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ヴェネツィア

ドゥカーレ宮殿①

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 つ、疲れた。
 大鐘楼から降りて来た私はサン・マルコ広場で、あまりの疲労からへなへなと座り込んだ。

 距離感バグっている次元を超えている気がする……

 え? この人、誰にでもこうなの? 

 そんな生き方をしていたら、色々な女の子に誤解されて揉めたりしないんだろうか。そう思い、トモをジッと見つめると、彼は楽しそうに笑いかけてくる。

 それとも気づかないタイプなのかな? 前に誤解されるよって言っても、ちゃんと分かっている感じじゃなかったし……。無意識って怖い。


「楽しかったですね」

 トモは疲れ切った私とは打って変わって元気よく、なぜかツヤツヤしている。その目が楽しそうに細められて、座り込んでいる私を真っ直ぐ見てくる。私は立ち上がり、きつい眼差しで彼を睨みつけた。

 私は絶対に勘違いして好きになったりなんてしないんだからね……

 そう心に決めて、まだ引かない顔の熱を誤魔化すように彼から顔を背けた。


「そ、それよりドゥカーレ宮殿のシークレットツアーは何時から?」
「十一時十分からです。イタリア語のツアーで良かったんですよね?」
「う、うん。ありがとう……」

 ということは、そろそろ受付を済ませて、中庭に集合したほうがいいかな?

 私はまた腰を抱こうとしてきたトモから逃げ、ツンと顔を上げてドゥカーレ宮殿のほうに向かって歩き出す。が、二、三歩歩いたところで、急に腕を掴まれてしまった。


「待ってください。受付票を見せないと入れませんよ」
「そ、そんなこと分かってるわ」

 私は口を尖らせながら彼の手を振り払い、ドゥカーレ宮殿の前に立った。

 ゴシック風のアーチが連続し、イスラム建築の影響も見られる細やかな装飾が施されているとても美しい外観。


 ヴェネツィア共和国の総督邸兼政庁であったドゥカーレ宮殿は別名ドージェ宮と呼ばれ、総督ドージェの住宅、行政府、立法府、司法府、刑務所という複合機能をもった建物だ。

 私は宮殿を見つめながら、気まずさからややつっけんどんに「は、早く窓口に行くよ!」と言って、また歩き出した。


「はいはい」

 トモが笑いをこらえるように肩を震わせながら私の手を取る。その掴まれた手に動揺すると、ぐいっと引き寄せられた。


「畏まりました、お嬢さま」
「~~~っ」

 揶揄われているのが分かって、何かひとこと言ってやろうと思ったけど、何かを言っても負けそうなどころか、返り討ちにあう気がした私は大人しく窓口までついて行くことにした。

 相手にしない。相手にしない。
 私は心の中で、何度も自分に言い聞かせた。


「わぁ! 何度もらっても嬉しいね! このシール!」

 ツアーでは窓口で予約票を見せると、有翼の獅子が描かれた丸いシールがもらえる。これを胸などの目立つところに貼るのだ。

 私はシールをもらえた嬉しさから、さっきまでのことを忘れ、それを掲げて喜んでいた。すると、トモが声を出して笑い出す。

 そんな彼にギョッとすると、「ああ、すみません」と笑いながら謝られた。

「シールをもらって喜ぶなんて可愛いなと……」
「う、うるさいわね。子供みたいで悪かったわね。言っておくけど、共和国時代のヴェネツィアを好きな人からすれば、この有翼の獅子は特別なのよ」
「そうですか? 花梨奈さんだけじゃなくて?」
「そ、そんなことないもん! 今でもヴェネツィアの象徴的存在だもん!」

 私が興奮気味に返すと、トモは私の頭を宥めるように撫でながら、集合場所である中庭までエスコートする。そして、そのシールを私の胸に貼ってくれた。

 本当に私だけじゃなく、ヴェネツィアにとって有翼の獅子は特別だもん。

「ほら、貼れましたよ」
「ありがとう……」

 私は拗ねながら、胸に貼ってもらったシールを見つめた。
 あとで綺麗に剥がして保存しよう……

「それより、中庭にはトイレやクロークもあるらしいのですが、どうですか? トイレに行っておきますか?」
「ううん、大丈夫……」

 なんだろう……。この保護者感。
 やっぱりお世話されている感が否めない。そのついでに揶揄われているんだなと思った私は待っている間、彼から少し距離を置くために中庭を探索することにした。

 とりあえず、中庭を見て心を落ち着けよう。落ち着けたい。


「どこに行くんですか? ウロウロしないで大人しく待っていましょうね」
「まだ時間あるから大丈夫よ」
「でも、そろそろらしいですよ」

 トモに手を引かれ歩き出す。

 やっぱり子供扱いされてるわよね?
 世のお父さんが動き回る幼い娘の世話をしている、的な感じに思える。

 もういっそパパって呼んじゃう? そうすれば気分変わるかも……

「トモってお父さんみたい。パパって呼んでいい?」

 私の問いかけにトモの足が止まる。錆びついた音がしそうなくらいゆっくりと振り返った彼の顔は笑顔だったが、なんだか怖い顔だ。


「やめてください」
「だって……っぅ」

 その瞬間、抱き締められて鼻の頭を噛まれた。私が真っ赤になった顔で口をパクパクさせると、彼が下唇を舐めながら私を見下ろす。

 その捕食者のような視線に視線が釘づけになった。

「花梨奈さん。僕は君へのアプローチの仕方を間違えていたようです。次からは容赦しないので覚悟しておいてください」
「~~~っ!」

 そう言ったトモに腰を抱かれて、ふらふらと歩き出す。腰を支えられてなかったら、立っていられなかったかもしれない。

 わ、私、こんな初っ端から振り回されてばっかりで、本当にトモとイタリアの各地をまわれるの? し、心臓もつかな?

 せめて、あんまりくっつかないでって言わなきゃ……。このままじゃ、私ドキドキのし過ぎで死んじゃう。

 私は真っ赤な顔を俯けたまま、トモと一緒に宮殿の一階――鍵のかかった扉から中に入った。通常の見学コースであれば、ドージェの公邸に向かうのだが、シークレットツアーは一階の鍵のかかった扉から始まる。

 ドゥカーレ宮殿の裏の顔を覗きに行く『シークレットツアー秘密の旅』の始まりだ。


 ***

「これはすごいですね。空気が変わったように感じます」
「そうだね……」

 扉を潜り抜けて最初に出迎えてくれるのが、井戸と呼ばれる牢獄だ。

 特にこの牢獄の環境は酷かったらしく、衛生環境の悲惨さのみならず、冬に浸水するヴェネツィアにとって、凍えるような寒さだったらしい。

 私はさっきまでの動揺を忘れ、ここで暮らす劣悪さと恐ろしさを考えるだけで怖くなった。トモの腕にぎゅっとしがみつく。

 ここは何度来てもちょっと怖いのよね……


「怖いですか? 光がほとんど入らないせいか薄暗いですし。やはり牢獄は見ていて気分のいいものではありませんね」

 気遣ってくれるトモに、「少し怖いかも」と言いながら、彼の腕にほぼしがみつくような状態で歩く。

 以前、一人で来た時もビクビクしていたが、それでも一人なのでもう少しちゃんとできていた。が、今日はトモと一緒なせいかつい甘えてしまう。

 なんだかんだと私も悪いのよね。彼の距離感や優しさのせいか出会ったばかりということを忘れちゃうし。
 
 彼には不思議な魅力がある。つい引き寄せられて彼を拒絶できない魔力のようなものが……


「大丈夫ですか? シークレットツアーじゃなく、普通の見学コースのほうがよかったですか?」
「大丈夫」
「でもこのあと拷問部屋もあるのに……」

 気遣わしげに私を見る彼に、私は考えていたことを誤魔化すようにへらっと笑った。

「大丈夫よ。いざという時は守ってね」
「もちろんです」
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