控訴審の判決では、GPS電子監視ブレスレット着用の期間を1年と定めており、大きな縛りとなっている。ルペンはこれまで、「ブレスレットを着用したまま、選挙運動はできないから、その場合には立候補しない」と言ってきた。しかし今回の判決が出た直後には、最高裁にあたる破棄院に上告すると言明した。
自分は無罪であるとともに、破棄院でブレスレット着用の刑は無効ないし減刑されるはずだから立候補には正当性があると、ルペンは強弁する。
ただ、ブレスレットを着用したままの選挙運動がどれだけ可能なのか、その期間はどのくらいになるのか。破棄院でどのような裁定が下るにせよ、今回の控訴院の判決は、司法が有罪とし、刑を科したが、その実行そのものは国民の投票による裁き、そして政治の決定にその最終的判断を委ねたというのがその真意だ。それは実はパリ軽犯裁判所の第一審の判決の本質でもあった(拙稿同上参照)。
こうした政治的判断を重くみる風潮はフランスのような自由を重視する国の特徴であるともいえる。控訴院の裁判官は自らの判決に対して判決後、「『立候補の自由』、そして『有権者の選択、表現の条件、民主的投票の自由』を尊重した」と語った。「あなたはこの判決に満足ですか」というメディアの質問に「部分的には、ね」と繰り返した。
司法で裁けるのはここまでだという気持ちを伝えたかったのではないか。上辺では共和主義者を名乗りつつ、その真意は疑わしいとはいえ、世論調査でトップの政党の代表者を司法の論法だけで裁いてよいのか。
本件で言えば、ルペンが言うように議員秘書の給与や資金の流用は自分たちだけではない、自分たちはむしろ政治の生贄にされた、という言い分の判断は難しい。その意味では政治家のスキャンダルがあまねく政治的動機に発しているといって過言でないことは周知のことだからである。
今回の例で言えば、悪例の先例となるかもしれないが、大統領の最有力候補を司法の手続き的解釈で抹殺してよいのか。政治の問題だ。これはどこにでもある永遠の課題だ。
その意味では、今回の判決に関しては、極めてフランス的な政治風土の中の思考様式が反映していたように思う。同じような政治環境は想定しにくいが、大物政治家が罪を問われた時に、その罪をどのようにあがなうのか。
公人であるから、それは有権者を欺く行為として信頼を欠くべき行為だ。その罪はより重い。倫理的道義的には厳罰に値するが、一方で人間の良心のどこかに、倫理的判断だけが、最優先されていいのかという気持ちもある。
我が身を振り返ってみても自分が完璧に道義的に常に正しいとは言い切れない。そういう後ろめたさは多くの人が共有するのも事実だ。
それは司法では割り切れないところがある。その判断は個々の事例によるしかないが、その意味では政治的判断だ。
法律は絶対的なものではない。その解釈は千変万化な可能性を含み、法律ですべてがカバーされているわけではない。過去の判例主義といっても実はその適用には時代の価値観が反映する。
そしてデモクラシーの下で、法制度の価値観や適用は変化する。法制度とは絶対的なものに見えて、結局は時々の為政者の意図が反映することは歴史が繰り返してきたことだ。それこそ司法と政治の戦いだ。
今回のルペン裁判の要点は、まさに司法と政治のせめぎあいの中での「国民全体にとって何が良識的判断か」という終わりのない問いの追求だった。それをフランス人は大切にしたのだ。
今回の控訴院の判決は「司法の裁きとペナルティーはルペンに科した。1年後に裁くのは国民だ」と国民に問いかけた、そういう判断だった。ルペンを大統領として迎えるのか、否か。その大決断は国民の総意でなければならない。