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ヴェネツィア
五つ星ホテル①
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「……ん?」
なんか眩しい……
リビングのほうに明かりと話し声を感じて、私はゆっくりと目を開けた。
「今、何時……」
独り言ち目を擦りながら枕元に置いてあるスマートフォンを手探りで取り、時刻を確認すると午前二時ごろだった。
え? まだこんな時間……
まさかトモ、寝てないの?
ヴェネツィア観光をするなら早く寝ないといけないのに……。そう思いながら、リビングのほうを見つめベッドからおりる。
夜更かしはダメだよと言おうと思い、リビングへと向かうとパチパチとノートパソコンのキーボードを叩く音と書類をめくる音。それから話し声が聞こえてきた。
その様子を見るに仕事をしているのは一目瞭然だった。
あ……そういえば、トモは社長さんなんだよね。その上、イタリアは現在サマータイム中だから、日本との時差は七時間。つまり日本は今午前九時ごろというわけだ。
あちらの時間に合わせるなら、どうしても深夜に動くことになるだろう。
忙しい中イタリアに来て、そして今私の世話をやいている。トモは本当にそれで大丈夫なんだろうか?
私は心配になりながらも仕事をしている熱心な彼の姿から、目を逸らすことができなかった。声をかけるタイミングが分からず、その場から動けない。
高い鼻梁が影を作り、西洋人に引けを取らないくらい彫りが深い。普段は前髪を上げているから見えている額が、今は前髪がおりていて見えない。それが何やら幼さを感じさせて、ドキッとした。
男の人なのに、なんて綺麗な顔なんだろう。
わざわざイタリアまで、初恋の人を探しに来なくても、彼なら選り取り見取りだろうに……。どうして私にこだわるんだろう。
「……」
人は恋をすると、脳内にフェニルエチルアミンが作られることが過去の研究からも分かっている。これの働きでドーパミンが過剰に分泌され興奮状態となり正常な判断ができなくなる。謂わば恋愛ホルモンの分泌による一種の錯乱状態というやつだ。
だからこそ、仕事が忙しいのにイタリアにまで来てしまうという無謀なことができてしまうのよ。
私は彼を見つめながら、はぁっと深い溜息をついた。
彼が私を好き? こんな綺麗な顔の人が私を? なんで?
やっぱり脳の錯覚なんじゃないかしら?
彼は一目惚れによる衝動に突き動かされるままにイタリアにまで来ておきながら、責任感で私のために時間を割いいる。……私が初恋の人だと気づいていないのだから、本当なら私に構っていないでお目当ての人を探しに行くのが普通なのに……
「花梨奈さん?」
私がボーッとそんなことを考えていると、声をかけられてハッとする。気がつくと目の前にトモがいた。彼は優しげな目で私を見ている。
目の前に来られたことに気がつかなかった……!
「すみません、起こしてしまいましたか?」
「ううん、大丈夫。それより仕事忙しいんだよね? なら、私と観光してないで帰ったほうが……」
「仕事や会議はパソコンがあればできますし、何も問題はありませんよ。それに僕が二週間いないくらいで揺らぐほど、うちの会社は落ちぶれていません。花梨奈さんは心配しなくても大丈夫ですよ」
「そうなんだ……」
まあそうだよね。今は離れた場所にいる者や機器が通信回線やネットワークなどを通じて結ばれている。だから距離なんて関係ないのかもしれない。
私がふむふむと納得していると、「それに、うちの社員は皆有能なんですよ」と言いながら、彼の手が私の頬を撫でた。
その彼の手に不覚にも心臓の拍動がいつものリズムを乱してしまう。
彼の手つきが優しい。彼は出会ってからずっと私に宝物みたいに触れる。そうされると、私はどうしていいか分からなくなってしまうのだ……
まだ出会ったばかりなのに、どうして貴方は私の心を掻き乱すの?
それは父が決めた政略結婚の相手だと分かっているからだろうか。その彼に自分の正体がバレないように……という思いがいけないの?
私はその戸惑いを隠すように、ふいっと視線を逸らした。
「花梨奈さん。もう寝ないと、朝起きられなくなりますよ」
「それはこっちのセリフだよ。トモは寝ないの?」
「僕はもう少ししたら寝ます。楽しみにしているのは僕も同じですから、ちゃんと眠るので安心してください。それとも、おやすみのキスが必要ですか?」
「え?」
その言葉を言い終わるのと同時に、トモの顔が近づいてくる。
「ちょっ、ちょっと待っ……」
胸がドキドキして一気に赤面した。私が顔を真っ赤にして慌てて目を瞑ると、額にキスが落ちてくる。
「おやすみなさい、よい夢を」
「……っ」
なんだ、おでこか。びっくりした。
私はホッと胸を撫で下ろしながら、彼から大きく距離をとった。
「私、もう寝るから……。おやすみ。トモもほどほどにして寝るんだよ」
「はい、おやすみなさい」
私はトモから逃げるようにベッドルームに飛び込んだ。
「口にキスされるかと思った……」
不意に漏れ出た言葉に、ドギマギしてしまう。
私は自分の気持ちを振り払うようにベッドへと潜り込んで、きつく目を閉じた。
***
「う……寝坊した……」
翌朝、目が覚めると九時だった。気怠げにベッドから体を起こすと、だだっ広いベッドには私一人しかいなかった。
トモはもう起きているのかしら?
そう思ったあとにハッとする。
いやいや、普通に考えてもう一つのベッドルームで眠っているんだよ。付き合ってもいない男女が同じベッドで眠るなんて、そんなのあり得ない……
トモの距離が近いせいで、つい同じベッドで眠るのかなと思ってしまっていたけど、ベッドルームが二つあるのだから、そんなわけない。
ドキドキしてしまっていた自分がバカみたいで、私はバルコニーから差し込んでくる陽の光をぼんやりと見つめた。
余計なことを考えて高鳴った胸を塗り替えてくれるくらい美しいオーシャンビューだ……
「おはようございます」
私が体を起こしたまま、ぼんやり景色を眺めていると、トモが私の隣に腰掛け髪を梳くように頭を撫でてくる。寝起きの顔のまま、ゆっくりと彼を見上げると、「よく眠れましたか?」と微笑みかけてくれた。
その彼の表情に、また心臓が大きく跳ねる。
「あの……トモ。近いよ……。ちょっと離れて……」
「昨日言ったでしょう? 花梨奈さんだけにするって……」
「は……い?」
彼はそんなことを言いながら、私の頭に鼻をすり寄せてくる。
いや、昨日のはそういうつもりで言ったんじゃないんだけど……
私は上手く伝わらないことに大仰な溜息をついて、視線を下げた。が、下を向いた顔はすぐにすくい上げられてしまう。
「どうしました? まだ眠いですか? 朝食を食べられますか?」
心配そうな彼の視線とかち合って、私は少し困ったように笑った。
もうこの近さは諦めたほうがいいのかもしれない。そもそも、この人にはパーソナルスペースとかなさそうだし……
「えっと……大丈夫。それよりも先にシャワーを浴びようかな」
「一人で浴びられますか? 何か手伝いましょうか? あ、傷口を濡らさないほうがいいですよね?」
いやいや、昨夜も一人で入れましたけど?
それに怪我は本当に大したことない。そりゃ派手に転んだせいで、まだ見た目は痛々しいし、実際まだ痛いけど、濡らしちゃいけないほど酷くもない。
私はそう聞かれて、大きく首を横に振った。
「大丈夫! 昨日も問題なく入れたのを知ってるでしょ?」
「でも、まだ眠いんでしょう? うっかりバスルームで転んだりしませんか?」
「しないわよ」
シャワーを手伝うという言葉に微塵もいやらしさを感じさせない純粋な顔で小首を傾げるトモに、私は顔を引き攣らせた。
おそらく彼は私のことをとんでもないドジだと思っているのだろう。
あの日は飲みすぎたゆえの失敗なのに……。引きずらないでよ。
「転んだりしないし、シャワー浴びている途中に寝ちゃったりもしないから」
「それならいいんですけど、何かあったらすぐに呼んでくださいね」
「はいはい」
何だろう、複雑だ。彼にとっては私は……ドジを通り越して入浴介助が必要に見えるんだろうか……
もしかして突然肩や腰を抱くのは……実は距離が近いんじゃなくて私が突然転ばないようにとの配慮?
あ、そうかも。
なぁ~んだ、ドキドキして損した。
なんか眩しい……
リビングのほうに明かりと話し声を感じて、私はゆっくりと目を開けた。
「今、何時……」
独り言ち目を擦りながら枕元に置いてあるスマートフォンを手探りで取り、時刻を確認すると午前二時ごろだった。
え? まだこんな時間……
まさかトモ、寝てないの?
ヴェネツィア観光をするなら早く寝ないといけないのに……。そう思いながら、リビングのほうを見つめベッドからおりる。
夜更かしはダメだよと言おうと思い、リビングへと向かうとパチパチとノートパソコンのキーボードを叩く音と書類をめくる音。それから話し声が聞こえてきた。
その様子を見るに仕事をしているのは一目瞭然だった。
あ……そういえば、トモは社長さんなんだよね。その上、イタリアは現在サマータイム中だから、日本との時差は七時間。つまり日本は今午前九時ごろというわけだ。
あちらの時間に合わせるなら、どうしても深夜に動くことになるだろう。
忙しい中イタリアに来て、そして今私の世話をやいている。トモは本当にそれで大丈夫なんだろうか?
私は心配になりながらも仕事をしている熱心な彼の姿から、目を逸らすことができなかった。声をかけるタイミングが分からず、その場から動けない。
高い鼻梁が影を作り、西洋人に引けを取らないくらい彫りが深い。普段は前髪を上げているから見えている額が、今は前髪がおりていて見えない。それが何やら幼さを感じさせて、ドキッとした。
男の人なのに、なんて綺麗な顔なんだろう。
わざわざイタリアまで、初恋の人を探しに来なくても、彼なら選り取り見取りだろうに……。どうして私にこだわるんだろう。
「……」
人は恋をすると、脳内にフェニルエチルアミンが作られることが過去の研究からも分かっている。これの働きでドーパミンが過剰に分泌され興奮状態となり正常な判断ができなくなる。謂わば恋愛ホルモンの分泌による一種の錯乱状態というやつだ。
だからこそ、仕事が忙しいのにイタリアにまで来てしまうという無謀なことができてしまうのよ。
私は彼を見つめながら、はぁっと深い溜息をついた。
彼が私を好き? こんな綺麗な顔の人が私を? なんで?
やっぱり脳の錯覚なんじゃないかしら?
彼は一目惚れによる衝動に突き動かされるままにイタリアにまで来ておきながら、責任感で私のために時間を割いいる。……私が初恋の人だと気づいていないのだから、本当なら私に構っていないでお目当ての人を探しに行くのが普通なのに……
「花梨奈さん?」
私がボーッとそんなことを考えていると、声をかけられてハッとする。気がつくと目の前にトモがいた。彼は優しげな目で私を見ている。
目の前に来られたことに気がつかなかった……!
「すみません、起こしてしまいましたか?」
「ううん、大丈夫。それより仕事忙しいんだよね? なら、私と観光してないで帰ったほうが……」
「仕事や会議はパソコンがあればできますし、何も問題はありませんよ。それに僕が二週間いないくらいで揺らぐほど、うちの会社は落ちぶれていません。花梨奈さんは心配しなくても大丈夫ですよ」
「そうなんだ……」
まあそうだよね。今は離れた場所にいる者や機器が通信回線やネットワークなどを通じて結ばれている。だから距離なんて関係ないのかもしれない。
私がふむふむと納得していると、「それに、うちの社員は皆有能なんですよ」と言いながら、彼の手が私の頬を撫でた。
その彼の手に不覚にも心臓の拍動がいつものリズムを乱してしまう。
彼の手つきが優しい。彼は出会ってからずっと私に宝物みたいに触れる。そうされると、私はどうしていいか分からなくなってしまうのだ……
まだ出会ったばかりなのに、どうして貴方は私の心を掻き乱すの?
それは父が決めた政略結婚の相手だと分かっているからだろうか。その彼に自分の正体がバレないように……という思いがいけないの?
私はその戸惑いを隠すように、ふいっと視線を逸らした。
「花梨奈さん。もう寝ないと、朝起きられなくなりますよ」
「それはこっちのセリフだよ。トモは寝ないの?」
「僕はもう少ししたら寝ます。楽しみにしているのは僕も同じですから、ちゃんと眠るので安心してください。それとも、おやすみのキスが必要ですか?」
「え?」
その言葉を言い終わるのと同時に、トモの顔が近づいてくる。
「ちょっ、ちょっと待っ……」
胸がドキドキして一気に赤面した。私が顔を真っ赤にして慌てて目を瞑ると、額にキスが落ちてくる。
「おやすみなさい、よい夢を」
「……っ」
なんだ、おでこか。びっくりした。
私はホッと胸を撫で下ろしながら、彼から大きく距離をとった。
「私、もう寝るから……。おやすみ。トモもほどほどにして寝るんだよ」
「はい、おやすみなさい」
私はトモから逃げるようにベッドルームに飛び込んだ。
「口にキスされるかと思った……」
不意に漏れ出た言葉に、ドギマギしてしまう。
私は自分の気持ちを振り払うようにベッドへと潜り込んで、きつく目を閉じた。
***
「う……寝坊した……」
翌朝、目が覚めると九時だった。気怠げにベッドから体を起こすと、だだっ広いベッドには私一人しかいなかった。
トモはもう起きているのかしら?
そう思ったあとにハッとする。
いやいや、普通に考えてもう一つのベッドルームで眠っているんだよ。付き合ってもいない男女が同じベッドで眠るなんて、そんなのあり得ない……
トモの距離が近いせいで、つい同じベッドで眠るのかなと思ってしまっていたけど、ベッドルームが二つあるのだから、そんなわけない。
ドキドキしてしまっていた自分がバカみたいで、私はバルコニーから差し込んでくる陽の光をぼんやりと見つめた。
余計なことを考えて高鳴った胸を塗り替えてくれるくらい美しいオーシャンビューだ……
「おはようございます」
私が体を起こしたまま、ぼんやり景色を眺めていると、トモが私の隣に腰掛け髪を梳くように頭を撫でてくる。寝起きの顔のまま、ゆっくりと彼を見上げると、「よく眠れましたか?」と微笑みかけてくれた。
その彼の表情に、また心臓が大きく跳ねる。
「あの……トモ。近いよ……。ちょっと離れて……」
「昨日言ったでしょう? 花梨奈さんだけにするって……」
「は……い?」
彼はそんなことを言いながら、私の頭に鼻をすり寄せてくる。
いや、昨日のはそういうつもりで言ったんじゃないんだけど……
私は上手く伝わらないことに大仰な溜息をついて、視線を下げた。が、下を向いた顔はすぐにすくい上げられてしまう。
「どうしました? まだ眠いですか? 朝食を食べられますか?」
心配そうな彼の視線とかち合って、私は少し困ったように笑った。
もうこの近さは諦めたほうがいいのかもしれない。そもそも、この人にはパーソナルスペースとかなさそうだし……
「えっと……大丈夫。それよりも先にシャワーを浴びようかな」
「一人で浴びられますか? 何か手伝いましょうか? あ、傷口を濡らさないほうがいいですよね?」
いやいや、昨夜も一人で入れましたけど?
それに怪我は本当に大したことない。そりゃ派手に転んだせいで、まだ見た目は痛々しいし、実際まだ痛いけど、濡らしちゃいけないほど酷くもない。
私はそう聞かれて、大きく首を横に振った。
「大丈夫! 昨日も問題なく入れたのを知ってるでしょ?」
「でも、まだ眠いんでしょう? うっかりバスルームで転んだりしませんか?」
「しないわよ」
シャワーを手伝うという言葉に微塵もいやらしさを感じさせない純粋な顔で小首を傾げるトモに、私は顔を引き攣らせた。
おそらく彼は私のことをとんでもないドジだと思っているのだろう。
あの日は飲みすぎたゆえの失敗なのに……。引きずらないでよ。
「転んだりしないし、シャワー浴びている途中に寝ちゃったりもしないから」
「それならいいんですけど、何かあったらすぐに呼んでくださいね」
「はいはい」
何だろう、複雑だ。彼にとっては私は……ドジを通り越して入浴介助が必要に見えるんだろうか……
もしかして突然肩や腰を抱くのは……実は距離が近いんじゃなくて私が突然転ばないようにとの配慮?
あ、そうかも。
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