ジェネリック最大手の日医工、なぜ経営破綻に陥ったのか?売上至上主義の末路

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日医工のHPより

 ジェネリック医薬品(後発薬)最大手の日医工が私的整理の一種、「事業再生ADR」を申請したのは、業績が急激に悪化してからである。2022年3月期の連結最終損益は1048億円の赤字だった。2月時点で予想した赤字(186億円の赤字)の5.6倍。赤字幅は21年3月期の41億円の赤字から急拡大し、債務超過寸前の状態になっていた。

「メインバンクの三井住友銀行から十分な融資枠を確保している」(日医工)と説明している。日医工は日本政策投資銀行や3メガバンクが出資する事業再生ファンド、ジャパン・インダストリアル・ソリューションズ(JIS)から最大200億円の出資を受けることで基本合意したことを明らかにしたが、前途は多難である。

 事業再生ADRには伏線があった。21年3月、製造や品質管理に問題があるとして、主力の富山第一工場(富山県滑川市)で32日間の医薬品製造の停止と、24日間の医薬品製造販売業としての業務停止命令を受けた。21年4月以降、製品の自主回収が相次いでいた矢先だった。

 富山県は事前通告なしに富山第一工場に抜き打ち査察を行い、これが一連の製品回収のきっかけになった。出荷試験によって不適合とされた製品を不適切な手法で再試験することが10年ほど前から行われていたことが判明。別のサンプルを使ったり、錠剤を砕いたあと再び加工したりしていた。

 ジェネリック医薬品メーカーでつくる日本ジェネリック製薬協会(澤井光郎会長=沢井製薬会長)は20年3月、日医工を5年間の正会員の資格停止処分にした。除名処分の次に重い処分である。

ジェネリック急拡大の背景

 肥大を続ける医療費を抑えるため、政府はジェネリックの使用を促進してきた。2005年に32%だったジェネリックの使用割合は20年秋には78%まで急上昇した。追い風に乗り日医工の業容も拡大した。田村友一社長は「売り上げ至上主義者」(日医工の関係者)といわれている。M&A(合併・買収)を連発して急成長を遂げた。

 M&Aの軌跡を辿ってみよう。日医工の創業は1965年にさかのぼる。53年、富山大学薬学部を卒業した田村四郎氏が日本医薬品工業を設立し、ジェネリック医薬品の製造・販売を始めた。新薬の特許が切れた薬と同じ成分ものを後発医薬品として売り出す。新薬メーカーのように多額の研究開発投資を必要としないため価格を安くできる。価格は新薬に比べて3割から7割安かった。

 2000年、創業者の長男、田村友一氏が社長の椅子を引き継いだ。学習院大学文学部心理学科卒。住友商事を経て、米シアトル・パシフィック大学に2年間留学。国内外で武者修行をした後、89年、日本医薬品工業に入社した。2005年、社名を日医工に変更した。1981年、名証・大証2部に上場、2006年、名証・大証1部に昇格した。10年には、悲願としていた東証1部に上場した。現在、プライム市場である。

 04年、マルコ製薬の事業を引き継いだ(現・愛知工場)のがM&Aの始まりだった。08年、テイコクメディックスを子会社にした(現・埼玉工場)。14年、アステラス製薬子会社の工場を取得(現・静岡工場)。16年には米国市場を開拓するため、ジェネリック注射剤製造の米セージェント・ファーマシューティカルズを手に入れた。

 18年、エーザイの子会社エルメッドエーザイを170億円で買収。まず株式の20%を握り、19年4月、完全子会社にした。エルメッドエーザイの売上高は280億円。買収により日医工の国内シェアは15.8%となる。業界トップの沢井製薬を抜いて首位の座を固めるのが狙いだったとみられている。