武蔵小杉“居住不能事件”以後、世間のタワーマンションへの評価低下が鮮明に

 つまり、台風19号による被災事件の以前から、タワマンそのものに疑問や違和感を抱いていた人々は一定数存在したのだ。それが、あの出来事で一気に表面化したのではなかろうか。

 私は昭和時代の京都で生まれ育った。ご存じの通り、京都にはタワマンがない。超高層な建物は一部のホテルくらい。それも市の中心部からは幾分離れたところにある。そういった環境で育ったせいか、東京にやってきて初めてタワマンを見た時には恐ろしい違和感が心の中に生じた。

「人間は果たしてこんなものを、つくってよいのか」

「こんなところに住むべきなのか」

 しかし、多くの人がタワマンに喜んで住み始めた。普通のマンションよりも価格が高いのに、それを払って住むことに喜々としている。私は長らく変わっているのは自分で、世間の大多数はタワマン好きであると考えてきた。まあ、そういったことは私の人生ではままあることなので、気にもしなかった。

 しかし、ある時にタワマンに対して否定的な見解を表明したら、かなりの反響があることに気付いた。それも、私の考えを頭から否定するようなヒステリックな内容が多かった。

 人間は痛いところを衝かれた時に、そういった反応をすることが多い。ジャーナリストとして活動する私にとって、自分の見解に対する否定的な反応はむしろ歓迎すべきなのだ。なんといっても、それだけ私の考えが逆に刺さっている、ということなのだから。

 その後、タワマンについていろいろと調べた。どうやら、私がタワマンを造形的に醜悪だと捉える感覚は、日本では少数派でもヨーロッパではかなりの多数派であることがわかってきた。私の勝手な解釈では、京都もヨーロッパも昔の街並みを大事にする。そういう価値観のある人の眼には、鉄筋コンクリートの塊であり、やたらと存在感を誇示するかのようなタワマンは醜悪に映るのだろう。

 そして台風19号は結果的に、少数派だと思っていた私にもかなりの同調者がいることを教えてくれた。さらに、タワマンに対して肯定派でも否定派でもない中間層に対して、タワマンという住形態の脆弱性や災害リスクを強烈に提示してしまった。多分、中間層の何割かを否定派に傾いたのだと想像する。だからこそ、2020年になってからタワマン自体に疑問を呈する方向性での、メディアの企画が増えたのだと思う。

「こんなのは一過性で終わるだろう」

 あの台風通過後にメディアが次々に接触してきた時期に、私はそう考えていた。しかし、どうやら私の予測は外れた。世間の眼は、徐々にではあるがタワマンに対して冷たくなっている。

(文=榊淳司/榊マンション市場研究所主宰、住宅ジャーナリスト)