精神科医が語る、石原莞爾“ADHD”の可能性…成績優秀と奇行、東條英機を罵倒して左遷

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満州事変の首謀者であり、“帝国陸軍の異端児”と呼ばれた軍人・石原莞爾。太平洋戦争に至る戦前昭和の歴史は、石原抜きには語れない。(写真は1934【昭和9】年頃の石原、画像はWikipediaより)

 1931年(昭和6年)9月、中華民国の奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)をきっかけとして、関東軍は満州全土を占領するに至った。これが満州事変である。

 関東軍とは旧日本軍の部隊のひとつで、当初、遼東半島先端にある関東州の守備などを目的としたためこう呼ばれ、司令部は旅順に置かれていたが、中央の了解なしに独断専行でこの作戦を実施したのであった。

 その後、関東軍の主導の下に満州は中華民国からの独立を宣言し、1932年(昭和7年)3月、満洲国が建国された。元首(後の満洲国皇帝)には、清朝最後の皇帝であった「ラストエンペラー」愛新覚羅溥儀が招かれた。

 満州事変の首謀者のひとりである石原莞爾は、代表的な軍国主義者としてみなされることが多いが、実は一風変わった才能豊かな独特な思想を持った人物でもあった。

 石原は、昭和3(1928)年に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任し、自身の「最終戦争論」を基本として、「満蒙領有計画」を実行に移し、1万数千人の関東軍で広大な満州を占領した。

 満州国の建国にあたって石原は、「王道楽土」「五族協和」をスローガンとし、日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと主張し、日本と中国を基盤にした独立国を構想した。さらに関東軍に代わって満州国協和会による独裁制によって、満州国を自立させようと企てた。しかしこうした石原の行動は軍部の主流派であった東條英機らとの対立を生むこととなり、閑職に左遷となっている。

 本稿の記載にあたっては、『石原莞爾 生涯とその時代』(上下巻、阿部博行著、法政大学出版局)、『石原莞爾』(青江舜二郎著、中公文庫)、『鬼才 石原莞爾』(星亮一著、潮書房光人新社)などを参考にした。

鶴岡生まれ、14歳で仙台の陸軍幼年学校へ…奇行が目立ち、美術の授業では「便所において我が宝を写す」

 石原莞爾は1889(明治22)年に、山形県西田川郡鶴岡(現在の鶴岡市)で誕生した。父親は警察官であり転勤が多かった。子ども時代の石原は、手が付けられないほど乱暴であると同時にいたずら好きで利発であり、成績は常にトップクラスだった。石原は10人の兄弟姉妹の三男であったが、うち4名が夭折している。

 石原の小学校時代の同級生は、「恐ろしく腕白」だが、「それでいて、なかなか義侠心があって、上級生が下級生をいじめたりすると、飛んできてかばってくれた」と述べている。

 次に記すのは、小学校の授業についての石原の回想である。

 私は小学校で割合出来る方でしたが、授業は一番出来ないビリを相手にするから、50分の時間退屈して困る。仕様がないから、先生の隙に乗じて前の頭をコツンと殴る。それから先生が余り油断してをると、奇襲作戦の稽古として、二三人おいた先を殴る。

 また次のエピソードは、石原の隣人によるものである。

 ある時、私の長男の子守りが莞爾に向かってアカンベーをした。莞爾は怒って、棒を振り上げ「背負っているのは中根の子供ゆえ、ケガをさせてはならぬから早く降ろせ。貴様ばかりは殺してやる」といって追いかけてきたので、子守りは青くなり、家に逃げ込んでくる。家族は驚き、やっと莞爾をなだめて帰すようなこともありました。

 石原は鶴岡の荘内中学をへて、14歳のときに仙台の陸軍幼年学校に進学、ここでも成績は常にトップクラスだった。試験のときにはいつも一番先に答案を出し、悠々と教室を出ていった。しかしスポーツは苦手で、さらに日常の態度は優等生とはかけ離れていた。教官や上官の言動を気にすることもなく、時には真っ向から彼らの説を否定しゆずらないことも多かった。