いやいやいや。亜人だろ、あ・じ・ん!」
「大差ないよ。さあさ、なんなりと言ってみろ。尻尾しっぽを振って応えてやるから」

 そう言って犬歯を覗かせる彼女はもちろん従う者の顔ではない。これではどちらが上の立場かわかったものではなかった。もしこの世に同じ態度をするランプの魔人がいたとしたらランプごと放り投げていたかもしれない。
 じとっと視線で抗議を送ってみるのだが、むしろ催促の視線で押し返されてしまう。
 こんなリズでも女の子。ねだる瞳はしたたかさの一つとして持っていたらしい。ほんの微量であろうと胸の奥にこらえきれないものが湧いてしまうおのれが風見は心底悔しかった。

「はぁ、参ったよ。じゃあお願いさせてもらう」
「ああ、どうするね?」

 両手を上げると、リズは満足そうな顔になる。だがいいように扱われるばかりでは気に食わない。だから風見も風見で反骨精神も旺盛おうせいに、傍から見ても実にわざとらしく従ったふりをしていた。
 視線をぶつけ合う二人は揃って挑戦的な顔だ。

「リズは今までどおり――いや、今まで以上にしっかりと俺の警護をすること。それこそ犬みたいに忠実にだ。お前が何と言おうと、ドニが何と言おうと関係ない。俺がお前を買い取って、絶対にそうさせる」
「なんだ、そんなことか。元のさやね。……やれやれ、別に構わんがシンゴは存外つまらん男だね。他人が言わないことを言うかと思った」
「でも、拒否はしないんだろ?」
「まあね。従ってはやるよ」
「じゃ、返事は『わん』で」

 途端、あぁん? とにらみが飛んできた。心に突き刺さる視線で辛いのだが、ここで下手に引くと余計に悪い結果となるのは明白だ。風見は自信満々に開き直ってみせた。

「他人が言わないことを言ってみました」
「シンゴ……。お前はバカだろう……」
「バカで結構。人生、楽しんだもの勝ちじゃないか。俺は無難な生き方が好きだ。けど、平坦な人生なんてつまらない。ただ呼吸してるだけで生きているって言えるか? それは生かされるって言うんだと俺は思う。俺はリズと一緒にちゃんとした形で生きていたい」
「……」

 風見が真顔でそんなことを言うと、リズのほうが逆に恥ずかしさを覚えたのか、もの言いたげな顔で押し黙ってしまった。だが、彼はそのまま続ける。

「それに、俺を助けてくれるって、ノーラの墓の前で約束してくれたよな」
「私は約束なんてしていない。あれはお前の命令に頷いただけで――」
「じゃあ約束でも命令でもいい。今からそういうことにしよう。自分で言ったこと、曲げないよな?」

 命令の一言でリズは口をつぐんだ。
 はぁぁぁとかなり深いため息をついたものの、彼女はさっきの宣言どおりに尻尾しっぽを振ってみせ、少しばかりためらいながら言う。

「はいはい。わんだ、わん。これでいいんだろう? お前はこれから仮のご主人様だ。認めてやる。言葉どおりに私を買ったら本当のご主人様だ」
「ああ、絶対買うからな」

 ふてぶてしい限りの返事だった。目はそっぽを向いているし、尾の動きもオイル切れの機械のようである。
 だがそれが良いと風見は断言できた。
 そのふてぶてしさやぎこちなさこそ、最高のアクセントだと彼はリズの頭を撫でるのだった。



   第二章 全裸。時々ファンタジア。


 中央塔に隔離されてから十日目となる朝のことだった。
 一日の始まりを告げる朝の鐘が九時頃に鳴る。それをもってこの軟禁生活も終わりなので風見は支度を整えていた。けれど持ち込んだもの自体が少なく、その作業も朝食前には終わった。
 残る仕事といえばグリとグラのミルクやりくらいである。もうすでに日課となったこの作業は風見としても慣れたものなのだが、日に日に変化があった。
 それは勢いよく哺乳瓶にむしゃぶりつく二匹を見比べればよくわかる。

「グリ、お前のくちばしもだいぶ尖ってきたな」

 鳥の嘴も骨や歯と一緒でもちろん成長する。それに合わせ、哺乳瓶の乳首代わりに使っている布も数回で繊維が裂けていった。ゴム製品なんてこちらにはないが、もしあったらくわえた途端に千切られていたに違いない。母親はこの時期、さぞ大変だろう。
 そんな苦労を軽減するためなのか、グリの離乳はとても早かった。ミルクに浸した柔らかい肉ならもうついばむので、風見は自分の食事のついでに箸で与えることにしている。

「…………おい、シンゴ」

 ただ、こちらを構っていると、もう一方が立たない。ジト目でにらむリズの視線には、こいつらばっかりという文句が乗っている。

「大変そうだね。わざわざそいつのためにグリフォンの乾燥乳まで手に入れているし」
「いや、あのな、猫をはじめとして、他の動物のミルクはやっちゃいけないんだよ。例えば猫なら体内のアンモニアを無害な尿素に変えるためにアルギニンってアミノ酸が必要だ。けど、牛の乳だとその成分が少ないからアンモニアを変換できなくてアンモニア中毒になる可能性もあるし、そもそも乳糖を分解できなくて下痢になることもある。どんな動物でも母親のミルクが一番なんだよ。グリは国でも貴重なグリフォンだろ? これはそのための苦労なんだ」

 そうやって理屈を付けてみても、リズの眉間のしわは深まるのみだった。まあ、風見もこうなることは承知の上での言い訳である。

「……わかった。これが終わったら、ここから出られるまではリズの相手をする」
「そうこなくっちゃね。それに、シンゴにとっても悪いことではないよ? これから街の外へ出ることを考えれば、多少は荒事あらごとに慣れてないといざというときに困る」
「荒事は決定済みなのな……」

 できれば御免こうむりたいと表情を曇らせる風見。そんな彼の両頬はおかわりをせがむ二匹に、ぐにぐにと押しこねられていた。
 このようなことは今回に限ったことではない。
 リズは塔に閉じ込められてからというもの、運動不足だから私をかまえとちょくちょく言い寄ってくる。例えば悪戯いたずらをして追いかけさせようとしたり、異世界の武術を見たいから組手をしろと言ってきたりと、よくよく考えてみればペットと大差ない。
 しかし、それはそれでいつものリズらしくて好ましくもある。
 初日の一件以来、彼女が自暴自棄にも見える行動をとることはなくなり、今までどおり――本当に今までどおりの傍若無人ぼうじゃくぶじんっぷりを取り戻してくれちゃっていた。それは風見自身の願ったことでもあるので、しばしばイラッとしながらも文句は言わずに認めていた。
 リズは壁にかけてあった模造刀もぞうとうを取ると、押し付けてくる。

「これでお前と打ち合えとか無理があるだろ。もう何回負かされたことか……」
「そうかな? 私はサーベルのように肉をいだり突いたりする剣や短剣くらいしか使わないからグレンを相手にするよりマシだよ。ま、それでも私が打つばかりになるだろうが、動体視力や反射神経を鍛えるならちょうどいい。大丈夫、痛くするから死ぬ気で避ければいいんだよ。頑張れ」
「俺、そんな努力家じゃないんですが」
「心配しなくてもいいよ? 血をにじませる努力はするから」
「血の滲む努力と違いすぎて恐ろしいわっ!」

 文句を言うものの、リズは気にもしない。自分だけさっさと屋上に上がると剣を抜き、肩を叩いて待っていた。

「遅いよ。お前はまた私をこごえさせる気か」
「お前がせっかちなんだ。俺はすぐに追ってきただろ」

 そう答えると、ふふんと笑われる。どこか楽しげな彼女と違い、風見は憂鬱ゆううつだ。
 刃が潰してある模造刀もぞうとうとはいえ、結局は金属を刃状にしたものである。それなりの角度と力さえ込めれば鈍器としても刃としても使える代物であり、竹刀しないや木刀とは違う。
 語学といい、体育といい、この世界にはまともな教師がいない。不安げな風見は、恐る恐る問いかけた。

「それでルールは?」
「ないよ。生き残ればそれだけで価値があるんだから、どんな手段でも取ってくれて構わない。それに、予想外のことをしてくれたほうが私の練習にもなるからね」

 さて、と息が吐かれた。リズはもうやる気らしい。どうやってしのごうかと風見は策を練りつつ彼女の正面に立つ。すると、その途端―― 

「ちょ、おまっ――!?」

 風見がまだ剣を抜いていないにもかかわらず、リズは情け容赦ようしゃなく突撃してくるのであった。


    †


「かざみ、さまぁ…………」

 死ぬ寸前の病人のような声を出すのはクロエだ。
 この十日間、麻薬を絶った重度の中毒患者のようだったと誰かが言っていた。それはおおむね正しいとクロエ自身も思う。
 夜になると必ず風見が隔離された部屋の扉にすがりつき、そのまま眠りについた。
 しかし彼がグールとなる夢を見てしまうせいでロクに眠れやしない。彼が家畜や死肉をあさる姿を見せつけられ、クロエはそのたびに拳を握り、どうすればいいのかとひどく思い悩まされた。
 困窮こんきゅうする人々を救うはずの人がこんな風になるはずないと信じたいのに、悪夢はいつもいつも一番見たくないさまを見せてくる。
 一度目は縋りついてどうにか止めようとした。
 二度目は彼を殺した。
 三度目は後悔で動けなくなって彼に食われた。
 四度目は――
 そんな悪夢の末は毎度叫びを上げ、涙を流して目を覚ます。
 これを気の毒に思った門番が風見にどうにかするようにじきしてからは、彼も扉の前で寝てくれることとなり、それでクロエの悪夢はようやく二日に一度に減った。
 だが、それでもまだ半分だ。
 彼女の心労は絶えなかった。朝、「風見様っ……」と不安に満ちた声で彼の安否を確かめることから彼女の一日は始まる。

「ん。ああ、おはよう。……クロエ、ちゃんと寝たか?」
「はいっ、クロエは……大丈夫です」
「そっか。大変だろうけど、ご飯もちゃんと食べて頑張ってくれ。俺は大丈夫だから」
「はい」

 クロエはなけなしの元気を全て絞り出して声に込めていた。しかし扉越しに届く風見の視線や門番の眼差しに浮かぶ心配の色は、日に日に濃くなっていく。
 顔を洗いに行くと、水面にうつる自分の目の下にはくっきりとくまが浮かんでいた。せめていらぬ気苦労はさせまいと思っているのだが、彼女はそれほど器用ではなかった。
 大変なのは風見のほうなのに、そんな彼に心配をさせてしまっている自分に落ち込む。

「もう、少し……。もうすこしだけ、です……。あと、すこしで……」

 最低限の身支度だけ整えると風見に頼まれたとおり、教会へ行ってグールについての情報を人々に正しく伝える。
 不安な面持おももちをしている人には「大丈夫です」と微笑み、何故大丈夫なのか懇切丁寧に説いた。
 グールがまだいるとまことしやかな噂に踊らされる人がいたら、噂に過ぎないのだと説得するために隷属騎士と共に街中を奔走ほんそうした。

「グールの元凶はヒュドラでした。しかしそれももう風見様によって討たれ、完全に燃やし尽くされました。そのさまはあなた方も広場で見たはずです。過度に心配する必要はありません。もしグール化しても治療法がありますし、予防法もありますから」

 こうやっていくら説いただろうか?
 クロエはそうして口にするたびに風見を思い出し、気が気でなかった。自分がこうしている間にあの悪夢が現実になってしまったら――と、怖くて仕方がない。こんな風に離れ離れにされるくらいなら、いっそ殺してもらったほうがずっと楽だった。
 だが、風見の言葉は彼女にとっては絶対。あるじとはそういうものだと白服しろふく時代に教え込まれていた。
 苦しかろうときゅっと唇をみ締め、何とか期待に応えようと努力し続けた。誰かが信じてくれるのなら自分にできる限りのことをする。それがハドリアで尊ばれることであり、彼女も守ろうとしている信念だ。
 とはいってもから元気にも限界がある。
 色々な感情に板挟みとなった彼女は、風見が隔離されてから七日を過ぎる頃には幽鬼ゆうきのような様子で仕事し、それが終わるとどこにそんな元気が残っているのかと思うくらいの勢いで城の中央塔に帰っていった。
 けれどそれも今日でおしまいだ。陽が昇り、街の住民が仕事を始める朝の鐘と共に、ようやく風見のグール化はないと認められる。やっと愛しの勇者様に会えるのだ。

「あのっ、鐘はまだなのでしょうか。本当に鐘楼しょうろうへ人が向かっているのでしょうかっ……!」
「その言葉、日の出前から聞いています。それに猊下げいかは今日もご無事だったじゃないですか。心配することなんてないですから、少々お待ちください。今はまだ仕事に出かけ始める時間ですよ」
「なら駆け足の号令をっ!」
「無茶言わないでください」

 待つに待ちきれず扉の前を行ったり来たりするクロエ。彼女が猫だったなら扉をかりかりと爪でいて切なそうに鳴いただろう。彼女には猫のような爪はないが、しばしばすがるように扉に手を当てて待っていた。
 待ち遠しい。ああ、早く頭を撫でて抱きしめてもらいたいと、クロエはうずうずしていた。
 クロエは言いつけを守って仕事をこなしましたと言いたかった。それを聞いた風見が与えてくれるご褒美ほうびを思うとたまらなくなる。

「今しがた催促の伝令を走らせました。きっと普段よりは早く鐘が鳴りますから今しばらく――」

 お待ちくださいと門番が告げようとしたそのとき、がらんがらんと高い音が鳴った。
 途端、クロエの顔が輝く。
 ようやく鳴った!
 ようやく許された!
 一瞬だけ神に感謝の祈りを捧げたクロエはその直後、〝鋼鉄製の扉〟を蹴破けやぶった。
 体の捻り、角度、重心など、どれをとっても会心の出来な回し蹴りである。もしも人間がその蹴りをくらっていたなら余裕で重傷が確定していたはずだ。
 どうやら彼女は、重い扉がちんたらと開くのを待つ間すら惜しかったらしい。

「ああーっ!?」

 やりやがったと門番に声を上げられても関係ない。放たれた矢のように走った彼女は三階と四階など見向きもせずに駆け抜けた。どこにいるかは知らされていない。だが、彼女の中にある風見様レーダーはしっかりと屋上を指していた。

「かざみさまぁっ!」

 屋上に出ると遠い朝日を見据えていた風見が、微笑みを向けてくる――クロエはそんな美しいイメージを思い描いていたのだが、現実は違った。

「な、なぁっ……」

 ちらりと目を向けてきたのはリズだけだった。
 まあ、彼女がいるのは別にどうでもいい。風見が領主の魔の手を見過ごすはずはないのだから、リズの命を助けるためにここに置くのも当然だ。
 そこは認める。一億歩譲って、隣に立っていることも、クロエは許すつもりでいた。
 だが。
 だがしかし、である。風見の腕をちろちろとめるのは許し難い蛮行ばんこうだった。
 彼は傍らに模造刀もぞうとうを置き、目を回して壁にもたれていた。恐らく、剣の稽古けいこでもしていたのだろう。リズはそれをいいことに彼に怪我を負わせ、さらにはこれ見よがしに自分のものと主張すべく、つばをつけているのだ。
 なんというか、これはどうしようもなく許せない。これはまだ自分も許してもらっていないことである。クロエの中では完全にレッドカードものの反則だった。

「あっ、あ、うぅっ……!」

 奥歯をみ締めずにはいられない。
 あれだけ耐えがたかった日々を何とか切り抜けたのに、抱きしめてもらえないどころか、こんなものを見せつけられるなんてあんまりだ。クロエは今ほど人を呪ったことはなかった。

「ど、どろぼう猫っ……!」
「いや、私は犬なんだけどね?」

 そんな申し開き、クロエは聞く耳を持たなかった。すぐにでも引きがそうと足を踏み出す。

「ぐうっ。いってぇぇぇ……」

 と、そんなときに風見は後頭部を押さえて目を覚ました。
 そして、うっすらと血が流れる利き腕に舌をわせるリズを見るなり、目を点にする。

「……リズ、待て。お前は一体何をしてるんだよ」
「ん、消毒だよ。こんな傷それで十分だ」
「~~……っ!」

 自分が負わせた傷だから、と殊勝しゅしょうぶる犬がクロエには腹立たしかった。そこはお前の居場所ではない。私の居場所なのだと知らしめてやりたい。
 けれどここはクロエがでしゃばるべきではない。風見は「あのな」と呆れ顔をしている。
 そう。そのままとがめ、もう二度としないようにときつく叱ってほしい、とクロエは期待を込めて風見に視線を送る。

「そんなんで消毒にはなりません。いいか、消毒で重要なのは血や血漿けっしょうで薄まっても殺菌能力があること、細胞に有害すぎないこと、浸透能力があることだ。こっちだとベストは燃えるレベルのお酒だな。あと、他人の血をめるのは病気とかが移ることもあるからやめたほうがいい。まあ、水も薬もないなら傷口の異物が取れるし、有効な手ではあるんだけどな」
「違いますっ!」
「えっ、違ったか!?」

 とぼけた顔をする風見が、クロエは少しばかり憎らしかった。
 リズの行為を認めた風なところが悔しくて、これ以上言葉が紡げそうにない。下手に口を開けば喉まで込み上げた嗚咽おえつが漏れ出してしまいそうだ。
 それを必死でこらえていたら、今度は涙がこぼれてしまった。
 それを見た風見は「わっ、どうした!?」と驚きながらも優しく涙をぬぐってくれる。
 この優しさが卑怯で――しかも風見は誰にでもそれを振りいてしまうからクロエは心配でたまらなかった。
 いつかは自分にくれる分の優しさもなくなってしまうのでは?
 そんな漠然とした恐れが彼女の中にはある。

「かざみ、さま。あなたにとっては、リズだけが特別なのですか?」
「そんなわけないだろ。クロエも十分に特別だ。だから俺にできないことを代わりに頼んだんじゃないか。あれはクロエにしか頼めないことだった」

 彼は慌てながらも「ありがとう」と言ってクロエの頭をくしゃくしゃと撫でた。
 それだけでもクロエは心がわずかに晴れたが、まだ足りなかった。他人のつばをつけられたままでは、胸にもやもやが残る。このまま見過ごしたらなんだかかすめ取られてしまいそうな気がして嫌だった。

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