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ヴェネツィア
ため息橋のジンクス
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「これは素晴らしい階段ですね」
きらびやかな天井画が施された黄金の階段を見て、トモが思わず感嘆の息を漏らす。そんな彼に私は得意げに黄金階段について語った。
「この階段はヴェネツィア共和国時代は、貴族とか外国からのお客様とか特別な人しか通ることができなかったんだよ」
そのことを想像しながら歩くと、さらに特別感が感じられる気がする。
私がお姫様になった気分で黄金階段を一段上がると、トモが微笑ましそうな視線を向けてくる。
「さて、どこからまわりますか? あ……。でももうすぐ十三時ですね。一度食事を摂りに出たほうがいいのでは?」
「え? 嫌よ。シークレットツアーで入っているから並ばずに見学できるんだよ。一回出ちゃうと、また入る時面倒だよ。だからランチはあとで……」
トモはお腹空いているのかな?
でもそうよね……。もうすぐ十三時だもん。そりゃ空くわよね。うーん。でもあと二時間。いや、一時間は欲しいのよね。
私が考え込んでいると、トモが快諾してくれる。
「花梨奈さんがよければ……。ですが、見てまわりたいからお腹が空いているのを我慢しているなら、それはいけませんよ」
「大丈夫だよ。今は胸がいっぱいだから、食事のこととか考えられないもん」
「なら、いいのですが……」
時計を見ていたトモの手をそっと握ると、彼が私の頭を撫でてくれる。
「ごめんね。お腹空いたよね」
「いえ、僕も花梨奈さんの楽しそうな顔を見ているだけで胸がいっぱいになれるので大丈夫です。それに普段は仕事に集中しすぎて昼食を摂り忘れたということもしばしばあるので気にしないでください」
「そっか。じゃあ、簡単にぐるっと見てまわろう。一番上から見学すると効率よくまわれるよ」
「そうですね。なら、そうしましょうか」
トモは私の言葉に優しげな笑顔で頷いてくれる。
そして「それでは、行きましょう」と手を差し出してくれたので、私は彼の手に自分の手を重ねた。
まるで宮殿の中を王子様にエスコートされているお姫様みたいで不覚にもドキドキしてしまった。
ふふ、楽しい。
そのあとは、有名なティントレット作の『天国』が飾られている――まるで美術館のようなヨーロッパ最大の『大評議会の間』を見学し、『羅針盤の間』などの主要な場所を見てまわって、私たちはドゥカーレ宮殿を出た。
時計を見ると十四時半だった……
「思ったより時間がかかったね……」
「花梨奈さんが、かじりつくように見ていたので仕方がないですね。これでも早いほうですよ。僕は今日はもうドゥカーレ宮殿から出られないかと思いました」
「いやだな……。大袈裟だよ」
トモの言葉に私は苦笑いをした。でも私がどれだけ見入っていても語っていても、彼は嫌な顔ひとつしなかった。それどころか優しげな表情を向けてくれる。
その優しさに甘えてしまったのだ。
その後は、軽くご飯を食べてからコッレール博物館や国立マルチャーナ図書館を見学し、そろそろ日没というところでトモの手を引っ張り問いかけた。
「今日は疲れたでしょ? サン・マルコ大聖堂は明日にするとして……。どうしようか? 夕食を食べてからホテルに帰る? それともホテルでルームサービス頼む?」
だが、トモは返事をしてくれないまま私の手を握り歩き出した。
え……?
「ト、トモ?」
「先ほど、ドゥカーレ宮殿でドイツ人のカップルの方に、ヴェネツィア名物のゴンドラに乗って、ため息橋の下で一緒に日没を見ると――ずっと仲良くできると教えていただいたんです。僕は花梨奈さんとこれからも仲良くしていきたいです。だから、ゴンドラに乗りませんか?」
「っ!?」
いきなり何を言い出すのかと、息が止まりそうなくらい驚いた。戸惑っている私をよそに、彼は嬉しそうに話してくる。
た、確かに、日没時にゴンドラに乗って、ため息橋の下でキスをしたカップルには永遠の愛が約束されるというジンクスがある。
でも、それは恋人たちが――という話だ。
変な汗が噴き出してきて、私は何も答えられずに俯いた。トモは立ち止まり、そんな私の顔を覗き込んで微笑む。
「今後のためにもゴンドラに乗りましょう」
「今後って何よ」
うーん。でも、そこまで気にする必要はないのかな。
トモはキスをするというところまでは知らないわけだし。ただ単にジンクスを聞いたから興味本位で乗ってみたいって言ってるわけだし、むきになるほうが変だと思う。
「そうね。せっかくヴェネツィアにいるんだもの。ちょっとくらいジンクスを楽しんでもいいのかもね」
「決まりですね」
トモは意気揚々と私の手を握ってゴンドラ乗り場へと向かい、ゴンドラの漕ぎ手であるゴンドリエーレさんに乗船したい旨を告げた。
ボーダーシャツに黒のパンツ姿のゴンドリエーレさんは、『ため息橋の下で日没が見たい』という言葉を聞いて快く頷き、乗船するように言った。
これは確実に誤解されている……。まあ当たり前よね。
私は冷や汗をかきながら、とてもいい笑顔をしているゴンドリエーレさんとトモを交互に見つめて息をついた。
――ゆるやかにゴンドラが運河を進む。
約千年の歴史を持つとされるゴンドラは船舶技術の傑作とされ、絶妙なバランスで水路を通行する。
水の都の迷路のような狭い水路を、豪華な装飾の小舟に揺られて渡るのはなんとも素敵で贅沢だ。
なので、普段ならキャーキャーと騒ぎ、大運河と小運河のルートを組み合わせ巡ってほしいとお願いして楽しみたいところなのだが、今はそれどころじゃない。
だって……もうすぐため息橋だ。
観光のついでにジンクスを楽しもうとは思ったが、いざ近づいてくると怯んでしまう。
でも、トモはキスをするところまで知らないのよね。なら大丈夫。一緒に日没を見るだけだもん。私はそう言い聞かせてゴブラン織のクッションをぎゅっと抱き締めた。
すると、腰にあったトモの手が知らない間に私の耳に移動して、耳の縁をゆっくりとなぞる。
「ト、トモ?」
「しっ。今は静かに景色を楽しみましょう」
「で、でも……っぅ」
トモが人差し指を私の唇にあてる。そして耳にあった指が、耳から首筋へと滑らかにすべった。
彼の行動に心臓が痛いくらいに鼓動する。動揺しすぎて抱き締めていたゴブラン織のクッションが足もとに落ちた。
あ、クッション……と思ったところで、ゴンドラがため息橋の下に着く。
「花梨奈さん」
囁くように名前を呼ばれ、また唇を指でなぞられる。その行動に一気に心拍数が上がる。彼の指の感触だけじゃなくて、指から伝わる彼の体温に、私はパニックを起こしていた。
「トモ! ほ、ほら、日没! 日没見なくていいの? 私の顔なんかじゃなくて日没を見ようよ!」
「花梨奈さん、これからもずっと側にいてください」
彼の瞳の中に、困惑し動揺する私が映っていると感じた時、ぐっと腰を抱き寄せられ二人の唇が重なった。
「やっ……」
何が起きたのか分からなくて、トモの胸を精一杯押す。が、さらに力強く抱き込まれて、唇の合わせ目をこじ開けられ口の中に舌が入ってくる。
その彼の行動に心臓がけたたましく鼓動する。激しく動くすぎて止まってしまいそうだ。
「やっ……やぁ、んっ」
わ、私、キスすら初めてなのに……!
舌を絡められ軽く吸われると、息が上がった。唇の隙間からくぐもった声が漏れる。
その自分の声が、今まで聞いたこともないような声で――私は全身の血が沸騰しそうになった。
ゴンドリエーレさんは慣れているのか、何も言わない。でも、人がいるところでこんなことをされて、ファーストキスを奪われて、私はもう大パニックだ。それに泣きそう。
なんで? どうして?
もしかして最初からバレていたの? でもだからって、どうしてこんなことをするの?
それならまずは話し合いが必要なんじゃないの?
私が混乱する頭でトモの胸を叩くと、ようやく唇が離れる。その隙に息をついて抗議をしようとすれば、また強引にキスをされる。
苦しさと戸惑いに身を捩ってもトモはやめてくれない。それどころか、逃げられないように腰をしっかりと抱き、貪るようにキスをしてくる。
戸惑いのほうが大きいはずなのに……はじめてのキスなのに……絡む舌を気持ちいいと思ってしまった。
「っ……っんぅ」
くちゅくちゅと水音を立てて好きなように私の唇を味わい尽くしたトモは、満足げに唇を離し、濡れた私の唇を親指でゆっくりとなぞる。
「花梨奈さんのファーストキスをいただけて幸せです。それに異国の地でロマンチックな愛のジンクスを実践しながらのキスに胸が高鳴って、つい我を忘れてしまいました。大丈夫ですか?」
大丈夫じゃない……。そう言って頬を引っ叩いてやりたいのに、私は力が入らずにトモの胸に顔をうずめたまま動けなかった。
きらびやかな天井画が施された黄金の階段を見て、トモが思わず感嘆の息を漏らす。そんな彼に私は得意げに黄金階段について語った。
「この階段はヴェネツィア共和国時代は、貴族とか外国からのお客様とか特別な人しか通ることができなかったんだよ」
そのことを想像しながら歩くと、さらに特別感が感じられる気がする。
私がお姫様になった気分で黄金階段を一段上がると、トモが微笑ましそうな視線を向けてくる。
「さて、どこからまわりますか? あ……。でももうすぐ十三時ですね。一度食事を摂りに出たほうがいいのでは?」
「え? 嫌よ。シークレットツアーで入っているから並ばずに見学できるんだよ。一回出ちゃうと、また入る時面倒だよ。だからランチはあとで……」
トモはお腹空いているのかな?
でもそうよね……。もうすぐ十三時だもん。そりゃ空くわよね。うーん。でもあと二時間。いや、一時間は欲しいのよね。
私が考え込んでいると、トモが快諾してくれる。
「花梨奈さんがよければ……。ですが、見てまわりたいからお腹が空いているのを我慢しているなら、それはいけませんよ」
「大丈夫だよ。今は胸がいっぱいだから、食事のこととか考えられないもん」
「なら、いいのですが……」
時計を見ていたトモの手をそっと握ると、彼が私の頭を撫でてくれる。
「ごめんね。お腹空いたよね」
「いえ、僕も花梨奈さんの楽しそうな顔を見ているだけで胸がいっぱいになれるので大丈夫です。それに普段は仕事に集中しすぎて昼食を摂り忘れたということもしばしばあるので気にしないでください」
「そっか。じゃあ、簡単にぐるっと見てまわろう。一番上から見学すると効率よくまわれるよ」
「そうですね。なら、そうしましょうか」
トモは私の言葉に優しげな笑顔で頷いてくれる。
そして「それでは、行きましょう」と手を差し出してくれたので、私は彼の手に自分の手を重ねた。
まるで宮殿の中を王子様にエスコートされているお姫様みたいで不覚にもドキドキしてしまった。
ふふ、楽しい。
そのあとは、有名なティントレット作の『天国』が飾られている――まるで美術館のようなヨーロッパ最大の『大評議会の間』を見学し、『羅針盤の間』などの主要な場所を見てまわって、私たちはドゥカーレ宮殿を出た。
時計を見ると十四時半だった……
「思ったより時間がかかったね……」
「花梨奈さんが、かじりつくように見ていたので仕方がないですね。これでも早いほうですよ。僕は今日はもうドゥカーレ宮殿から出られないかと思いました」
「いやだな……。大袈裟だよ」
トモの言葉に私は苦笑いをした。でも私がどれだけ見入っていても語っていても、彼は嫌な顔ひとつしなかった。それどころか優しげな表情を向けてくれる。
その優しさに甘えてしまったのだ。
その後は、軽くご飯を食べてからコッレール博物館や国立マルチャーナ図書館を見学し、そろそろ日没というところでトモの手を引っ張り問いかけた。
「今日は疲れたでしょ? サン・マルコ大聖堂は明日にするとして……。どうしようか? 夕食を食べてからホテルに帰る? それともホテルでルームサービス頼む?」
だが、トモは返事をしてくれないまま私の手を握り歩き出した。
え……?
「ト、トモ?」
「先ほど、ドゥカーレ宮殿でドイツ人のカップルの方に、ヴェネツィア名物のゴンドラに乗って、ため息橋の下で一緒に日没を見ると――ずっと仲良くできると教えていただいたんです。僕は花梨奈さんとこれからも仲良くしていきたいです。だから、ゴンドラに乗りませんか?」
「っ!?」
いきなり何を言い出すのかと、息が止まりそうなくらい驚いた。戸惑っている私をよそに、彼は嬉しそうに話してくる。
た、確かに、日没時にゴンドラに乗って、ため息橋の下でキスをしたカップルには永遠の愛が約束されるというジンクスがある。
でも、それは恋人たちが――という話だ。
変な汗が噴き出してきて、私は何も答えられずに俯いた。トモは立ち止まり、そんな私の顔を覗き込んで微笑む。
「今後のためにもゴンドラに乗りましょう」
「今後って何よ」
うーん。でも、そこまで気にする必要はないのかな。
トモはキスをするというところまでは知らないわけだし。ただ単にジンクスを聞いたから興味本位で乗ってみたいって言ってるわけだし、むきになるほうが変だと思う。
「そうね。せっかくヴェネツィアにいるんだもの。ちょっとくらいジンクスを楽しんでもいいのかもね」
「決まりですね」
トモは意気揚々と私の手を握ってゴンドラ乗り場へと向かい、ゴンドラの漕ぎ手であるゴンドリエーレさんに乗船したい旨を告げた。
ボーダーシャツに黒のパンツ姿のゴンドリエーレさんは、『ため息橋の下で日没が見たい』という言葉を聞いて快く頷き、乗船するように言った。
これは確実に誤解されている……。まあ当たり前よね。
私は冷や汗をかきながら、とてもいい笑顔をしているゴンドリエーレさんとトモを交互に見つめて息をついた。
――ゆるやかにゴンドラが運河を進む。
約千年の歴史を持つとされるゴンドラは船舶技術の傑作とされ、絶妙なバランスで水路を通行する。
水の都の迷路のような狭い水路を、豪華な装飾の小舟に揺られて渡るのはなんとも素敵で贅沢だ。
なので、普段ならキャーキャーと騒ぎ、大運河と小運河のルートを組み合わせ巡ってほしいとお願いして楽しみたいところなのだが、今はそれどころじゃない。
だって……もうすぐため息橋だ。
観光のついでにジンクスを楽しもうとは思ったが、いざ近づいてくると怯んでしまう。
でも、トモはキスをするところまで知らないのよね。なら大丈夫。一緒に日没を見るだけだもん。私はそう言い聞かせてゴブラン織のクッションをぎゅっと抱き締めた。
すると、腰にあったトモの手が知らない間に私の耳に移動して、耳の縁をゆっくりとなぞる。
「ト、トモ?」
「しっ。今は静かに景色を楽しみましょう」
「で、でも……っぅ」
トモが人差し指を私の唇にあてる。そして耳にあった指が、耳から首筋へと滑らかにすべった。
彼の行動に心臓が痛いくらいに鼓動する。動揺しすぎて抱き締めていたゴブラン織のクッションが足もとに落ちた。
あ、クッション……と思ったところで、ゴンドラがため息橋の下に着く。
「花梨奈さん」
囁くように名前を呼ばれ、また唇を指でなぞられる。その行動に一気に心拍数が上がる。彼の指の感触だけじゃなくて、指から伝わる彼の体温に、私はパニックを起こしていた。
「トモ! ほ、ほら、日没! 日没見なくていいの? 私の顔なんかじゃなくて日没を見ようよ!」
「花梨奈さん、これからもずっと側にいてください」
彼の瞳の中に、困惑し動揺する私が映っていると感じた時、ぐっと腰を抱き寄せられ二人の唇が重なった。
「やっ……」
何が起きたのか分からなくて、トモの胸を精一杯押す。が、さらに力強く抱き込まれて、唇の合わせ目をこじ開けられ口の中に舌が入ってくる。
その彼の行動に心臓がけたたましく鼓動する。激しく動くすぎて止まってしまいそうだ。
「やっ……やぁ、んっ」
わ、私、キスすら初めてなのに……!
舌を絡められ軽く吸われると、息が上がった。唇の隙間からくぐもった声が漏れる。
その自分の声が、今まで聞いたこともないような声で――私は全身の血が沸騰しそうになった。
ゴンドリエーレさんは慣れているのか、何も言わない。でも、人がいるところでこんなことをされて、ファーストキスを奪われて、私はもう大パニックだ。それに泣きそう。
なんで? どうして?
もしかして最初からバレていたの? でもだからって、どうしてこんなことをするの?
それならまずは話し合いが必要なんじゃないの?
私が混乱する頭でトモの胸を叩くと、ようやく唇が離れる。その隙に息をついて抗議をしようとすれば、また強引にキスをされる。
苦しさと戸惑いに身を捩ってもトモはやめてくれない。それどころか、逃げられないように腰をしっかりと抱き、貪るようにキスをしてくる。
戸惑いのほうが大きいはずなのに……はじめてのキスなのに……絡む舌を気持ちいいと思ってしまった。
「っ……っんぅ」
くちゅくちゅと水音を立てて好きなように私の唇を味わい尽くしたトモは、満足げに唇を離し、濡れた私の唇を親指でゆっくりとなぞる。
「花梨奈さんのファーストキスをいただけて幸せです。それに異国の地でロマンチックな愛のジンクスを実践しながらのキスに胸が高鳴って、つい我を忘れてしまいました。大丈夫ですか?」
大丈夫じゃない……。そう言って頬を引っ叩いてやりたいのに、私は力が入らずにトモの胸に顔をうずめたまま動けなかった。
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