部下に業務を振る際にも、「今、時間あるかな?負担じゃないかな?」と過剰にお伺いを立てる。もうどっちが上司か分からない。部下の提出物が使い物にならなくても、叱りつけることはおろか、強めのトーンで修正を指示することすらためらわれる。「ここで厳しく言ってモチベーションを下げられたら困る」「辞められたら自分の責任になる」という恐怖から、結局は「ありがとう、あとはこっちでやっておくよ」と、部下の分の仕事まで自分が引き取り、深夜まで残業して尻拭いをする羽目になる。Z世代部下の「不快感」が絶対正義とされ、彼らの権利ばかりが保護される現代の職場において、管理職の感情や苦労は完全に透明化されている。部下の機嫌を損ねないよう言葉を選び続け、プレイングマネージャーとして自らの業務目標も達成し、さらには部下のミスの責任まで背負わされる。この過剰な感情労働によって、40代管理職のストレスは限界を超え、うつ病や適応障害で倒れるケースが後を絶たない。
かつては、上司とは絶対的な権力者であると同時に「厳しい指導者」であった。丁寧に仕事を教えてもらえることなど稀であり、先輩の背中を見て技を盗み、理不尽な要求にも食らいついて自ら成長をもぎ取るのが当たり前の世界だった。
筆者が若手の頃、平均値より圧倒的に厳しい上司がついた。分からないことがあって質問をすると「ちょっとは自分で考えろ」と過去に作成された資料を投げられただけのこともあった。手取り足取りなんて教わることがなく、その資料を見て、文字通り盗んで成長したという感覚がある。当時は理不尽な経験も多かったが、上司とは、時に理不尽な壁として立ち塞がり、それを乗り越えることで自分を鍛え上げてくれる存在であった。今振り返ると厳しくも、仕事を通じて鍛えてくれた上司には本当に感謝をしている。
しかし、現代のZ世代が上司に求めているのは、そのような「壁」や「指導者」ではない。彼らが無意識のうちに求めているのは、自分の成長をいかに快適に、いかに無駄なくサポートしてくれるかという「高級ホテルのコンシェルジュ」のような存在である。
彼らは会社を「労働力を提供して対価を得る場」ではなく、「教育サービス」や「心理的安全性に満ちた福祉施設」として捉えている。このお客様マインドが極まると、上司に対する要求はエスカレートし、ビジネスの常識から完全に逸脱していくことになる。
「最近、やる気出ないです。もっとやりがいのある仕事を振ってくださいよ」
「言い方がきつくて傷つきました。もっと褒める感じの言葉にしてください」
「この仕事をやる意味がわからないんですけど、僕が納得できるよう説明してください」
これらの発言は、決して一部の極端な例ではない。現場の管理職であれば、一度は似たようなセリフを耳にしたことがあるはずだ。彼らは悪びれる様子もなく、平然とこれらの要求を突きつけてくる。こうなるともうどちらが評価者か変わらなくなるようなセリフだ。だが冷静に考えてみてほしい。企業と労働者の関係は、雇用契約に基づくビジネスの取引関係である。会社は給与という対価を支払い、労働者はそれに見合った業務を遂行する義務を負う。そこには「やる気」や「やりがい」といった個人の感情が入り込む余地は本来ないはずだ。プロのビジネスパーソンであれば、自分の機嫌は自分で取り、モチベーションの高低にかかわらず、与えられたミッションに対して一定の成果を出すのが当然である。それが「給料をもらう」ということの意味だ。
しかし、Z世代の頭の中では、この前提が完全に逆転している。「自分にやる気を出させるのは上司の仕事であり、自分が気持ちよく働けないのは環境を整えられない会社の責任である」と本気で信じているのだ。
Z世代部下を持つ管理職は、プレイングマネージャーとして自らの重いノルマを抱えながら、部下の顔色を伺い、言葉を選び、彼らが少しでもつまずかないように先回りして障害物を排除することを求められる。そして、見事な環境を整えてあげて初めて、部下は「まあ、これならやってあげてもいいですよ」という態度で仕事に着手する。もし少しでも石につまずいて転べば、「どうして道に石を置いたままにしたんですか!心理的安全性が担保されていません!」と激しく会社を糾弾する。
このような関係性が長続きするはずがない。上司は部下の親でもなければ、メンタルケアの専門家でもない。限られたリソースの中でチームの成果を最大化するために配置された、会社の機能の一部に過ぎないのだ。
対等なビジネス関係から逸脱し、上司を「自分に奉仕するサービス業者」へと貶める彼らの振る舞いは、氷河期世代が長年培ってきたプロフェッショナリズムへの重大な侮辱であり、現場の疲労を極限まで高める最大の要因となっている。この歪んだ甘えを断ち切らない限り、上司と部下の間に健全な協力関係が築かれることは永遠にないだろう。